ノーペイン でも ゲイン

家族が増えました。

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私は以前からカナダ人の同僚に「子供は?」と聞かれると、「旦那が産む」や「今年のクリスマスにサンタが届けるはず」と答えてきました。遠い昔に見たキャンディキャンディのように「クリスマスの朝に、ドアの前に籠に入って置かれているはず」と本気で想像してワクワクしていました。

が、起こらないので、こちらに導かれました。

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夏に姪っ子達が帰った直後の、くつろぐ大人猫2匹。

寝具を片付けようとしたら、ものスゴくくつろいでいるので片付けるのが大分遅れたのですが。この時の彼らは、ようやく訪れた日常の静けさに、ゆったりと魂を落ち着かせているかのようでした。

 

が、まさかその2ヶ月後には、チビッコ3匹の襲来により自分たちの静けさが世界のどこかへ飛ばされてしまうことになるとは、まさに夢にも思わなかったでしょう。

 

誰が5匹も同時に飼うことを想像したでしょうか? 

いいえ、誰も。

 

10月頭に、近隣のとある町に呼ばれた気がして、旦那と二人で出かけた時のこと。

私はてっきりいつものように「私がずっと欲しかったもの」がどこかのお店にあるという直感で呼ばれているのだと思っており、「靴か?カバンか?それとも財布か?」とウキウキ。かなり確信を持って、ウキウキしておりました。

年に一度の頻度でさえも出向かないその町で、何かが待っている。もうこれは間違いないでしょう。

向かったショッピングモールで、目当てのものを何も見つけられなかった私は、「おかしいな」と思いながら歩き疲れて旦那とお茶していた時のこと。

建物内のホールで車が展示されており、旦那が乗りたいと言っていたミニクーパーが隅の方に展示してあるのを見つけました。

それを見つけた旦那が、一瞬「あ、やばい」と。

「クーパーの向こうに、猫アダプションセンターがあるのを発見してしまった、、」と。

以前から「もう1匹猫が欲しい、3匹でうちは完成だ!」と旦那は希望していて、どこかで野良猫と運命的な出会いをするのを待ち望んでいました。ニアミスはあれど、なかなか出会わない。そして目の前の【猫センター。】

あぶない匂いがプンプンしてますね。

してました。

してましたよ。

 

すっかり得意技の「乙女モード」になり、「どうする?ねぇ、どうする?見ちゃう?え、行っちゃう?えー、でもなぁー。ねぇ、どうする??あぶないなー。」という旦那の横で、私はある程度覚悟はしていました。今日がその日になるであろうと。

 

「クーパーを諦めれば、猫1匹増えても何の問題もないんじゃないの?」と呟く私に一言、「うん、俺、クーパー要らない!」と、完璧な受け答えをする旦那。そうでしょう、そうでしょうとも。

 

でもなーんか嫌な予感がする。嫌な予感がしたんだよなぁ、、、。

 

いざ、恐る恐る猫センターへ入ると、そこに居る猫のほとんどは子猫で。

かわいそうな悲壮感溢れる雰囲気だったらいてもたってもいられなくなる、と思うと足も気も重くなったのですが、いろんな事情でそこにやってきた大きな猫達もいたけれど、丸まって寝ている子猫の数の方が多く、目を引いていました。

とてもかわいい柄の子猫2匹が「本日のおすすめ」として目立つところに居ましたが、コマーシャルに出てきそうなほどの可愛い柄で、彼らの未来は明るいことが感じられたのでそこはスルー。彼らは次から次へと訪れる人たちに、とても人気で愛されているようでした。

 

旦那が指を出すと、すぐに遊びにやってきたのが今回新しい家族に加わった黒猫ボーイズでした。ケージの中でもおもちゃでよく遊び、なんだか元気な感じでした。

3匹とも同じ生後10週間で、これはどうも兄弟なのではないか?と思い、よく柄を見ると川の字の真ん中で寝ているメスがタビーでオスが黒と黒タビー。

(うー。黒タビーなんて、今まで見たことない。成長したらどんな色になるんだろうー。気になるー。)

黒の子は、両前足に白い短めの靴下を履き、両後ろ足に白いハイソックスを履いている。(くぅー。夢の黒猫でしょコレ。何だよー。)

メスのタビーは眠そうな顔をしていてちょっと活気がないように感じられたけれど、柄がはっきりとしていてとても綺麗でした。

 そして3匹ともとても仲が良い。

 

ひとしきり怪しいアジア人カップルがじーっと子猫を地味に見つめたり遊んだりした後で、人目が気になった私は旦那と外に出て、緊急家族会議。

会議のネタは、「飼うか飼わないか」ではなく、「マジか。3匹か? マジか。」ということ。でも私も旦那もとても似た感覚の持ち主なので、そうなることは彼らを見た瞬間からわかっていました。

「1匹なんて、選べない。」

 

私のポイントは、「兄弟を離したくない。」でした。自分が子供の頃から、どこかの家で子犬が5匹産まれたと聞いては1匹もらったり、ダンボールで捨てられていた数匹の猫を父が拾ってきてしまい結局他の人にバラバラに引き取ってもらったり、ということはあったものの、いざこの年に自分が成長し、あらためて「動物でも家族は家族」と思ってしまったら、引き離すのはどうにも可哀想で胸が痛い。

そしてもちろん、家族会議のもう一つのネタは「5匹も飼って、うちの家計は大丈夫なのか?」ということになるわけですが。

飼い始めて約一ヶ月が経ち、今言えることは「頑張ります」ということでしょうか。

何があってもこの子逹を養っていくのだな、というのはこういう感覚なのだということを私も旦那も知りました。人間一人よりも二人、二人よりもプラス猫1匹、そしてそこにさらにもう1匹。そうやって増えてきた家族で、そこにさらに天使子猫3匹が加わり、増える度に楽しくなってきたことを考えれば、非常に良い決断だったのではないかと思います。

当初家が狭いのではと心配しましたが、子猫も大人猫も結局私や旦那がいる場所に集まるので、いつもどこかの一室にみんな集合している感じで、子猫が大きくなってきていても、全然圧迫感を感じることもなく。引越しさえ考えましたが、今はこの家で良いのではないかと思っています。

 

家族会議の際、実はもう一つの私たちのポイントは「この先人間の子供をもつかもたないか」ということでもありました。年齢的にも、人生の状況的にも、考えるのに最善な時は来ていました。

そんなことを話し合っている私たちの目の前で、いかにも可愛らしい白人の3歳くらいの女の子がとっても可愛らしく母親にごねていました。その様子は本当にとても可愛らしかったのですが、私にはその時答えが出た気がしました。

猫保護に、生きていくよ。

 

人間一人の子供をもつことを思えば、子猫が3匹増えたってきっとやっていけるはずだと思いました。世間のみんなが、乳飲めなかったり、夜泣きが止まなかったり、拗ねたりゴネたり非行に走ったり、時には引きこもったり暴力沙汰になったり、親に反抗したり、鬱になったり、そんな大変な思いと経験をして子供一人や二人や三人を一生かけて育てていくことを思えば、私たちの人生の一幕に5匹居る瞬間があったとしてもきっとやっていけるはずだしやっていくんだと、思いました。

 

家族の構成も、家族員の授けられ方も人それぞれですが、我が家はこうなりました。

子猫逹が来てからというもの、膝に乗る度に「グルグルグルグルグルル」と合唱してくれる猫たちに囲まれて、まるで猫風呂に入っているかのような癒しです。

旦那は仲良く遊び回る子猫たちを見ては「これで良かったんだ。一緒に引き取って、これが良かったんだ」と言っています。

二人と5匹で、全員揃ったなという感じです。猫万歳。

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お盆だものね

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一昨日のこと。どうりで。朝から涙することあるわけです。

お盆ですものね。

 

嬉しい涙なのだけども。

今は亡くなった大事な人たちに出会えて嬉しいーとか、

あの時あんなに大切にしてもらえて有難いーとか、

今旦那と一緒に生きているそのことが嬉しいーとか、

とにかく朝から、今あることやあの時の人達への感謝の気持ちが湧いてくる。

「ありがとう」と感じて目が覚める。気づけばお盆でした。

ありがとう。

 

 

先日、日本から旦那の両親と姪が来ていた。

子供のエネルギーというのはスゴイ。かわいいが、ものスゴく疲れた。でもとてもかわいい。

義理の両親は、かわいいというわけにはいかない。

私や旦那は年に一度会うかどうかという距離と頻度だが、これがもし日本で近・遠距離に実家もしくは義理の両親が居るとなると発狂ものだなと実感。

先日帰った日本でも実家に相当やられたが、いやはや。自分たち以外の大人と同じ空間に過ごすというのは、なんというか磁場が歪む?

