彼の死 あの日のこと    後編

f:id:rainbowworld:20161021060012j:plain

お葬式の後、家庭教師のバイトに行った。一日だけ大泣きして休ませてもらったが、受験も間近に迫っていて、生徒とそのご家族にはこれ以上迷惑をかけたくなかった。だけど、もう生きていたくもなかった。

お葬式が終わった途端、自分の役目はもう終わった、と思った。

伝えることは伝え、通夜にもお葬式にも参列し、彼のお骨を拾わせてもらい、骨壷に入った彼を拝ませてもらった。もう、私のやるべきことは何もないと思った。

バイト中、生徒に問題を解かせている間、泣きたくなって外に出た。冬の京都は寒い。お葬式の帰りにスーツのまま来たので、なおさら寒い。空を見上げて、どうしようもなく考え続けていたことを投げかけた。

「私はめっちゃ幸せやったけど、あんたに出会えて、一緒に過ごせて、めっちゃ楽しかったし嬉しかったけど、私なんかに出会ってしまって、うちの帰りに死んでしまって、まだまだ若いのに、もっといっぱい楽しいことややりたいことがあっただろうに、こんなに早く死んでしまって、あんたはこんなんで良かったんか?私なんかに、会わなきゃ良かったのになー。ごめんなー。」

空からは何も聞こえない。でも聞きたくないかもしれない。

「死ぬくらいなら出会わなきゃ良かったなぁ」なんて、いなくなってしまった今聞いたらもうどうしたら良いのかわからない。

とにかく、私の「彼の彼女」という名の役目はこのお葬式をもって終わったんだ。今日こそ、家に帰ったら、死のう。

 

帰り道、原付に乗って大泣きしながら部屋に向かった。派手な車に乗っていたけどもの凄い慎重な運転をしていた彼とは真反対に、普段からマンホールの蓋でつまずいて原付から体が投げ出されたり(原付大破)、目の前で停車している車にノーブレーキで原付で追突したり(奇跡的に両者無傷)、同じく目の前で停車している車にノーブレーキで自転車で追突したり(これも奇跡的に両者無傷)を繰り返していた下手くそな私の運転は、泣きすぎて前が見えないにも関わらず、こんな日に限ってまるで何かに守られているように安定した安全走行だった。

泣きながら原付を運転しながら、何か不思議な気配を感じた。部屋に何かがあるような、何かが待っているような。思い当たる約束も何もないのに、なんだかそんな気がした。

アパートに着き、3階にある部屋へと向かう。階段を上りながら、やっぱり何かを感じる。部屋の前まで行く。玄関の外からでさえも、やっぱり何かを感じる。ドアを開けるのが何だか怖い。

 

ずっと外にいるわけにもいかないので、思いきって玄関を開ける。

中に入って玄関の電気を点け、何かを感じるリビングの電気を点ける。

パッと明かりがついて、真っ先に目に入ってきたのは、ベッドの上に置かれていた彼のパジャマだった。そのパジャマが、とても嬉しそうにまるで光っているかのように何かを訴えていた。彼の笑顔が見えた気がした。

「オレもめっちゃ楽しかったやん」口元を上品に優しく釣り上げて、いつもの笑顔でそう彼が言っている気がした。

そのパジャマに駆け寄り、また泣いた。

いつもそこにあったのに、彼が亡くなってから一週間、毎日泣きながらそのパジャマを隣に置いて寝ていたのに、もう死のうって思った今日に限って、嬉しそうに微笑んでいる。

「オレも、めっちゃ楽しかったやん」

 

あぁ、彼は楽しかったんだ。一緒に居られて嬉しかったんだ。

そうだ、彼は言っていた。

「オレはな、またここに来たかってんか。ここに来るのがめっちゃ楽しみやってんな。だからな、お前に好きやとか言うて、あかんーってなって、もうここに来れなくなるのがホンマに嫌やってんな。」

「お前んち、おもろいな。変なもんいっぱい置いてある。あ、ミッフィーや。オレ今度来るときおもろいもんいっぱい持ってくるわ。」

そうだ、彼はこの部屋でいつも嬉しそうに微笑んでいた。

そして最終日の夜に、ミッフィーにちなんだいろんなプレゼントを持ってきた。まるで一足早いクリスマスのように。

 

もしもあの時私と出会わなくても、私の知らない場所で私の知らないうちに一生を終えていたかもしれない命に、その最後の9ヶ月間に出会えて知り合えて一緒に時間を過ごすことが出来た。生まれては終わっていくそんな命が無数にあるのに、その一つの彼の命と、その命が尽きる前に一緒に過ごせたことはとても奇跡で幸せなことなんだと思った。

「次に会うのはクリスマスな。4時な。オレが来るって言ったら、必ず来る。出来へん約束はせえへん。ほな、またな。また。」

そう言って、彼はあの日帰って行った。

 

 

それから、いろんな人や友人たちに励まされながら、私はなんとか生きていた。もう二度とかかってくることはないだろうと思っていた彼からの着信がとても悲しく思えた。大学の構内を歩いていると、私はこんなに悲しいのに世界は当たり前のように回るということが何だか衝撃的で、彼の死があまりにも悲しすぎて数日間は世界が三重に見えた。頭か目がおかしくなったのかと思ったが、映画やドラマのような発狂とは程遠い、冷静なただ静かな悲しみの中にいた。ゼミがあったので出席せねばならず、久しぶりに大学に行った日のことだった。ゼミ後に教授たちと大学内のカフェに行くことになり、一緒に行ったゼミ仲間と近況報告などをしていた時のことだった。

「最近どうしてるの?就職決まった?卒業も無事出来そう?」などと聞かれて、

「うん。つい先日、彼氏が死んじゃった。」と答えたと思う。

「え!?」という反応を受けて、話をしようかというところで携帯が鳴った。

見ると「直哉 携帯」と表示されている。心臓が止まるかと思った。

もう二度と鳴ることはないと思っていた彼からの着信に心底驚いて、心臓がばくばく言っている。急いで席を立ち、電話に出る。

「あ、もしもし、、、直哉の母ですけど、、お元気にされてますでしょうか、、」

あの綺麗で優しい、彼のお母さんからの電話だった。お葬式や各種手続きなどが終わり、ひと段落したところでふと、私のことを思い心配になって電話をしてくれたそうだった。

「あの、、これ直哉さんの携帯って出てますけど、、あの、、」私がそう言うと、

「えぇ、いろいろ考えたんですけど、、番号を私が引き継ぐことにしました、、。携帯は事故で傷がついてしまったので、もう使いませんけど。あの子も良く私に携帯持ってくれと言っていたので、、ね、、。」と。

【もう二度とない】と思っていたものが、一つだけ戻ってきた。私は泣きながらお母さんにお礼を言った。お母さんも一緒になって泣いていた。また、遊びにきてくださいねと言われて、あたたかくてまた泣いた。

 

相変わらず毎日毎晩泣いていたが、12月ももう20日になっていた。私は大学の親友と、3泊4日で韓国に卒業旅行に行くことになっていた。帰国予定は25日のクリスマスだった。亡くなった彼もそれを知っていたので、クリスマスの午後4時に私の部屋で会う約束になっていた。でもその彼はもういない。私は気が乗らなくて、キャンセルしようかと迷っていた。

彼女が出来て初めてのクリスマスを、彼はとても楽しみにしていた。専門学校の友人たちはみなクリスマスからお正月にかけて帰省してしまうらしく、誰も遊べないと嘆いていた。本当はイブから一緒に出かけたかったようだったが、あいにく彼と付き合うことになる前からこの卒業旅行は決まっていて、それも非常にがっかりしていたようだった。

旅行から帰ってすぐだと私が疲れるということをとても心配していた彼に、25日の4時なら確実に家に帰ってきてるし、韓国は近いから私は全然大丈夫だと伝えると、

「ほんまに?ほんまにえぇのん?ほな4時に会おか、、?」と嬉しそうに笑っていた。

 

「この旅行は、彼も知っている予定だから。やっぱり行こうかな。」そう思い、やっぱりいくことにした。親友と一緒に京都駅から関空へ、そして韓国へ。行きの飛行機の中で、空に近づくにつれていろんな気持ちがこみ上げてきてずっと泣いている私に、友人は大丈夫か?とだけ声をかける。

この人は、いつもそうだ。言葉が少なくても、気持ちが伝わる数少ない親友だった。

彼が亡くなった後、みんなが私に「元気出してね」「早く忘れた方がええよ」「時間が解決してくれるのを待つしかないね」と声をかけてくれる中で、この親友だけが私に「ごめん。なんて言っていいのかわからん。何も言えないわ。」と言ってくれた。誰からの言葉よりも、その真摯な心が本当に嬉しかった。

韓国について、空港で大学の先輩と合流した。先輩は私の所属していたクラブの人で、もう何十回と韓国に言語習得修行に一人で来ている人だった。この人も、変わり者だけどとても心根の熱い人で、私は大好きだった。

日本では彼がなくなる前から食欲がなかったが、韓国に着いてからは場所と雰囲気が変わったこともあり、また韓国料理がとても合い、嘘のように食欲が湧いて元気が出てきた。生き返るとはこういう感覚なのかと思った。

食事が出来るようになり、雰囲気の違う韓国の街を歩き、気分転換が出来て少し元気になった。生気を養って、いよいよ25日に帰国した。

 

「帰ってももう来ないしな。」京都駅について重い荷物を引きずりながら、時間を潰すためにどこかでお茶でもしようかと考えたが、あまりの荷物にそれも諦めた。

来ないとわかっている約束の時間に、一人で家にいるのはなんとなく嫌だった。

仕方がないので家路につく。アパートに戻ったのは3時半頃だった。

部屋に入ると留守電が入っている。何も考えずに、メッセージを再生した。

「もしもし、◻️◻️花屋です。お花が届いています。ご帰宅されたら連絡ください。」

何?誰?やめて。考えたくない。

恐る恐るメッセージに残された花屋へ電話する。忙しそうな花屋の店員が、簡潔に用件だけ話す。

「⚪️△直哉さんから、あなた宛にお花が届いています。今宅配していいですか?」

 

私は発狂しそうになった。

ようやく、ようやく韓国でまったく違う世界を覗いてきて、ほんの少しだけ日常から逃れられた気がしていたのに、なんで。なんでお花が届くの。彼はもういないのに。やめて。苦しい。

 

花屋と電話でのやりとりを終えて、花が届けられたのが、ちょうど約束の4時だった。

私が留守なのも、留守電を聞く時間もやりとりをする時間も、全てが予定不調和だった。不調和だったのに、完璧なタイミングで花が届いた。約束の、4時だった。

私の頭は今度こそ狂いそうだった。花が届けられた時、まさに玄関口に立っている背の高い彼を見た気がした。彼の満面の笑みを見た気がした。届けられた花が、花以上の何かを放っていた。

苦しい。私はまた泣いた。泣きすぎて声が出ない。壊れる。

花が届いた。亡くなった彼から、綺麗な花が届いた。でも彼はいない。優しくてあたたかい彼はここに居ない。もう助けて欲しい。

花と一緒にカードが添えられてあった。封筒を開けるとそこには、かわいらしいカエルがネコに抱きついていて、2匹で笑って「ずっと一緒」と描かれていた。

「一緒にいてほしい」彼が亡くなってから、ずっと心の中で願っていたことだった。

姿が消えてしまっても、せめて心だけはずっと一緒にいてほしいと毎晩泣きながら祈っていた。その言葉が書かれていた。彼からだと思わざるを得なかった。

 

ひとしきり泣いて、まだ泣き止まないうちに、これは本当に彼なのだろうかと疑問がわいてきた。気を取り直して、花屋に電話をかけることにした。

「先ほどのお花は、いつ、どんな人が注文に来たか覚えていらっしゃいますか?」

「覚えてますよ。ご注文を受けたのは、12月の10日ですね。ご注文に来られたのは、細めの女性です。」

「そうですか。どうもありがとうございました。」

 

電話を切って、段々冷静になっていく頭で考えた。そうか、これは彼のお母さんだ。彼のお母さんがきっと、彼が私にしてあげたかったであろうことを真剣に考えて、お花を贈ってくれたんだ。

不思議なもので、彼からの贈り物であった方が嬉しいはずなのに、私の頭は彼のお母さんからの贈り物であることの方が断然に受け入れやすかった。

気を取り直して、今度は彼のお母さんに電話をかける。お礼を言うためだ。

「こんにちは、お母さん。私です。綺麗なお花、今届きました。どうもすみません。本当にありがとうございました。」

「え、、?あの、、お花って、、どうしたの?あ、ご友人からもらったのかしら。良かったわねぇ、、。」

「え、、いや、あの。またまた。もう良いんですよ。お母さんからでしょう。お花屋さんもお母さんが注文に来てくれたって言ってました。本当に良いんです。なんだか、、どうもすみません。」

「、、、あの、、。何をおっしゃってるのか、、。ごめんね。わからないんですけど、、すみません、、」

「え。あれ、、。あの、、お母さんじゃないんですか?このお花。直哉さん名義で、私宛に綺麗なお花が、、、あの、、約束どうりちょうど4時に、、届いたんです、、けど、、」

やっと状況の飲み込めたお母さんも、この時点で私と一緒に号泣していました。

「そうですか、、あの子がお花を、、。贈りたかったんやろうねぇ、どうしても。」

この時私たちの間には嘘らしいものは何も感じられませんでした。

一緒に驚いて一緒に泣いて、しみじみとしていました。

あの時のお母さんは、決して演技をしている風ではなく、まして嘘をつくのがとても下手な方だったので、決して私を騙しているようには見えなかったのです。

ひとしきり電話口で一緒に泣いて、それじゃぁと言って電話を切った後、やっぱり花屋さんが隠しているに違いないと思った私は、再度花屋さんに今度はお礼を言うために電話をしました。