『同居』とかしてる方々、心身ともに大丈夫なのだろうか、、、。

 

が、恐ろしいことに、姪は本当にかわいくて、空港でようやくの開放感とともに手をブンブン振りながら見送った帰り道で、うっかり「次があっても良いな」などと不吉なことを一瞬でも思ってしまった自分が怖い。

ちょうど最近、ストレスは中毒性があるということを知ったばかりだったので、まさにこのことかとハッとした。

トラウマになるようなことや、それに基づくドラマを繰り返す背景には、不快になる脳内物質やホルモンが出るらしいが、それが興奮作用もあるので中毒になる、ということらしい。

おー怖。なのできちんと克服するにはトレーニングが必要なのですね。

 

そんなこんなで、気づけば40なり。

39最後の一ヶ月に、何かできることに挑戦してみようと思い、やってみたのが『30日間スクワットチャレンジ』なるもの。結果、お尻が上がり、お腹がへっこんだ。やはり下腹はへこますことが可能なのだ。

 

4月に日本に帰った頃は体重がピークで、失礼な親戚にはうっかり妊婦かと思われ、非常〜に不本意であった私の体は、40を目前に遊び心で試したスクワットと「白いもの断ちダイエット」のおかげでいとも簡単に元に戻った。ちなみに「白いもの断ち」は粉、米、砂糖、乳製品。途中でどうしても食べるものが他になく、職場で頬張ったラザニアや、プチアップルパイ等はカウントしない。食べたのも昼間だしOK。そして完全に消化されたようなのでこれまたOK。

ちなみにちなみに。白くなければ食べて良いのだ。つまり、茶米(玄米)、黒砂糖、小麦粉で作られていないパスタ、アーモンドミルク等。糖分摂取量を控えるということが目的。

 

「感傷暴食(emotional eating)」というものがあることを知り、私にとってのそれはチョコレートだったと知った。

私は昔から、祖母の家に行くと必ずチョコレートを大量に買ってもらい、ケーキを出され、まるでそれらが主食のように食べていた。それは私の「至福の時」。実家とは違い、安心安全な場所での子供の貪り。

なのでその後の人生でもずっと、ストレスが溜まりそうになるといつもチョコを食べてきた。チョコは私にとって「安全な場所」の象徴だから。

美味しいが、肌も荒れるし、体には悪いなーと思っていた。なので40を目前に、それも断つことにした。断つといっても、毎日毎朝食べてたものを、「ほんのたまに、すごく特別な時に限り」という頻度にした。

タイミングと意気込み次第かと思うが、「絶対に断つ」にしなければ、ストレスもかからず自然に断てるものだと実感。タバコと同じか。「やめる時」が来ればほんのちょっとの努力でやめられるものなのだ。

 

姪っ子の話に戻るが、今回子供が身近に暮らしてみて思ったのは、

①子育ては大変だ

②大人の育てたように子は育つ

③大人はそれにまったく気づいていない

 

ということだった。

私と旦那に子供はいない。普段は二人と二匹のとても静かな生活をしているため、実の母や義理の両親などの大人が来ただけでもグワァッ(ー◾️ー)と狂いそうになるが、今回の姪っ子ちゃんはとってもとっても聞き分けのある良い子なのにものスゴく疲れた。あの無邪気なテンションと視線で自分の気になっていることを喋り続けられたら、こちらは根こそぎエネルギーを失うという魔法を見た気がした。

なぜだ?良い子なのに、なぜか接した後はまったく自分たちのことをする気力がないほどどっと疲れる。子供は大人の気を吸って生きているのだろうか、、、。

これが我が子になり、しかも一人じゃなく二人も三人も居たらと思うとオーマイガッ。子育てしてたらミイラのように干上がってしまうやないかーい。

子育て恐るべし。世の子持ちのみなさん、よもやサイヤ人か何かなのでは。

 

そして姪っ子ちゃんの発言で、ものスゴく引っかかったことがあり。

二人で食材を買いに行った時のこと。

「私はねー、ジージの家族もバーバの家族も誰かがみんな⚪️⚪️⚪️で死んでるから、私も⚪️⚪️⚪️で死ぬんだって〜!♫」と。

 

?????

 

え、殺したいの?何ナニ?大人は孫を殺したいの?

 

なんでそんな呪いをかけるのかなーと、本当に意味がわからなくなる。

これ、よくある呪いだと思う。

もっとましな言葉をかけられないものなのかなーと、残念に思うが。ちなみに姪っ子はまだ8歳です。そして「遺伝だからね〜!」を連発する。

そんなに幼いうちから、いろんなことを諦める癖をつけさせられないでおくれ。

ジーよ、バーよ。あなた達がそれを恐れているのはわかるが、わずか8歳の死に方まで決めてくれるなよ。

 

てゆーか、遺伝というよりもむしろ、「生活習慣、食習慣、思考習慣」の引き継ぎがこういう家系に根付く病気の原因になるというのがもっと広まれば良いのにと思う。

例えば。「遺伝だからね!」と言って、漬物に醤油をかけ続けるとする。高血圧は遺伝の病ですか?それはその「家庭の味」であり「嗜好」であり、生活習慣の結果ですよね、ジーよバーよ。なんでも遺伝で片付けないで。

 

姉方の姪っ子もそうだが、子育ての何が一番恐ろしいかって、その子を育てる周りの大人のネガティブや呪いや信仰が見事に全部写し出されることだなと思わずにはいられないのだった。

よもや家族のカルマが強いのか、それとも田舎の色が強いのか。

自分の中の闇と、これまで抱えてそしてようやく捨ててきた数々の闇とを思う時、とても決して子供は持てないと思うのであった、、、。

 

ごめんなさい、でも感謝してます。

ご先祖様、命をつないでくださり、ありがとうございます。

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父という生き物

久しぶりに書く。

そしてついに、家族について書く日がきてしまった。

 

1月の後半にまた本落ちしてしまった。あまりにも私が「殺せー。コーローセー」と呟くので、2月の頭に旦那が急遽「よし!日本帰ろう!ちょっと息抜きして、おいしいもの食べてこよう!」と提案した。

ということで、4月の3週間日本に帰っていた。

 

結果は、「さらなる地獄」を見た気分。

帰ることがわかってほんの一瞬「やったぁ、帰れる!」と思った日があった。確かにあった。けれども実際、帰国することが現実的になってくるにつれ、よりリアルで想像しうる家族問題が私の不安を煽る。

 

そんな私が帰国するタイミングを待っていたかのように、姉が離婚すると言い出した。私が帰ったら、すぐさまアパートを探すという。もちろん、その段取りや各種手続きを私にやらせるのが目的で。

「私がいれば、相談に乗ってあげられる」という今までどうりの筋書きと、何やらややこしそうな匂いがプンプンするその問題にどっぷり浸かることになるという懸念。

だがしかし、この時点では、姉はまだかわいいもんだと思っていた。

 