「あの、何度もすみません。本当にありがとうございました。なんか変なことに巻き込んでしまって、すみません。」

「え?いやだから、細身のすらっとした女の人が来て注文していったんですけど。すみません、もう良いですか?」

 

私にはもう、どちらでも良かった。

花が届いた時、一瞬彼が見えたのは本当だった。彼の笑顔がパァっと見えたのも、本当だった。嬉しそうな笑顔で「なぁ?」と得意げに、約束を守ると言ったことを実行した彼が見えた気がしたのは、私にとっては真実だった。

そしてこのメッセージカードも。誰が選んだ言葉であっても、これが彼からのメッセージであり、真実なのだと思った。

 

しばらくして、彼の親友たちとお墓参りに集まった日のことだった。彼らにクリスマスの花のことを話し、もらったカードを見せた。その時、封筒の中に一緒に入れられていたある曲の歌詞とギターコードの切り抜きの紙を見せた。

友人の一人がその中の一曲を指し、「これ、直哉君が一番好きだった曲やで」と言いだした。すると他の友人も「あ。ホンマや。」と唖然とし始めた。彼らは生前、同じ高校でバンドを組んでいたことがあり、そういうこともあって、亡くなった彼の好きな曲にとても詳しかったようだった。一瞬、みんな同じことを考え、感じたのだろう。誰も何も喋らなかった。少ししてから、教習所の友人が一言「良かったやん、これ届いて。」と言った。

 

「事実は小説よりも奇なり」とこの時ほど思ったことはない。

彼のお母さんが、彼の一番好きだった曲の歌詞とコードを歌謡雑誌から切り抜き、お花とカードと一緒に贈るだなんて、ありえるのだろうか。

これらすべてが本当に「偶然」や「人為的」だというのなら、どんな確率と計算なのだろう?

クリスマスだから、どんな奇跡も起こって良い。

12月は、奇跡の月だから。

 

f:id:rainbowworld:20161207131017j:plain

 

 

 

彼の死 あの日のこと    前編

f:id:rainbowworld:20161022013012j:plain

あの日のこと。

 

私が「目に見えないもの」をはっきりと信じるようになったのは、やはり、近くで死を経験したあの頃からだった。

 

彼の命日は、11月26日。当時私は大学の卒論を書いていた。それを気遣った彼が、クリスマスまでは会うのを控えようと考えて、その前に私の部屋に遊びにきたのが25日の夜だった。

辻調理師専門学校に通っていた彼は、その日学校が終わってから急いで実家に帰宅し、当時大きな悩み事を抱えて食事が摂れなかった私を心配し、特製スープを作ってくれた。作り終えるとすぐに、学校の友人に誘われていたパチンコに付き合い、本当は家まで送る約束をしていたその友人に律儀にもタクシー代を渡し、「ごめんけど、これで!」と言ってまた急いで実家に帰宅し、その日私のところに持ってこようと本人が企てていた大量のプレゼントと手作りスープを持って、私のバイトが終わる頃に合わせてうちにやってきた。

両手に抱えきれないほどの荷物だったので、私に車まで荷物を取りに来てくれと電話してきた。私が車に向かうと、彼はもう途中まで歩いてきていた。大量の荷物を抱えて。

そしてうっかり、鍵を中にさしたままドアをロックしてしまった。

それに気づいたのは朝の6時過ぎだったろうか。ちょうど会員証が切れてしまっていたロードサービスを有料で頼むのは馬鹿らしいということで、一旦実家にスペアキーを取りに戻ることに決めた彼は、ちょっと怖い彼の父親が出勤した時間を狙って実家に電話をかけた。母親の通勤時の乗り換え駅で、スペアキーをもらい受けるためだった。母親に事情を説明し、くれぐれも父親に言わないように念を押し、そしてもちろん父親の耳に入る。そして父親から電話をもらい、怒られる。仕方ない。

結果的にこうして彼は、亡くなる前に両親と話すことが出来、母親は最期に彼と駅で会うことになる。優しくて綺麗な彼の母親は、この時「息子を止めなければ」というどうしようもない気持ちになったという。「気をつけてね」といつも言っている言葉が、どうしても出てこない。言わなければいけないのに、どうしても言えない。

それはその前日の夜に、私が彼に思ったことにとても似ていた。

「どこに行くの?」こんなに近くにいるのに、とても遠いところに行ってしまうようだった。まだ始まったばかりなのに、まだ若いはずなのに、もう終わりを迎えていくかのようだった。そしてそれは、本当だった。

 

私のところを出たのは、昼前だったろうか。私の部屋に遊びにきた当時仲が良かった大学の友人に会って軽く話をした後で、うちを出た。しばらくしてからふと、彼が出てからどのくらい経つだろう?と何かが引っかかった。その友人に彼が出たのは何時頃だっただろうかと尋ねた。「もう1時間位は経ったんちゃう?」と友人は答えた。二人とも確かではなかった。窓を開け外を見るととてもいい天気だった。近くの山では紅葉が始まっていた。それがその日、私が彼の死を知る前に見た、「あの日の、22の私」の最後の景色だった。

 

彼はいつもは実家に着くや否や必ず電話をかけてくる人だった。その日は待てども待てども連絡がない。電話をかけてもつながらない。初めは寝ているだけだと思っていた。何度かけても出ない。寝ているだけだと信じようとした。でも絶対におかしい。何もないわけがない。そう思うと怖くて怖くて不安で仕方がなかった。

当時かけもちでやっていたバイトは一つは居酒屋、一つは家庭教師だった。その日は家庭教師の日で、彼のことを心配しながらもバイトに向かった。仕事中は携帯を触らないようにしていたが、どうしても気になる。生徒に謝り、抜けだしてまた電話をする。つながらない。恐怖で心臓が張り裂けそうだった。

 

バイトを終え、泣きそうな気持ちで家に着く。

必死だったことしか覚えていないが、帰宅後たまたま電話をかけてきた昼間とは違う大学の友人が私の様子を見にちょうど部屋に来てくれたところだった。

夜の10時前だったろうか。ようやく、彼の携帯がつながる。

 

電話に出たのは、か細い声の女性だった。私はほんのわずかに、「やはり寝ていただけだったんだ」と期待しようとした。でも無理だった。そのか細い声の女性は今にも泣きそうで、消え入りそうで、何事もなかったようにはとても思えない何かが伝わってきた。   

「あの、、、直哉は、、、亡くなりました、、、。」

 もの凄い衝撃と共に、頭のどこかで「やっぱり」とうなだれる自分があった。

 

そのか細い声の女性は、彼の母親だった。

「それは、、今日の何時頃だったんでしょうか。」と聞くと、「午後1時29分でした」と答えた。 あのとても綺麗な空の下、窓を開け私が山を見たあの時間は、一体何時頃だったのだろう。虫の知らせなんて、もっと鋭い感覚のものじゃないのか?あの時私はとても優しい空気に包まれていた。優しくて続いていくような何かの感覚さえ感じた。今振り返れば、それは彼の優しさか。でも当時は、彼が亡くなった瞬間さえも感じられなかった自分を責めた。

 

私が年上だったこともあり、そしてまだ19歳だった彼の、近頃の夜遊びを怒っていた父親のことを直前の彼との電話で知ったこともあり、私はとても責任を感じていた。

失ってしまった命のためにできるような罪滅ぼしなど、私にはとうてい思いつかなかったが、とにかく何かしなければと思った。同時にどうすればいいのだろうかと絶望感でいっぱいだった。

ご両親と直接接触するのはその電話が初めてだったが、意外なことを頼まれた。

「息子の友達で誰か連絡先を知っている人がいたら、このことを伝えて欲しいんですが、、、」

まさか、まさか自分が彼の死を、あの日彼に出会うきっかけになった教習所の共通の友人に電話することになろうとは。一体誰がそんな瞬間が来ることをあの日に想像できただろうか。

「⚪️⚪️君と、、△△君なら電話番号も知っていますが、、。」と伝えると、彼らはなかでも特に親しい友人だということで、連絡することを非常にありがたがられた。

悲しみと衝撃の中でも、変な縁を感じた。

⚪️⚪️君に電話をすると、なんの警戒もなくとても普通に電話に出る。

「おー、久しぶりー。何ー、どしたん?」

「うーん。。。ごめん。ごめんな。。。あのな、直哉君、亡くなってん。。」

「何おま、何ふざけてんの?何?え、何?え?マジで?え、何?意味わからん。マジ冗談やろ?」

「。。。ごめん。ホンマ。。」

「え、てか何?お前らまだつるんでたん?え、何でお前知ってんの?え、意味わからん。」

「うーん、、。うちからのな、、帰り道やってん、、事故でな、、。」

いたって普通の反応だと思う。19歳の子の、そして年齢を考えれば素晴らしいほど冷静でいようとしている反応だと思う。でも私はその「お前らまだつるんでたんか」という驚きで少し強めになった口調に、心がえぐられるようだった。本当にごめんなさい。大事な親友を、19歳という若さで死なせてしまった。それを責められているようだった。

 

とんでもないことになってしまった。そしてその当事者である私は、何をするべきなんだろう。どうにもならない考えや心を、どうにも出来ずにいた翌日、⚪️⚪️君から電話がかかってきた。

「直哉君の両親がな、お前に会いたいねんて。どうする?」

「行く。会いに行きたい。どうしたら良いん?」

会ったら、なんて言われるだろう。どうやって謝ればいいだろう。どれだけ罵倒されるだろうか。それでも私は、会いに行かなければいけない。どれだけ責められようとも、私は私の責任を果たさなければいけない。

その電話の翌々日、私は⚪️⚪️君と待ち合わせをして、彼と最後に会った大学の友人と一緒に、彼の実家に行った。砂を撒かれるのを覚悟で臨んだが、ご両親はとても優しく弱々しく、笑顔で私を迎えてくれた。

彼の父親が「5日間ご遺体を家でお世話します」と決めたので、この日私はまだそこで安らかに眠っている彼に会うことができた。(後で彼の父親と、この時どうして彼の写真を撮らなかったのかと、二人で笑って悔しがった。あったらあったで心が痛むだろう。でも「愛しい人は遺体さえも愛しい」という気持ちを二人で後に話したのだった。)

 

ご実家では最期の日のことや、「近頃毎日のように京都に行ってたんは、お宅さんとこでしたか。」など、最近の彼の様子を、怖いはずの彼の父親は私に優しくたずねてくれた。何か他に知っていることはないか、一緒に写っている写真などはないかと聞かれ、ずっと気になっていた「以前撮った写真」のことを思い出し、それを伝えた。「以前、彼がなぜか赤いキティーちゃんのカメラを持っていて、部屋で二人で写真を撮りました。彼はそのカメラをいつも車のダッシュボードの中に入れていると言っていたのですが、、ご存知でしょうか、、」私が尋ねるやいなや、「おーそれな、今現像屋に出してるとこやで。もうすぐ出来るんちゃう?」とのこと。彼が乗っていた車は日産のフェアレディZという車で車高が低かったため、ダンプカーと正面衝突した事故の衝撃で車の前半分が潰れていたとのことだった。もちろんダッシュボードが潰れていても何もおかしくはない状況だったのに、ドリンクホルダーに入れておいた彼の携帯電話とともに、奇跡的に後部座席に飛ばされていてそのいずれも無事だった。彼の携帯が潰れていたら、私も、友人も、事故のことを知るのは後のことだっただろう。

 

いろんな話をした。私の知っている彼のこと、彼が話してくれた両親への気持ちなど、彼が置き土産かのように私に託したメッセージをすべて伝えた。私たちは一緒に泣いた。そして彼の父親も母親も、泣きながらも決して私を責めなかった。それがとても苦しかった。

そして二人は口を揃えて言った。「あなたがあの日あの車に一緒に乗ってなくて、本当に良かった。それを考えるともう本当にいてもたってもいられない」と。

 

あの日あの車に。どれだけ一緒に乗っていればと思ったことだろう。

彼の代わりに、私が死ねば良かったのに。

こんな私が取り残されて、こんなに惜しまれている彼が死んでしまった。

なんでこんなことが起こってしまったんだろう。

 

 

それから数日でお通夜があり、お葬式があった。若い子のお葬式はさながら成人式の前撮りのようで、若くて生命力溢れる子達がみな驚きと悲しみを交互に見せながらとにかく参列していた。私はその中で、ただ泣くしかなかった。斎場の最前列で参列者の方を向きながら立っているご家族を見て、なぜ私はこちら側で、何も出来なくただ泣いているだけなんだろうと思った。なぜ私はこんなにも悲しいのに、あちら側にいられないのだろう。何も出来ない。ただそんなことを思った。

斎場の中を見上げると、上から彼が悲しそうにこちらを見ている気がした。いたたまれなくなった。

お焼香をする順番が回ってきた。私はよろよろと棺に近づき、花を添え、彼のご遺体のおでこにキスをした。ドライアイスでむせかえりそうになり、とても冷たいそのおでこが愛おしく、そして悲しかった。

 出棺直前に、彼の母親がキョロキョロと周りを見渡していた。この日も一緒に参列してくれていたあの日最後に会った大学の友人が、「お母さん、あんたのこと探してると思うよ」と私の背を押した。前に出て棺に近ずくと、彼の母親は泣きながら必死に私に「写真、棺にちゃんと入れたから。ちゃんと、入れさせてもらったからね」と言った。