我が家の本当の問題は、暴れくるう父であり、隙あらば私に依存してくる母である。

以前、私が結婚する直前のこと、よく当たると言われる占い師のところにいったことがある。旦那の名字になる私の名前と旧姓バージョンの名前との両方を観てもらったところ、「実家から、より離れるほど運気は上がる」と言われた。そしてその時、その言葉はストンと私の腑に落ちた。当時はまだ、それがなぜかはわからなかったけれど妙に腑に落ちたのだ。

 

とにかく、帰国した。帰る前から父が暴れている。くだらないことでだ。誰が私を迎えに行くのか、とかいう、よもやなぜ暴れるのかわからないことで電話の向こうで大声をあげている。この男の大声が、この家族のそしてこの家のすべての生気を奪っている。

旦那は毎回帰国の度に私の実家に数泊し、両親に挨拶をしてくれる。母親は毎年カナダに遊びにきてくれているのだが、父とはこの時だけが悪夢のご対面となる。

仕事をしている時ならば、会社の飲み会や何かで夜に父が家をあけることも期待できたが、ついに定年してしまった今年はその束の間の平和すらも望みが薄いと思っていた。すると、私たちの帰国後二日目に、なんと父方の祖父が他界した。享年94歳、大往生だ。

その約1年前に祖母も他界しており、父にとっては唯一の肉親である祖父の他界がとてもこたえた様子だった。そして、私たちにとっては奇跡の3日間が与えられた。父が実家である祖父宅に泊まり込み線香の番をするという。奇跡だ。奇跡でしかありえない。

まさかの父の留守。お祖父ちゃん、ありがとう。

 

それからお通夜やお葬式を終え、約1週間の滞在の後に旦那は自分の実家に帰っていった。まったく予期していなかったが、この帰国で礼服を買った。まぁ今までなくて平気だったことの方が不思議なのだから、こんなものなのだろう。

 

この一連の葬儀騒動で、田舎というかなんというか、もはや何と括ったらいいかもわからないこの父という生き物の「思い込み」や「常識」や「体裁」や「見栄」というものにぶち当たることになる。

父というのは本当に、理解されない孤独な生き物である。

私の前にいるその「父という生き物」は、学がなく思い込みの激しい田舎者の暴れ者で、女子供の前で怒号を響かせ、私や姉の子供時代にはほぼ毎晩食卓の上のものが台所から居間をめがけて飛び交うという惨事で、姉は知らんぷりで自室へ篭り、私は泣きながらその飛び散った茶碗のかけらやご飯粒を拾うという儀式を続けてきた。

40年来連れ添う愚かな女には二言目には「出て行け(怒)」「ぶん殴るぞ(怒)」「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ(怒)」とわめき散らし続けてきた。40年間も。よもや両者間違いなく馬鹿者であることはさておき、よくも自分の行いに虚しくならないなと思う。叫んでも叫んでも誰も助けてくれず、何も救われない。報われない。私があんただったら、自責の念とともに、虚しくてとっくの昔に首括ってるよ。

 

今回、亡くなる直前の祖父に会いに、病院へお見舞いに行った時のこと。私も旦那も、「あ、私の父が眠っている。」と思った。私の父の最期の姿がそこにあるという感覚だった。なので二人とも、よもや祖父にではなく「最期の父」の姿に合掌しお礼を言った。「もうイイよ。行ってらっしゃい。」と。そしてその数時間後、祖父は旅立った。

父に言わせると私が12人中最後に面会にきた孫だったらしく、私を待っていたと言う。いや、そうだと思うけど、やめてくれ。いや、そうなんだけど。もう94歳で、呼吸器をつけて苦しそうに息をしている老体に「親父、良くなって家に帰ろうな。もうすぐ(ナナソラ)が会いに来るから頑張れよ」と励まし続けたらしい。やめてくれ、父よ。てゆうか、虐待の域じゃい。行かせてやれよ。

 

父は葬儀の後の親族の食事会で、2回スピーチをした。驚くことに、1回目のスピーチで、彼は泣いた。いや、泣くとは思っていたが、そう思っていたのは私だけだったと思う。私は父の人柄がわかっていたので泣くだろうなと思っていただけで、愛情のまったくない母などは「泣いたな。馬鹿見たいな。」と私に言ってきた。

とにかく父は泣いた。何が驚いたかというと、本気で94歳の父親を回復させて退院させてやりたかったらしいことが、私を驚かせた。男性というのはそういうものなのか?それともみんなそう思うのか?

今回の一件で、父の合計6人兄弟のうち3人の女性陣は案外冷たかったと父は言う。祖父が倒れた時もさらっと諦めようとした、と。でもそうだろう。実際、介護しているのは私の母(つまり『嫁組』)含む実の娘たちの女性陣であり、ちょっとチラッと顔だけ見に立ち寄るあんたとはわけが違うのだ。まして高齢で、3月の彼岸からいつ逝ってもおかしくないと医者に言われていたとのこと。本気で家に連れて帰ろうとしていたその執念の方が、私は怖い。

怖い、が。それよりも『残念』だ、親父よ。

他の親戚が言うには、父はマメにいろんな方のお墓詣りに行っているという。若くして亡くなってしまった義理の弟や、私の姉の義母のお墓にも必ず行っているらしい。それは素晴らしいことだと思うが、本当に残念だ。

なぜ今は生きている、そしてずっと一緒に生きてきた目の前の女を大事に出来ないのか?もちろん、私の母のことである。

 

今回も葬儀までの1週間の間に、1度だけ母を怒鳴った。私はその時姉と諸用で出かけていて家におらず、そのことで父が怒り狂ったのだが、かわいそうなことに旦那を家に置いていってしまったので、旦那がその暴君を目の当たりにするはめに。旦那には申し訳ない気持ちでいっぱいなのと、マッチョな旦那のラリアットで父を殺さなくて本当に良かったと思う。あと1回、いや2回、もしも父が旦那の前で怒鳴っていたら、父はきっともうこの世にはおらず、私と旦那はカナダに帰って来られなかっただろう。

父が生まれたその家系で、我が家族にとって本当に良かったのはきっと男の子が生まれなかったことであり、ただ同時に、子供の成長の過程であったかもしれない「父への決闘&父の敗北」的な父の挫折がなかったことは、悲劇なのかもしれない。まーダブル父みたいな男どもが家庭にいるよりはよしとするべきか。

 

私はこの亡くなった祖父とそれほど親しかったわけではないが、それでも何かしら不思議な教訓を得る機会が与えられる。私はもともと母方の祖父母の家で見てもらう時間が幼少期から多かったので、そちらの祖母が大好きである。母方の祖父も父方の祖父と時を同じくして入院し、現在も入院中だが、96歳の今もはっきりとした思考で、最後の時間を過ごしている。とにかく、私はどちらかというと、母方の祖父母に多大な恩がある。

父方の祖父母とその親戚といえば、当時22歳の私が彼を亡くした後のお正月に親戚総出の集まりがあった。確か祖父母の結婚50年の祝いだったのではないか。彼のお葬式で「身内とその他」の関係性について思うところがあった後での「身内」側でのお祝いで、その時も父がスピーチをしていた。「(父からみた)父と母から始まって、今や孫やひ孫を入れると総勢50人の大家族です。」というようなことを言っていた。私はその時、「命のつながり」というものを強く感じ、この「生」のお祝いの儀式にもしも私があの時彼の車に乗っていて一緒に死んでいたら、父はこうスピーチを出来ず、この「命のつながり」から私は消えていて、この平和な「生」溢れる場は無かったのだなと感慨深くなった。そして彼が私を置いていったことや、その大きな理由のようなものを感じた気がして泣いた。

 

生きる列車と、死ぬ列車があるのだと思う。みんな必ず死ぬ列車に乗る。だけど、「その時」が来なければ決して乗らないし、乗れないのだ。そして「その時」が来れば、必ず乗るようになっているのだろう。