あの日、実家で話したキティーちゃんのカメラに入っていた私と彼との一生に一度のツーショット写真。撮った時の彼の手の角度は明らかに見当違いの方向を向いていて、絶対に私の顔は写っていないはずだったあのツーショット。大破したZの車体から奇跡的に出てきたそのカメラに残されていたその一枚の写真は、まるで合成処理をしたかのように完璧に二人の姿を中央に据え、3Dのような彼の笑顔とともにしっかりと恋人らしく写っていた。その写真を撮った時は、まだ付き合う数ヶ月前だったのに。この日にこうなるのがわかっていたかのような、完璧な一枚になっていた。

 

本当はあの日、実家でこのカメラのことを伝えたあの日に、彼の父親が約束してくれたことがあった。急いで現像されてきた写真を確認していると、友人たちと撮った他のピンボケした写真の中から一枚だけ、唯一ピントの完全にあったこの写真が出てきた。そこに映る今までと違う少し大人びた笑顔でいる彼の姿を見て、彼の父親が私にこう言った。「これ、お葬式で使う遺影にさせてもらいますわ。ほんま、ええ顔してる。ほんまに、ええ顔やわ。これが良いわ。約束しますわ。遺影に使わせてもらいますわ。」

私はその写真を、そしてそこに映る実家で見るのとは違う彼の表情を大切に思ってもらえただけでもう十分すぎるほど嬉しかった。そしてありがたかった。夜遊びしていると思っていた息子が、良い笑顔で写真に写っているということが、「短い人生だったけど、若い者らしく楽しめたんやなぁ」と言って泣きながら喜んでくれる素敵な家族がいて本当に良かったと思った。それだけで私はとても嬉しかった。

結局、彼のご祖父母達があまりにも見慣れない彼の写真では困るということで、ご家族の写真の中から遺影を選ぶことになった。私はそれを聞いて安心していたのだが、彼の父親からは「口約束みたいになってしまって、ほんま申し訳ない」と謝られてしまった。

そして出棺直前に、泣きながら彼の母親がその写真を入れてくれた姿を見て、彼のご家族の愛情をさらに感じて私はまた泣いた。

 

 

続く

f:id:rainbowworld:20161021060012j:plain

 

 

 

いよいよ12月

f:id:rainbowworld:20161021060012j:plain

というわけで、師走でRUN.ゴーゴー。

ほんと年明けから一瞬でここまで来た感がありますが、とりあえずここまででどんな一年だったでしょうか?

私の2016年は『癒す』と決めた年でした。「癒して良い」と気づいたというか。

まずは「自分を癒して良いんだ」と気づくところから始まり、そしてやっぱり私はお客を癒したいという目的でこの仕事をしているんだということをあらためて自分の路線にした年でした。

というのも、私の仕事は美容関係ですが、私がなりたかったのはセラピストであり、ヒーラーであるということを、どこか違和感を感じていた今年の年初め。美容だけに、「美しい」に重きを置かねばいけないみたいな空気?がどうにも私には今ひとつしっくりこなかったわけですが、「癒す」という路線で良いのだ、と感じた時からそこはとても楽になりました。

 

人はその人らしく笑っているときが一番美しいです。と、私は思っています。

それがたとえシワくちゃでも、スニーカーでも。

 

まったく「女らしくない」子供時代&思春期青年期を経て生きてきた私は、そもそも化粧や香水のキツイ女性はもっぱらアウトで、目を大きく見せるためのアイメイクや付けまつ毛などもどうしても一昔前のオカマ?にしか見えない。。。という受け入れがたさ。

化粧は元来「化ける」と書きますから、まぁ仕方がないとは思いますが、行き過ぎると本来もっている美しいバランスを崩してしまうので、却ってその人らしい可愛らしさが損なわれると思うのですが。

化粧は自然な程度に抑えて、それよりもしぐさや表情に人となりが表れている人が「美しい」人だと、個人的に私は思います。

 

でもどんな人でもストレスに病んでいたり、苦しんでいたりする時は笑顔が曇るもの。そんな時、そんな人たちを、心休まるような空間でトリートメントを施行して癒すことをしたい、というのが今年の私の決意でした。

方向性が定まったので、やりやすかったです。

 

12月はサンタさんの月ですし、奇跡がたくさん見られることを願い、今年を締めていきたいと思います。ということで、昨日はクリスマスに便乗ショッピングしてきて、超ハッピーです。

 

f:id:rainbowworld:20161011000234j:plain

 

生と死   何を伝えよう

 

f:id:rainbowworld:20161118040351j:plain

 

ということで、「伝える」ということに関連して。

「生と死」にまつわる、いろんなかたちがあると思いますが。

今月は私の大切な人の命日がある月でもありますので、触れておこうと思います。

 

つい先日、知り合いのご家族が亡くなりました。突然の事故でした。

病院へ搬送され数日後に、生命維持装置をはずす決断をご家族と医師がされました。

私はこのご家族の衝撃を想い、もしもこれが自分の決断だったらと思うと、涙が止まりませんでした。

 

愛があればこそ、どの死も辛く悲しいものですが、今回は「もしも自分だったら」ということがとても強く胸にこみ上げたので、ここで思ったことを書きます。

このご家族のことを想った時、ご家族のこの我が身を切るほどの決断を、自分だったら出来るだろうかと考えました。想像しただけで、痛くて辛くて悲しくて、涙が出ました。

帰宅後私と旦那とで話し合った中で、辛いけど選ばざるを得ない状況というのを想像するに、やはりそうせざるを得ないのだろうということになりました。愛情溢れる素敵なご家族でした。目の前に横たわるご本人を見る家族だからこそ、するしかない決断という現実に心が引き裂かれる思いです。

 

もう17年も前になります。

私の大切な人は事故で即死と判断されましたが、その時何度私達は「せめて命だけあれば、命だけでも繋がっていてくれたら、どんなに希望があっただろうか」と心の中で叫びました。私も、彼のお母さんも。

即死という、その時にわずかでもつかむ希望が何もないという状態。パツッと糸が切れてしまった後の、何も出来ない虚しさ。どうにもならない無念さ。

でもそれはその状況だったから、そう思ったんです。

わらにもすがりたくて、そう思ったんです。

後に彼のお父さんと話している時に、「もしも、、、」という話がいくつも出ましたが、その時に私たちは想像できうる「もっと辛かったであろう状況」を想い、これが最善だったのだとしみじみと感じたものでした。

亡くなってしまったという悲しい事実をどうやって受け入れていくかが、私たち残された側の亡くなった人への弔いになるのではないか、と思います。亡くなる本人が、一番辛いと思うので。

旅立つ人はその背に荷を背負い、残る人はその背に別の荷を背負うのだと感じたものでした。歩く場所は違えど、空と地で並行に同じ目的地に向かって歩いている、そんな感じ。場所が変わっただけ、その人の魂はそこに存在する。

最期のかたちは、それぞれのご家族やご夫婦、親子関係の愛情に合ったものである、と後に読み漁った本の一節に書いてありました。悲しい別れですが、そこには悲しみだけではない意味があり、それを知ることで家族が救われるような素晴らしいものがたくさん書かれています。

いろんな書籍でとりあげられています。気になる方は、そういった書籍を探されると、より一層故人との出会いや共有した時間の意味合いが深まるかと思います。

 

そして現在へ。

この悲しい報せで、私の回想はもしもこれが「今」私と旦那に、、、という場面に移り。私は思いました。

「このまま旦那を死なせるわけにはいかない」と。

私は普段から、旦那にたくさんの愛情をもらっています。

出会った時から、それがとても伝わる人でした。出会って10年以上経ちますが、今でも本当に真摯に私に愛情を伝えてくれます。

だからもし、私が今死んでも、私は旦那に『愛されている』ということを感じて旅立つわけです。私は「知っている」というこの感覚で。

この逆はどうかと考えた時、私はハッとしました。

「旦那は私に愛されていることを、知っているのか?」

見送れない。私は旦那を見送れない。もし今旦那が旅立つとすると、彼はきっとその肉付きの良い背を丸めメソメソしながら淋しく旅立つ準備をすることでしょう。

あかんあかん。それはあかん。

 こんなに良い人を、こんなに愛くるしい人を、淋しくメソメソ旅立たせてはいけない。

いつもの肉っぽい笑顔で、幸せそうに「愛されてました。てへぺろ⭐︎」とニコニコ旅立たせてあげなければ。旦那がそう思えるまで、私はもっと愛情を伝えなければ。

 

いつ何があるかわからない。人はみんな老いるし、いつか旅立つ。

そのいつかがいつかはわからない。誰にでもくる。だって生きているから。

老いなくても病まなくても、みんな必ずいつか旅立つ。

でも『その時』に、ちゃんと私の気持ちは伝わっているかな。

愛されたことを知って、次のステージにすすめますように。

「愛を肉に伝えよう」が私の今後のテーマになりました。

 

愛があれば、遠距離も異次元もきっと繋がれると信じて。

f:id:rainbowworld:20161021060012j:plain

伝えるということ

f:id:rainbowworld:20161005215755j:plain

なんだかすっかり週一ブログになってしまった。このブログを始めた時は時間があったので、もっと頻繁に書いていくものだと思っていたのだけど。

実際は、自分の心の中のことを出すって、やっぱり疲れるんだな、と。

疲れるというより、なんていうか傷つくというか。

 

元来、人目も気になるし、いざこざも起こしたくない性格で。だから普段、自分の「本当に思っていること」は誰にも話さないわけで。

自分が傷つくことよりも、本当は誰も傷つけたくないわけで。

だけどそれでは自分の感性で感じたことは一体どこにいくのか、とか、なんで生まれてきたのか、とかまで私の思考は流れていってしまうので、ここでこうして外に出そうと思い、始めたのがこのブログです。

すべての人に耳あたりの良いものなど出てくるはずもないのですが、私の拙い表現や変な書き方で傷つく人や不快に思う人もいるのだなと、当たり前ですが悲しくもあり。

嫌な思いをした方、ごめんなさいね。

私はあなたの立場からはモノは書けないけど、それは私が私のいる場所から見えている側面を感じて書いているというだけですから。

みんなの見ている世界は、それぞれ違うということしか、私にはわかりません。傷つけてごめんね。

 

f:id:rainbowworld:20161022014517j:plain

 

 

 

 

 

変化

f:id:rainbowworld:20161022014517j:plain

今日はこちらは11月11日です。新しい変化の日だとか。

 

Q. あなたは変化を望む?

A. ①イエス ②ノー ③変化は怖い ④変化は楽しい ⑤変化に出くわすと怒る

 

昨日も一昨日も記事を書いては消し、書いてはまた直し、結局書けないので全削除。

「変化前」の心身の浄化作用ということで、私を含む多くの人が体調不良や無気力、倦怠感など感じていたようです。私はここ2週間ほど、がっつり落ちてました。orz   出口、ないんじゃないかと思った。

今朝起きて、ちょっと心が軽い。ホッ。

 

今週は大きく変動する週だそうで。アメリカ大統領選挙に11月11日の変化の日、そして14日は68年ぶりのスーパームーン満月も控えているためだそうな。

普段から満月と新月は人の状態が揺さぶられます。接客業なんてやっていると、よもや笑うしかないというほど狂気の沙汰になります。みんな薬でもやっているのかなと思うときもありますが、そういうことじゃ(それだけでは)ないらしい。新月では感覚が繊細・鋭くなったり、満月では不要なものが解放されたりということらしいです。

 

総選挙、今後の最善の変化を祈りましょう。

誰がやるかより、どう良くなっていくか。メディアに洗脳されてしまってはいけない。

我が家のテレビはネットを写すだけの箱と化していますので、テレビとしての選挙やその他の一切に関わる情報が入ってきません。入ってくるのは唯一職場でアメリカ人のお客さんを相手にしている時くらい。

といっても一応カレッジでは「宗教、政治、婚姻や市民権に関わる一切の会話をしてはいけない」とがっつり教え込まれていますので、そういったことを私から聞くことは絶対にありえないのですが、普通の主婦層の同僚はまるで井戸端会議のようにいとも簡単にその辺のタブー会話を始めます。

選挙前からだいぶやられていた様子のアメリカ人達でしたが、みなさん口を揃えて「国を出たい」と言ってました、確かに。選挙活動が悪口大会って、どうなんでしょう。テレビをつければ候補者二人のゴシップや悪事の偽造情報や暴露ばかり。見れば見るほど「極悪人二人」のいずれかを選ばなければいけないという最悪の択一。「結果なんてどうでもいいから、とにかくもう早く終わって欲しい」と嘆く声をちらほらと聞きました。実際のところ、メディアは毎日毎日悪夢のような選挙活動の情報を流し続けるわけですから、国民のエネルギーってば相当ダメージ受けているでしょうね。

それを聞いて、世間では「アメリカナンバーワン!」と我が身の勝手さを顧みず愛国心ばかりを誇張していると思っていたジャイアン王国に、まともな自国批判の精神が出てきたのか、と内心「人ってまだまだ捨てたもんじゃないのかな」と思ってみたりしました。

そしたら。選挙後にカナダの移民サイトが、アメリカからの申請がありすぎたためにダウン。みーんな同じこと思ってたのね。

フェイスブックなどでもカナダ人の友人・知人がアップしている選挙に関するコメントや画像などが痛々しくて、私はカナダ人でもアメリカ人でもない立場から、それを傍観しています。

メディアが流す情報には意図があるというのを、みんなすっかり忘れてしまっているようです。

 

「なんでこんなことが起こるのか」と思うようなことの裏には、必ず理由があったりして、フタを開ければどこかで誰かが糸を引いているということが数多くあるようなので、今回の当選者が善キモノに導かれて最善の変化を起こせることを祈ります。

また、アメリカが変わるという形で、日本にも最善の変化と癒しが起こると良いと願います。印象はどうあれ、彼の国の彼の氏がやろうとしていることは、阿部さんがやろうとしているまたはやっていることに比べればはるかに良い変化を起こすと、私は思いますが。

いずれにせよ、その国の国民が一番、その国の政府によってメディアコントロールを受けているのですよね。

中国が反日感情を抱き続けるのも、毎日毎日反日の戦争映画をテレビで流されているからで。それしか見るもののない人たちは「鬼畜日本人」と思いこまされる。 これ、どこかで聞いた話では?ギブミーチョコレイト?