 

そして今回、父方の祖父が逝き、その最期に会い、そしてご遺体に会い、遺影に会い、お骨に会い、お位牌に会う。私がただただ祈ったのは「父を助けてください。もしくは連れて行ってください。」ということだけだった。今回の帰省で、実家のお仏壇に昨年亡くなった父方の祖母のお位牌と写真が入っていた。なので私はそこでも毎日毎日アホみたいに線香を焚き、手を合わせ、そして祈る。「父を救い、女に怒鳴るのをやめさせてください。それが出来ないなら、どうか連れて行ってください」と。

薄情だろうか。私は、薄情なのだろうか。

 

今回、父以外の女3人(母、姉、私)は何度父の死を願っただろう。

父が本当に可哀想でならない。だが本当に、死ねばいいのにと願った。

何度も何度も願った。願わざるを得ない状況がやってくるのだから、どうにもならなかった。母も姉も私も、わずかな望みだった孫でさえも、もはや父を救えない。

今回の祖父の他界で、何かが変わってくるのかもしれない。

父は祖父の土地の一角に、自分名義で譲り受けた土地を持っている。これは決して裕福な話ではなく、ただ、貧しい兼業農家だった祖父の土地の一角の荒地が、父に譲られているということなのだが、よもや女3人組は父がその地に帰ってくれることを心待ちにしている。それがみんなの平和であり、幸せなのだ。

でも悲しい。今回の帰省で、はっきりとわかったことは、「父は我が家の核なのに、ガンなのだ。」ということだった。あの人はあの家のガンなのだ。あの人が帰ってくると空気が変わり、酔っ払って帰ってくると昭和初期の白黒映画さながら空気が凍りつくのだ。本人はご機嫌でただ足元が乱れ、声がデカく、ちょっとろれつが回らないだけなのだが、それでも、もういるだけで悪なのだ。母は挙動不審になり、念仏を唱えるかのようにクロスワードに没頭するふりをする。その姿をみて、私がいない間の母の生活の悲惨さを想い、心が苦しくなる。

40年一緒に生きてもこうなのだ。何も変わらず、お互い救われず報われず。苦行のような結婚生活を送っているのだ。

 

なんなんだろう、このカルマ。そしてもちろん、パターンは微妙に違えど、姉も確実にこのカルマを生きている。

今回の帰省中に、是が非でも姉の引越し準備を手伝うもしくは手伝わされることになるのだが、姉が化け物になっていた。怖い。もうとても怖い。どのくらい怖いかというと、父に命令するほどに怖い。そして姉が怖すぎて、とりあえず父が瞬時にその命令に従うという不思議な光景を目にすることになる。私と母が気を遣い、父が怒鳴ることを想定して静かにかつ緻密に計画を立てて動いているというのに、姉はそんなのお構いなしにぶっちぎっていく。あれは誰だ。もはや私の知っている姉ではない。15年の結婚生活で、よっぽど我慢してきたのだろう姉の鬱憤が、ことごとく実家中をひっくり返してゴミを捨てるという傍若無人な行いによって、荒らされていく。

でもきっと、それでいいのだ。あの家は、鬱積し続けたものを解き放つ導火線とその先の爆発物的な何かが必要なのだ。

姉の出戻り計画は祖父の葬儀とともに着々と進んでいたのだが、私は父がいつ暴れるだろうかと心配していた。すると姉は一言、「父のヤローが祖父ロスで撃沈しててラッキー」と。姉、強し。やはり姉は強いのだ。私は弱く、優しすぎるのだ。

 今回、姉は子供と旦那を置いて出戻ってくる。こんな母がいても良いではないか。子供は可哀想だが、そこにはそこのドラマがあり、一概に姉だけを責められない実情があるので、私は姉を想い泣いた。泣きまくった。子供が天使で、母は聖母だなんて幻想は、見る側が罪なのだ。生身の母が生身の父と生身の子供を育てながら働きながら生きているのだ。みんなが順風満帆になどいられるはずがないのだ。

だがしかし、私達の父はまったくその内情を知らない。孫ラブの父が、暴れ狂うことしか想像できなかった私は「父がまたちゃぶ台ヒックリ返すな」と姉に言うと、「今度は私がヒックリ返してやらぁ、おんどりゃぁ!!!」と偉く気合が入っていた。

良いね、姉。その鬱積を晴らすのは、ユーだ。ユーっきゃいない。カッコイイぜ、姉。

 

まぁそんなこんなで、実家の断捨離(母の生活圏内のみ。父の生活圏内である2階は地獄絵図と化しているため、侵入を拒否されたので掃除不可。父が死ぬまで待つ)をせっせかと行い、燃えるゴミだけでも合計25袋を片付けた。息が詰まりそうだった寝室が、空気が軽くなったのは気のせいではなかった。母は肩こりが取れたという。(ちなみに私が出したのは18袋で、もう全部やりきったと一息ついてからの姉の乱入に、さらに7袋と燃えないゴミと粗大ゴミが大量に追加で出た。父はその間さっさと姉に命令されて片付けるべきものを片付けると、2階もてこ入れされる危険を感じ外に逃げていった。そして姉は言う。「ヤローが一番のゴミだがな」と。

 

この後あの家がどんな展開になるのかは、まったくわからないのでした。【終】

 

 

追記: この間ずぅっと、変な感じでいろんなことが起きてました。

帰国を決め、チケットを買ったら、いつもは30ドルで済むオイルチェンジでまさかの修理箇所が見つかり、総額1700ドルもの出費があったり。さらに確定申告でまさかの1000ドルの出費、撃沈しながらの帰国に祖父の他界、姉の離婚騒動アンド引越し手伝いに、帰国日のバスの遅延(中央交通さん、マジで心配しました。運転手さんにお休みをあげてください!)、直通便がまさかのバンクーバー緊急着陸。カナダ帰国後すぐに仕事復帰したら、その4日目に職場の駐車場で馬車が突っ込んできて私の車に穴が開いていた。などなど。物事は穏やかに修復に向かっていますが、こんな時期にあんなデカイ鉄の塊で空を飛んで、無事に帰ってこられたことに感謝。みなさまも、ご自愛くださいな。

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ザ・年越しデトックス

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明けましたね。おめでとうございました。

 

まさかの大晦日に風邪をもらい、元旦に出勤するも朝起きた時から キテマスキテマス状態で。元旦の勤務はさすがに誰も替わってもらえないだろうと判断し、翌日の勤務を休みにしてもらうべく交渉。無事に翌日2日の休みをもらい帰宅するやいなや30分で発熱。ふぅ、勤務中にバテることなくなんとか勤務をこなした自分の体に感激しましたYO。

てことでそれからしばらくダウンしてましたが、ようやく回復してきてコーヒーが飲めるところまできました。

体調崩すと途端にコーヒーを飲みたい気持ちが失せるのが、まぁわかりやすい。ある程度の健康体でないと楽しめないものが結構あるものですね。

 

風邪中、梅を入れた白がゆが食べたくてお腹が空いて仕方がないのに起き上がれない。布団から出るも、極寒シベリアで寒中水泳ですか?というくらい体が震えるのでソソクサと布団にまた戻る。よもやご飯はお預けか、という時に旦那が帰宅し、旦那も疲れているのに優しくも果物を切ってくれたり、うどんを作ってくれたり。本当、この人は優しい人だと心底心に沁み入りました。

 

昨日は一緒に年明けチラシ寿司(旦那作)を食べながら映画を観て、仕事づめだった年越しをなんとか労おうと二人で過ごしました。

ご飯を待ちながら、結婚してからこれまでのいろいろな経験を思い出していたら、しみじみと「私は友達を手に入れたんだなぁ」と思い、号泣。

私の人生はいつも友達がそばにいなくて、誰も私のことをわかってくれないしわかれないと思って生きてきたけど、結婚をして10年、今私の隣には私の全てをわかってくれる運命共同体の大親友がいて、この人と過ごす時間は神様がくれた幸せの時間なんだなとわかり、それで泣けたのです。