さらに中国では、国内からではネット検索できないものがありすぎて、国民が真実を知ることが出来ないようになっていると、中国人留学生達は言う。

もう21世紀だ、なんて思っていても、まだまだこんなところに大正の落し物みたいな活動をしている人たちが国をあげて存在しているのですね。

もちろん、これが世界の多くの国々で行われているのでしょう。

福島の原発のその後の状況や土地が安全だなんて言っているのは誰でしょう。チェルノブイリはその後どれくらいの間、人間は住めないと言っていたのでしょうか。大学の科学技術史の授業で、教授が戦争を見たかのような悲惨さで私たちに教えていたあのチェルノブイリの悲劇は、福島には当てはまらないという根拠は何なのでしょうか?真実を公表して国民がパニック(地震ですでになっていたはずですが)になるよりも、国中にその被害を拡散させてしまえば国のいたるところで被災地と同じ症状の患者が増えるからカモフラージュ出来ると思っているのは、誰なのでしょうか?

そして日本は、国民が攻撃的ではありません。彼の国のように、知ってか知らずか国民が変化を求めてこれまでの規律(果たしてあったかどうかは知りませんが)をぶち壊してやろうという感じではないと思います。一部はそうかも知れませんが、大半ではないでしょう。

でも今回の選挙で、ジャイアンが他国侵略よりも、自国復興を目指すといっています。ここでやらねば彼の国も危うく、そして日本も、改心するかもしれないジャイアンとそして世界とこの先どうやってやりあっていくのか。

いくつかの国の一部の官僚以外に、本当に戦争をしたいと思っている人などどこにいるのでしょうか?中国は日本を表向き嫌っているでしょうが、戦争を起こすほど愚かなことを真剣に考えているのはJ国のAさんとその仲間くらいではないかしら。世界は本当に、戦争をするほど緊迫しているのか?

どこかで起こっている宗教戦争と、ジャイアンが出張していく他国への介入以外に、本当に戦争が行われているのか? そんなに人間は愚かで好戦主義だろうか?

そして今回、そのジャイアンが「他国へのデリバリー喧嘩を中止する!そんな余裕ない!」と真実を打ち明けている。その通りでしょうと思う。

戦争で得るものなど何もない。本当に一部の人たちがお金を儲けるだけでしょう。

 

カナダでは今日は【Remenbarance Day, Veterans Day】です。

戦争で亡くなった、国を守るために戦った勇敢なる愛しき人たちを「決して忘れない」と誓う、そして祈る日です。

他国で戦争にまつわる行事に出会い、私は初めて「戦争を起こした国から来た」ということを自覚しました。語弊があるかも知れませんが。日本では原爆を落とされた被害を忘れない、だから戦争は二度とやってはいけない、と教えられますが、アメリカと日本以外にそこに関与した国々のことなど私のつたない歴史の知識には入っていません。

「原爆落とした酷い国アメリカ。原爆落とされた可哀想な国日本」

まるで被害者。何もしてなかったのに、鬼に原爆落とされた、みたいな。いじめられ国日本、のような。

でもこの地で見るのは、亡くなった戦争関係者への愛と慈しみを送る瞳ばかりです。

国が世界大戦に関わったから、召集されて戦った戦士たち。その亡くなっていった命に捧げる想い。それ以上でもそれ以下でもない、「大切な人たちが死ぬのは悲しい。でも国を守るために戦ってくれたその勇敢なる戦士たちを、決して忘れない。」という純粋な想い。

何が違うのでしょう。

 

何があったとしても、平和を選びましょ。

人はもっと幸せになれる、豊かになれる。

幸せはうつるから、あなたや私の幸せがその隣の人の幸せになりますよ。

最善の変化とともに、あなたと私がさらに幸せになりますように。

その幸せが未来永劫続きますように。

 

f:id:rainbowworld:20161112023228j:plain

 

ゆるい生活 

f:id:rainbowworld:20161104132313j:plain

Q. あなたは映画の結末から先に知る方?

A. ①イエス ②ノー ③ありえない

 

ちなみに、私は①派です。断然知りたい、むしろ知る必要があります。

意味不明などんでん返しの結末とか見ると腹が立つ。予想可能、もしくは不可能な悲しい結末とか見るとしばらく本気で落ち込みます。

ということで、大概映画観る時は、前もって結末を知りたい派。

でも、池波正太郎の時代小説は別。ハラハラしながら読み進めるのが非常に面白い。

 

ということで、やっと3連休に。

私の仕事は、その日の予約状況で勤務時間と、勤務があるかどうかが決まります。そして勤務予定前日の夜に、翌日の勤務が確定するという仕組みを取っています。カナダも(もしくはカナダはいまだに、というべきでしょうか)年功序列制度(正確にはセニョリティーシステム)というのを採用しているので、超ベテラン先輩スタッフから予約も勤務時間数も確保されていきます。俗に言う管理職やホワイトカラーと言われる人たちは固定給のようですが、ほとんどの一般従業員はパートタイムです。日本的に言うと「アルバイト」という響きになってしまいますが、いうても周りもみんなこの「パートタイム」がほとんどですから、まったく気になりません。みーんな、良い歳したアルバイト。正規職員になると、「フルタイム」と呼ばれる人たちになり、そうすると福利厚生などの「ベネフィット」と呼ばれるものが付いてきます。ベネフィットは常に条件付きで「一週間に⚪️⚪️時間以上勤務を、⚪️週間以上」とかいう規定があります。それを満たすとベネフィットがもらえます。それに足りないと、ベネフィットが一時停止されます。パートタイムではいくら勤務時間を稼げても、ベネフィットはもらえません。

ベネフィットには眼鏡・眼科や歯医者の割引が含まれているので、これを得るためにみんな上司に掛け合ったり、転職したりして「フルタイム」のポジションを探したりします。

会社によってベネフィットの内容が異なるため、子供がいる家庭は夫婦どちらかの「良い方」のベネフィットを使って子供の眼鏡や歯の矯正とかの費用を削減しようと試みたりするようです。