私はずっと、ずっとそんな友達が欲しかった。

私だけじゃなくて、相手も私のことをとても強く大事に思ってくれて、優しくて、決して私を欺かない心根のキレイな人。

私だけに向けてくれる愛情を持っていて、私の愛情も受け入れてくれる人。

状況が変わっても、一緒にその状況を乗り越えていける人。手を取って歩いてくれる人。

一緒に楽しいことや悲しいことも乗り越えてくれる人。

いろんなことをする時に、隣にいてくれる人。そんな友達が欲しかった。

そしてこの人と過ごす時間はその全てなんだと、そんな友達を神様が私に与えてくれたんだと、すとんと腑に落ちました。

あぁ、感動。私が人生でずーっとずーっと欲しかったもの。

神様ありがとう。

今年も私らしく生きます。

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豊かさ

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先日の記事を書いたあと、なんだかまるで長い夢から覚めたような、今までずっと包まれていたシャボンの中から出てきたような、不思議な感覚になった。

そもそもブログを書き始めてからというもの、自分の中で芽生えてきた意識の中に「いつかこのことを一冊の本にしよう」というのがある。これまで、人に話したり自分の中でずっと大事にしたりしながら守ってきたもの、この思い出。命ある限り私の心の中で大事にしようと思ってきたものだけど、ずっと考えていたことがある。「誰か、私の頭の中を全部読み取ってコピーして、映像にしてくれないかな。」と。一つの作品にしてくれないかな、と。それが全ての『証し』になると思って。

そして今、ブログを始めてみて、自分で文字として文章として起こしてみようかと思ったのが大きな変化だった。

今年で17年になった。あと3年で20年。20回忌までには、この物語を書き上げたい。そして本にして世に出そう、と思った。

なんていうか、書くことによって自分の手から解放しようと思えるようになった。決して忘れない、色褪せない大切なこと、だけど私はこうして歳をとり続ける以上、いつか記憶から消えていったり失くしていったりするだろう。そうなる前に、「決して忘れまい」と自分にも天に還った彼にも誓ったこのことを、作品にして一つの形に出そうかな、と。20年間自分の中で大事に守ってきたなら、それも許されるのかな、と。

そんなこんなで書き始めたけど、先日の記事は自分でも追体験というか、あの日の気持ちに、状況に帰るというかで、タイムスリップしたみたいになってしまった。いや、良いことなのだとホントに思うけど。

 

12月の特にこの時期は多くの人にとって『内省と感謝』の時期だということで、私もそれを実感するような不思議な感情が急に記憶から蘇ったりしている。

私は、自分の人生が変わり続けているからだろうか、そしてもともとそういう性格だからだろうか、親しい友人は本当に少ない。これからもずっと感謝して好きであろう人逹がほんの数人いるだけで、現在お付き合いがある比較的仲の良い人逹でも「知人」であるけど、「友達」かといわれると、さてどうだろうという感じ。

同じような境遇の人も居ないし、そういう人と出会ってもお互いの状況もまた変わるから、やっぱり「友達」というのではない気がする。

そんな私でも、最近フト、ジャイ女子校時代の思い出したくない面々以外の「その時代の友人逹」の存在や彼女たちの行動を思い出したりして、心が嬉しくなったり和んだりした。ずっと忘れていたけれど、あの苦しく辛い時代にも、私に善良な友情と好意をもって接してくれた人達がたくさんいたな、と思い出して嬉しくなったりした。

思い出したのは当時、全国大会をすぐ控えていたために部活の全員が修学旅行に不参加となった時のこと。それ自体はどうでもよく、同級生のジャイ子逹と化学室で自習をさせられた日々が辛かっただけなのだが、他の同級生たちが旅行から帰ってきた翌日のことを思い出した。朝練が終わり教室に入っていくと私の机の上には幾つものお土産が所狭しと並べられていた。そこにお土産を置いていってくれた友人の気持ちや交わした他愛もない会話など、ものすごく久しぶりに思い出したので、ちょっと笑えた。

はたまた大学時代、体育会のクラブ活動がメインでもあったので大学生としては全然パッとしない学生生活だったけど、そんな時代にもやはり、当時の「良い友達」と呼べる人達との出会いと付き合いがあったことをフト鮮明に思い出したりして、「良い奴だったなぁ」とちょっとニマニマしながら嬉しくなったりした。

何が私の心を嬉しくするかって、それはそんな「思い出してちょっと嬉しくなるような人逹」と出会って過ごした時間が自分の人生の中にあったと再確認したことだった。

得てして「忘れたい思い出」の方が強く自分の心と脳に刻まれているもので、そんな人達の存在や好意を頭の片隅にすっかり押しやっていたのだ。それが最近の自分の感覚や思考の変化によって、それらを仕舞っていた戸棚の扉がすーっと開いて出てきたみたいで。

良かったね、私。「好きだな」と思った人達が、人生のところどころで登場していてくれて。

 

そしてもう一つ。

これはいつか触れようと思っているけれど、「家族」について。

今回フト湧き上がってきたのは、人生全般のではなくてえらくピンポイントの、母親への感謝だった。

家を買って1年目の夏に、義父母と私の母親が一緒にこちらへ遊びに来た時のこと。購入にあたり援助もしてもらい、母親もとても楽しみにしていたこともあり、到着するなり二人の母親は文字通り「ワー!キャー!」と言いながら家中を褒め称えて喜んで回った。それをつい先日、マイナス15度の寒さの中帰宅した時に、24度のヌクヌクのキッチンに立っていてフト思い出したのだ。

私と旦那はこの家をつくづく「良い家だなぁ」と思い、感謝する。それは冬に暖かいから。二人とも日本の実家がひどく寒いので、心底家が暖かいことに感謝する。そしてカナダの住宅はセントラルヒーティングシステムを採用しているので、家中どこに居ても同じ温度で暖かい。私の実家とは本当に大違いなのだ。家が寒いと心が淋しくなる、というか淋しい家で育ったから、余計に寒さが沁みたのだろうか。いずれにせよ、トラウマ的な寒さ体験だったことは間違いない。

なので家が暖かいことは天国のようで毎回感謝するのだが、それはそういう超絶寒い家で育ち、ヌクヌク暖かい家に引っ越さないとわからない類の幸せの一つだと思っていた。

そんなことを考えて、帰宅後のキッチンで暖かさをかみしめていたらフト、あの1年目の母親の喜んだ姿を思い出した。

私と旦那以外で、この家のことをあんなにも喜んで好きで褒めてくれた人がいるということ、そしてそうやって全身全霊で喜んでくれた母親の気持ちに、初めて感謝した。

「これを伝えないで母に死なれては悔いが残るな」と思い、メールで感謝を伝える。

私は今となってはあまり母親と話さないが、この時ばかりは伝えなければと思った。

 

そして今日、こちらカナダはまだ22日の夜。昼間には旦那の実家から大量の愛情便が届いて、貴重な日本からの食料を確保。ありがたや、ありがたや。

カナダではクリスマスの25日と翌26日に閉まる店が多い。こちらの人にとっては文化的にとても大切な日であり、誰も働きたくない日であり、祝日なので人件費も倍の日だからか?理由はよく知らないが、とにかくいろんな店が閉まる。毎年そんな日に限って食材がなくなったりして不便な思いをするので、今年は多めに食材を買い込む。

猫のご飯も買って、好きなワインも家にあって、冷蔵庫の中も好きなものでいっぱいになって、コストコで美味しいクリスマスチョコを買いだめして、日本からのチョコも食材も届いて、家は暖かくて猫が居て旦那が笑っていてくれて、仕事があって家にやってきてくれるお客もいて。

なんて豊かなんだろう、と今ある恵みに感謝する。

億万長者でなくても、「足りている」幸せ。

この幸せが続きますようにと、今ある幸せに感謝する。

そしてこれからも「今」出来ること、大事にやっていくだけ。

ありがたい、ありがとう、と思った年末です。

 

さあ明日からは年内最後のかきいれ時、年越し天ぷらそばディナーを目指してはりきります!