うちは旦那がベネフィットを貰ってくれるので、ありがたいことに私は必死になってフルタイムになる必要がありません。二人とも眼鏡ですが、ベネフィットも毎年眼鏡代が出るわけではないので、2年に一度の新品眼鏡にベネフィットを活用する以外は(それでも全額はカバーされませんが)年に数回の歯医者のチェックアップが安くなるという感じ。

 

旦那はフルタイムですが、規定の勤務時間に足りているので週4で勤務しています。休みを3日にして、執筆活動をするためです。

私も基本は週4でスケジュールを組んでおり、休みの3日間のうち時々自宅でお客をとったりしています。

二人ともホスピタリティー業界で働いており、特にカナダは夏か冬しかありませんから、観光地なんて冬はとても暇になります。この業界では冬になると「レイオフ」という「冬だけ失業制度」があって、ホテルなどで働く従業員の多くはこのレイオフというのを受けて、数ヶ月間失業します。つまり、「一年間まるまる働けたらラッキー」という?スタンスです。

 

以前は私も旦那も週5できっちり働いていましたが、職種がかわり収入がほんのちょっと上がった途端にお給料から引かれる税金の額がありえないほど増えました。つまり手取りは似たようなものなのに、引かれる税金は3倍に。こうして社会は市民にお金を持たせないようにするのですね。

と、いうことで、週4にしました。

どうせ手取りが同じようなら、休みが多い方が良いですね。

 

カナダは?もしくはオンタリオは?とても従業員の権利が守られているように思います。いえ、本人たち次第なのですが。酷い会社はたくさんあると聞きますが、国民性が「黙ってない」が基本信条のような人たちなので、みんな権利を主張します。そしてすぐに転職します。就職先の会社や上司、同僚が「良くない」と判断されるやいなや、転職。転職先の会社や上司や同僚が、、、で、すぐにまた転職。まさに地をいく「ローリングストーンズ」ですね。

もちろん、無償残業なんてカナダ人は誰もしません。「仕事ができる固定給の上司」のような人以外に無償残業しているのをみたことがありません。

そしてなぜか「祝日は勤務しなくてもお給料が支払われる」という制度です。これ、年末年始だけとかじゃなく、毎回です。祝日の度に、勤務していなくても、その日の6時間分くらいのお給料が支払われます。では勤務するとどうなるか。勤務すれば、そのお給料とは別に、通常の時給の約1.5倍の金額で勤務した時間分のお給料が支払われます。これは私の同僚曰く、「お給料2.5倍の日」だそうです。勤務するとそうなるようです。

そして祝日に働くのが大嫌いな人たちを除き、お金が欲しい人たちはこの祝日に働けることを喜びます。

私は以前ハウスキーピングをやっていた時に、「二度と祝日には働きたくない」と思いました。勤務時間が削られる上に、会社は人員を思いっきり減らします。つまり、勤務している少人数に通常以上の業務が丸投げされるわけです。会社はそのために2.5倍払っているわけではないはずですが、結果、3倍払われないと割に合わないような事態になります。少なくとも、ハウスキーピングではそうでした。

今の職種は忙しくても暇でもトリートメントの時間ととれるお客の数は大体決まっているため、祝日に働いても得するだけですが、たとえ休みでもお給料は支払われるわけですから、よもや休みでも良いかな的な。

 

そして収入の最大の違いは、やはりチップ制度です。

この国ではレストランのウェィターは「高給取り」になります。時給は最低賃金で働くことが決まっていますが、その分チップで稼ぎます。例えばホテルなどの高給レストランで、2人で行ってちょっとお酒を飲んで3コースのディナーを食べると合計金額が150ドルくらいになるとして、チップが20から30ドルだとします。それが4人連れになるとその倍。ワインをボトルで開けたりすると、チップが60ドルなんていうこともよくあったりして。するとそのウェイターは一晩でチップが300ドルとかになったりするわけです。夏は毎晩そんな感じで、冬は暇。でもセニョリティー(長年勤続者)とかになると冬も勤務を保証されますから、暇なりにもチップ込みでしっかり稼げるわけです。これだけチップで稼ぐのに、プロ意識の高いウェイターじゃないと感じ悪かったりすることもありますが。

でもね、これって良いと思うんです。

他人のために食事を給仕するんです。それにたいして、「料理や飲み物をテーブルまで運んでくれて、ちょこまか水入れたり様子を見たりしてくれて、ありがと」ということでその『他人の労力』にたいして、感謝するお金がチップです。いや、仕事なんだけども。ウェイターなんだから、料理を運んできて当然なんだけども。

そう思うと、日本のファミレスで働く店員さんはあんなに頑張っているのに、お金として還元されていないではないですか。一品あたりの単価は違えど、あんなに良いサービスしてくれるのに、わがままな客の相手もしなきゃいけないのに、ちょっと料理が遅いとかで文句も言われるのに、感謝されないではないですか。

理不尽だ。 ここでは、同じ仕事をしたら3倍の収入になるのに。

場所が違うというだけで、その場所にある「当たり前のもの」の基準が違うというだけで。

 

とにかく。この国のチップ制度は「他人が手を煩わせてくれるもの」すべての職種にかかってくるわけですので、タクシーやベルボーイ、ヘアースタイリストやマッサージ師などもその類です。

私の美容関係の仕事も例に漏れず、チップをいただきます。旦那はレストラン関係の部署で働いているので、ここでもチップが発生します。

ということで、チップを入れて週4勤務で、夫婦二人猫二匹の生活がなんとか賄われるわけです。

この収入で日本で生活したら即破産だと思いますが(苦笑)、幸いこの街には、おにぎりやスィーツの美味しいコンビニも、安くて美味しい洋食屋も定食屋もありませんし、こちらの値段に比べたらまだ安くて美味しい1箱350円とかのタバコもありません。近所をちょっといけば飲み放題歌い放題のようなカラオケもなく、ついつい衝動買いしたくなるようなオシャレなショッピングモールもありません。携帯電話も最新機種なんて持ってるのは20代前半の人達までだし、家以外でネットする必要もないから基本料金だけで良い。服も誰も気にしません。てゆーかWalmartでみんな同じような服買って着てるからみんな同じじゃん、的な。『周りの誰も気にしてない』というところに入ると、自分も気にするのが馬鹿らしくなります。いや、私はもともと気にしてないけど。

 

というゆるい生活。

生きる場所が変わると気にすることも変わる。いや、当たり前なんだけど、こちらに来て10年経った今でも時々驚いたり実感したりするわけです。

この国の人たち、ハンバーガーの食べ過ぎで死ぬことはあっても、過労死だけはないでしょう。いや、いるんだけども。でもそういう人たちは、また別の次元で働いている人達なのだろうと、思うのです。この街をみている限り、私の目には一般人はハッピーに映るのです。彼らは気づいていませんが。

 

続く。

f:id:rainbowworld:20161011000234j:plain