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彼の死 あの日のこと    後編

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お葬式の後、家庭教師のバイトに行った。一日だけ大泣きして休ませてもらったが、受験も間近に迫っていて、生徒とそのご家族にはこれ以上迷惑をかけたくなかった。だけど、もう生きていたくもなかった。

お葬式が終わった途端、自分の役目はもう終わった、と思った。

伝えることは伝え、通夜にもお葬式にも参列し、彼のお骨を拾わせてもらい、骨壷に入った彼を拝ませてもらった。もう、私のやるべきことは何もないと思った。

バイト中、生徒に問題を解かせている間、泣きたくなって外に出た。冬の京都は寒い。お葬式の帰りにスーツのまま来たので、なおさら寒い。空を見上げて、どうしようもなく考え続けていたことを投げかけた。

「私はめっちゃ幸せやったけど、あんたに出会えて、一緒に過ごせて、めっちゃ楽しかったし嬉しかったけど、私なんかに出会ってしまって、うちの帰りに死んでしまって、まだまだ若いのに、もっといっぱい楽しいことややりたいことがあっただろうに、こんなに早く死んでしまって、あんたはこんなんで良かったんか?私なんかに、会わなきゃ良かったのになー。ごめんなー。」

空からは何も聞こえない。でも聞きたくないかもしれない。

「死ぬくらいなら出会わなきゃ良かったなぁ」なんて、いなくなってしまった今聞いたらもうどうしたら良いのかわからない。

とにかく、私の「彼の彼女」という名の役目はこのお葬式をもって終わったんだ。今日こそ、家に帰ったら、死のう。

 

帰り道、原付に乗って大泣きしながら部屋に向かった。派手な車に乗っていたけどもの凄い慎重な運転をしていた彼とは真反対に、普段からマンホールの蓋でつまずいて原付から体が投げ出されたり(原付大破)、目の前で停車している車にノーブレーキで原付で追突したり(奇跡的に両者無傷)、同じく目の前で停車している車にノーブレーキで自転車で追突したり(これも奇跡的に両者無傷)を繰り返していた下手くそな私の運転は、泣きすぎて前が見えないにも関わらず、こんな日に限ってまるで何かに守られているように安定した安全走行だった。

泣きながら原付を運転しながら、何か不思議な気配を感じた。部屋に何かがあるような、何かが待っているような。思い当たる約束も何もないのに、なんだかそんな気がした。

アパートに着き、3階にある部屋へと向かう。階段を上りながら、やっぱり何かを感じる。部屋の前まで行く。玄関の外からでさえも、やっぱり何かを感じる。ドアを開けるのが何だか怖い。

 

ずっと外にいるわけにもいかないので、思いきって玄関を開ける。

中に入って玄関の電気を点け、何かを感じるリビングの電気を点ける。

パッと明かりがついて、真っ先に目に入ってきたのは、ベッドの上に置かれていた彼のパジャマだった。そのパジャマが、とても嬉しそうにまるで光っているかのように何かを訴えていた。彼の笑顔が見えた気がした。

「オレもめっちゃ楽しかったやん」口元を上品に優しく釣り上げて、いつもの笑顔でそう彼が言っている気がした。

そのパジャマに駆け寄り、また泣いた。

いつもそこにあったのに、彼が亡くなってから一週間、毎日泣きながらそのパジャマを隣に置いて寝ていたのに、もう死のうって思った今日に限って、嬉しそうに微笑んでいる。

「オレも、めっちゃ楽しかったやん」

 

あぁ、彼は楽しかったんだ。一緒に居られて嬉しかったんだ。

そうだ、彼は言っていた。

「オレはな、またここに来たかってんか。ここに来るのがめっちゃ楽しみやってんな。だからな、お前に好きやとか言うて、あかんーってなって、もうここに来れなくなるのがホンマに嫌やってんな。」

「お前んち、おもろいな。変なもんいっぱい置いてある。あ、ミッフィーや。オレ今度来るときおもろいもんいっぱい持ってくるわ。」

そうだ、彼はこの部屋でいつも嬉しそうに微笑んでいた。

そして最終日の夜に、ミッフィーにちなんだいろんなプレゼントを持ってきた。まるで一足早いクリスマスのように。

 

もしもあの時私と出会わなくても、私の知らない場所で私の知らないうちに一生を終えていたかもしれない命に、その最後の9ヶ月間に出会えて知り合えて一緒に時間を過ごすことが出来た。生まれては終わっていくそんな命が無数にあるのに、その一つの彼の命と、その命が尽きる前に一緒に過ごせたことはとても奇跡で幸せなことなんだと思った。

「次に会うのはクリスマスな。4時な。オレが来るって言ったら、必ず来る。出来へん約束はせえへん。ほな、またな。また。」

そう言って、彼はあの日帰って行った。

 

 

それから、いろんな人や友人たちに励まされながら、私はなんとか生きていた。もう二度とかかってくることはないだろうと思っていた彼からの着信がとても悲しく思えた。大学の構内を歩いていると、私はこんなに悲しいのに世界は当たり前のように回るということが何だか衝撃的で、彼の死があまりにも悲しすぎて数日間は世界が三重に見えた。頭か目がおかしくなったのかと思ったが、映画やドラマのような発狂とは程遠い、冷静なただ静かな悲しみの中にいた。ゼミがあったので出席せねばならず、久しぶりに大学に行った日のことだった。ゼミ後に教授たちと大学内のカフェに行くことになり、一緒に行ったゼミ仲間と近況報告などをしていた時のことだった。

「最近どうしてるの?就職決まった?卒業も無事出来そう?」などと聞かれて、

「うん。つい先日、彼氏が死んじゃった。」と答えたと思う。

「え!?」という反応を受けて、話をしようかというところで携帯が鳴った。

見ると「直哉 携帯」と表示されている。心臓が止まるかと思った。

もう二度と鳴ることはないと思っていた彼からの着信に心底驚いて、心臓がばくばく言っている。急いで席を立ち、電話に出る。

「あ、もしもし、、、直哉の母ですけど、、お元気にされてますでしょうか、、」

あの綺麗で優しい、彼のお母さんからの電話だった。お葬式や各種手続きなどが終わり、ひと段落したところでふと、私のことを思い心配になって電話をしてくれたそうだった。

「あの、、これ直哉さんの携帯って出てますけど、、あの、、」私がそう言うと、

「えぇ、いろいろ考えたんですけど、、番号を私が引き継ぐことにしました、、。携帯は事故で傷がついてしまったので、もう使いませんけど。あの子も良く私に携帯持ってくれと言っていたので、、ね、、。」と。

【もう二度とない】と思っていたものが、一つだけ戻ってきた。私は泣きながらお母さんにお礼を言った。お母さんも一緒になって泣いていた。また、遊びにきてくださいねと言われて、あたたかくてまた泣いた。

 

相変わらず毎日毎晩泣いていたが、12月ももう20日になっていた。私は大学の親友と、3泊4日で韓国に卒業旅行に行くことになっていた。帰国予定は25日のクリスマスだった。亡くなった彼もそれを知っていたので、クリスマスの午後4時に私の部屋で会う約束になっていた。でもその彼はもういない。私は気が乗らなくて、キャンセルしようかと迷っていた。

彼女が出来て初めてのクリスマスを、彼はとても楽しみにしていた。専門学校の友人たちはみなクリスマスからお正月にかけて帰省してしまうらしく、誰も遊べないと嘆いていた。本当はイブから一緒に出かけたかったようだったが、あいにく彼と付き合うことになる前からこの卒業旅行は決まっていて、それも非常にがっかりしていたようだった。

旅行から帰ってすぐだと私が疲れるということをとても心配していた彼に、25日の4時なら確実に家に帰ってきてるし、韓国は近いから私は全然大丈夫だと伝えると、

「ほんまに?ほんまにえぇのん?ほな4時に会おか、、?」と嬉しそうに笑っていた。

 

「この旅行は、彼も知っている予定だから。やっぱり行こうかな。」そう思い、やっぱりいくことにした。親友と一緒に京都駅から関空へ、そして韓国へ。行きの飛行機の中で、空に近づくにつれていろんな気持ちがこみ上げてきてずっと泣いている私に、友人は大丈夫か?とだけ声をかける。

この人は、いつもそうだ。言葉が少なくても、気持ちが伝わる数少ない親友だった。

彼が亡くなった後、みんなが私に「元気出してね」「早く忘れた方がええよ」「時間が解決してくれるのを待つしかないね」と声をかけてくれる中で、この親友だけが私に「ごめん。なんて言っていいのかわからん。何も言えないわ。」と言ってくれた。誰からの言葉よりも、その真摯な心が本当に嬉しかった。

韓国について、空港で大学の先輩と合流した。先輩は私の所属していたクラブの人で、もう何十回と韓国に言語習得修行に一人で来ている人だった。この人も、変わり者だけどとても心根の熱い人で、私は大好きだった。

日本では彼がなくなる前から食欲がなかったが、韓国に着いてからは場所と雰囲気が変わったこともあり、また韓国料理がとても合い、嘘のように食欲が湧いて元気が出てきた。生き返るとはこういう感覚なのかと思った。

食事が出来るようになり、雰囲気の違う韓国の街を歩き、気分転換が出来て少し元気になった。生気を養って、いよいよ25日に帰国した。

 

「帰ってももう来ないしな。」京都駅について重い荷物を引きずりながら、時間を潰すためにどこかでお茶でもしようかと考えたが、あまりの荷物にそれも諦めた。

来ないとわかっている約束の時間に、一人で家にいるのはなんとなく嫌だった。

仕方がないので家路につく。アパートに戻ったのは3時半頃だった。

部屋に入ると留守電が入っている。何も考えずに、メッセージを再生した。

「もしもし、◻️◻️花屋です。お花が届いています。ご帰宅されたら連絡ください。」

何?誰?やめて。考えたくない。

恐る恐るメッセージに残された花屋へ電話する。忙しそうな花屋の店員が、簡潔に用件だけ話す。

「⚪️△直哉さんから、あなた宛にお花が届いています。今宅配していいですか?」

 

私は発狂しそうになった。

ようやく、ようやく韓国でまったく違う世界を覗いてきて、ほんの少しだけ日常から逃れられた気がしていたのに、なんで。なんでお花が届くの。彼はもういないのに。やめて。苦しい。

 

花屋と電話でのやりとりを終えて、花が届けられたのが、ちょうど約束の4時だった。

私が留守なのも、留守電を聞く時間もやりとりをする時間も、全てが予定不調和だった。不調和だったのに、完璧なタイミングで花が届いた。約束の、4時だった。

私の頭は今度こそ狂いそうだった。花が届けられた時、まさに玄関口に立っている背の高い彼を見た気がした。彼の満面の笑みを見た気がした。届けられた花が、花以上の何かを放っていた。

苦しい。私はまた泣いた。泣きすぎて声が出ない。壊れる。

花が届いた。亡くなった彼から、綺麗な花が届いた。でも彼はいない。優しくてあたたかい彼はここに居ない。もう助けて欲しい。

花と一緒にカードが添えられてあった。封筒を開けるとそこには、かわいらしいカエルがネコに抱きついていて、2匹で笑って「ずっと一緒」と描かれていた。

「一緒にいてほしい」彼が亡くなってから、ずっと心の中で願っていたことだった。

姿が消えてしまっても、せめて心だけはずっと一緒にいてほしいと毎晩泣きながら祈っていた。その言葉が書かれていた。彼からだと思わざるを得なかった。

 

ひとしきり泣いて、まだ泣き止まないうちに、これは本当に彼なのだろうかと疑問がわいてきた。気を取り直して、花屋に電話をかけることにした。

「先ほどのお花は、いつ、どんな人が注文に来たか覚えていらっしゃいますか?」

「覚えてますよ。ご注文を受けたのは、12月の10日ですね。ご注文に来られたのは、細めの女性です。」

「そうですか。どうもありがとうございました。」

 

電話を切って、段々冷静になっていく頭で考えた。そうか、これは彼のお母さんだ。彼のお母さんがきっと、彼が私にしてあげたかったであろうことを真剣に考えて、お花を贈ってくれたんだ。

不思議なもので、彼からの贈り物であった方が嬉しいはずなのに、私の頭は彼のお母さんからの贈り物であることの方が断然に受け入れやすかった。

気を取り直して、今度は彼のお母さんに電話をかける。お礼を言うためだ。

「こんにちは、お母さん。私です。綺麗なお花、今届きました。どうもすみません。本当にありがとうございました。」

「え、、?あの、、お花って、、どうしたの?あ、ご友人からもらったのかしら。良かったわねぇ、、。」

「え、、いや、あの。またまた。もう良いんですよ。お母さんからでしょう。お花屋さんもお母さんが注文に来てくれたって言ってました。本当に良いんです。なんだか、、どうもすみません。」

「、、、あの、、。何をおっしゃってるのか、、。ごめんね。わからないんですけど、、すみません、、」

「え。あれ、、。あの、、お母さんじゃないんですか?このお花。直哉さん名義で、私宛に綺麗なお花が、、、あの、、約束どうりちょうど4時に、、届いたんです、、けど、、」

やっと状況の飲み込めたお母さんも、この時点で私と一緒に号泣していました。

「そうですか、、あの子がお花を、、。贈りたかったんやろうねぇ、どうしても。」

この時私たちの間には嘘らしいものは何も感じられませんでした。

一緒に驚いて一緒に泣いて、しみじみとしていました。

あの時のお母さんは、決して演技をしている風ではなく、まして嘘をつくのがとても下手な方だったので、決して私を騙しているようには見えなかったのです。

ひとしきり電話口で一緒に泣いて、それじゃぁと言って電話を切った後、やっぱり花屋さんが隠しているに違いないと思った私は、再度花屋さんに今度はお礼を言うために電話をしました。

「あの、何度もすみません。本当にありがとうございました。なんか変なことに巻き込んでしまって、すみません。」

「え?いやだから、細身のすらっとした女の人が来て注文していったんですけど。すみません、もう良いですか?」

 

私にはもう、どちらでも良かった。

花が届いた時、一瞬彼が見えたのは本当だった。彼の笑顔がパァっと見えたのも、本当だった。嬉しそうな笑顔で「なぁ?」と得意げに、約束を守ると言ったことを実行した彼が見えた気がしたのは、私にとっては真実だった。

そしてこのメッセージカードも。誰が選んだ言葉であっても、これが彼からのメッセージであり、真実なのだと思った。

 

しばらくして、彼の親友たちとお墓参りに集まった日のことだった。彼らにクリスマスの花のことを話し、もらったカードを見せた。その時、封筒の中に一緒に入れられていたある曲の歌詞とギターコードの切り抜きの紙を見せた。

友人の一人がその中の一曲を指し、「これ、直哉君が一番好きだった曲やで」と言いだした。すると他の友人も「あ。ホンマや。」と唖然とし始めた。彼らは生前、同じ高校でバンドを組んでいたことがあり、そういうこともあって、亡くなった彼の好きな曲にとても詳しかったようだった。一瞬、みんな同じことを考え、感じたのだろう。誰も何も喋らなかった。少ししてから、教習所の友人が一言「良かったやん、これ届いて。」と言った。

 

「事実は小説よりも奇なり」とこの時ほど思ったことはない。

彼のお母さんが、彼の一番好きだった曲の歌詞とコードを歌謡雑誌から切り抜き、お花とカードと一緒に贈るだなんて、ありえるのだろうか。

これらすべてが本当に「偶然」や「人為的」だというのなら、どんな確率と計算なのだろう?

クリスマスだから、どんな奇跡も起こって良い。

12月は、奇跡の月だから。

 

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彼の死 あの日のこと    前編

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あの日のこと。

 

私が「目に見えないもの」をはっきりと信じるようになったのは、やはり、近くで死を経験したあの頃からだった。

 

彼の命日は、11月26日。当時私は大学の卒論を書いていた。それを気遣った彼が、クリスマスまでは会うのを控えようと考えて、その前に私の部屋に遊びにきたのが25日の夜だった。

辻調理師専門学校に通っていた彼は、その日学校が終わってから急いで実家に帰宅し、当時大きな悩み事を抱えて食事が摂れなかった私を心配し、特製スープを作ってくれた。作り終えるとすぐに、学校の友人に誘われていたパチンコに付き合い、本当は家まで送る約束をしていたその友人に律儀にもタクシー代を渡し、「ごめんけど、これで!」と言ってまた急いで実家に帰宅し、その日私のところに持ってこようと本人が企てていた大量のプレゼントと手作りスープを持って、私のバイトが終わる頃に合わせてうちにやってきた。

両手に抱えきれないほどの荷物だったので、私に車まで荷物を取りに来てくれと電話してきた。私が車に向かうと、彼はもう途中まで歩いてきていた。大量の荷物を抱えて。

そしてうっかり、鍵を中にさしたままドアをロックしてしまった。

それに気づいたのは朝の6時過ぎだったろうか。ちょうど会員証が切れてしまっていたロードサービスを有料で頼むのは馬鹿らしいということで、一旦実家にスペアキーを取りに戻ることに決めた彼は、ちょっと怖い彼の父親が出勤した時間を狙って実家に電話をかけた。母親の通勤時の乗り換え駅で、スペアキーをもらい受けるためだった。母親に事情を説明し、くれぐれも父親に言わないように念を押し、そしてもちろん父親の耳に入る。そして父親から電話をもらい、怒られる。仕方ない。

結果的にこうして彼は、亡くなる前に両親と話すことが出来、母親は最期に彼と駅で会うことになる。優しくて綺麗な彼の母親は、この時「息子を止めなければ」というどうしようもない気持ちになったという。「気をつけてね」といつも言っている言葉が、どうしても出てこない。言わなければいけないのに、どうしても言えない。

それはその前日の夜に、私が彼に思ったことにとても似ていた。

「どこに行くの?」こんなに近くにいるのに、とても遠いところに行ってしまうようだった。まだ始まったばかりなのに、まだ若いはずなのに、もう終わりを迎えていくかのようだった。そしてそれは、本当だった。

 

私のところを出たのは、昼前だったろうか。私の部屋に遊びにきた当時仲が良かった大学の友人に会って軽く話をした後で、うちを出た。しばらくしてからふと、彼が出てからどのくらい経つだろう?と何かが引っかかった。その友人に彼が出たのは何時頃だっただろうかと尋ねた。「もう1時間位は経ったんちゃう?」と友人は答えた。二人とも確かではなかった。窓を開け外を見るととてもいい天気だった。近くの山では紅葉が始まっていた。それがその日、私が彼の死を知る前に見た、「あの日の、22の私」の最後の景色だった。

 

彼はいつもは実家に着くや否や必ず電話をかけてくる人だった。その日は待てども待てども連絡がない。電話をかけてもつながらない。初めは寝ているだけだと思っていた。何度かけても出ない。寝ているだけだと信じようとした。でも絶対におかしい。何もないわけがない。そう思うと怖くて怖くて不安で仕方がなかった。

当時かけもちでやっていたバイトは一つは居酒屋、一つは家庭教師だった。その日は家庭教師の日で、彼のことを心配しながらもバイトに向かった。仕事中は携帯を触らないようにしていたが、どうしても気になる。生徒に謝り、抜けだしてまた電話をする。つながらない。恐怖で心臓が張り裂けそうだった。

 

バイトを終え、泣きそうな気持ちで家に着く。

必死だったことしか覚えていないが、帰宅後たまたま電話をかけてきた昼間とは違う大学の友人が私の様子を見にちょうど部屋に来てくれたところだった。

夜の10時前だったろうか。ようやく、彼の携帯がつながる。

 

電話に出たのは、か細い声の女性だった。私はほんのわずかに、「やはり寝ていただけだったんだ」と期待しようとした。でも無理だった。そのか細い声の女性は今にも泣きそうで、消え入りそうで、何事もなかったようにはとても思えない何かが伝わってきた。   

「あの、、、直哉は、、、亡くなりました、、、。」

 もの凄い衝撃と共に、頭のどこかで「やっぱり」とうなだれる自分があった。

 

そのか細い声の女性は、彼の母親だった。

「それは、、今日の何時頃だったんでしょうか。」と聞くと、「午後1時29分でした」と答えた。 あのとても綺麗な空の下、窓を開け私が山を見たあの時間は、一体何時頃だったのだろう。虫の知らせなんて、もっと鋭い感覚のものじゃないのか?あの時私はとても優しい空気に包まれていた。優しくて続いていくような何かの感覚さえ感じた。今振り返れば、それは彼の優しさか。でも当時は、彼が亡くなった瞬間さえも感じられなかった自分を責めた。

 

私が年上だったこともあり、そしてまだ19歳だった彼の、近頃の夜遊びを怒っていた父親のことを直前の彼との電話で知ったこともあり、私はとても責任を感じていた。

失ってしまった命のためにできるような罪滅ぼしなど、私にはとうてい思いつかなかったが、とにかく何かしなければと思った。同時にどうすればいいのだろうかと絶望感でいっぱいだった。

ご両親と直接接触するのはその電話が初めてだったが、意外なことを頼まれた。

「息子の友達で誰か連絡先を知っている人がいたら、このことを伝えて欲しいんですが、、、」

まさか、まさか自分が彼の死を、あの日彼に出会うきっかけになった教習所の共通の友人に電話することになろうとは。一体誰がそんな瞬間が来ることをあの日に想像できただろうか。

「⚪️⚪️君と、、△△君なら電話番号も知っていますが、、。」と伝えると、彼らはなかでも特に親しい友人だということで、連絡することを非常にありがたがられた。

悲しみと衝撃の中でも、変な縁を感じた。

⚪️⚪️君に電話をすると、なんの警戒もなくとても普通に電話に出る。

「おー、久しぶりー。何ー、どしたん?」

「うーん。。。ごめん。ごめんな。。。あのな、直哉君、亡くなってん。。」

「何おま、何ふざけてんの?何?え、何?え?マジで?え、何?意味わからん。マジ冗談やろ?」

「。。。ごめん。ホンマ。。」

「え、てか何?お前らまだつるんでたん?え、何でお前知ってんの?え、意味わからん。」

「うーん、、。うちからのな、、帰り道やってん、、事故でな、、。」

いたって普通の反応だと思う。19歳の子の、そして年齢を考えれば素晴らしいほど冷静でいようとしている反応だと思う。でも私はその「お前らまだつるんでたんか」という驚きで少し強めになった口調に、心がえぐられるようだった。本当にごめんなさい。大事な親友を、19歳という若さで死なせてしまった。それを責められているようだった。

 

とんでもないことになってしまった。そしてその当事者である私は、何をするべきなんだろう。どうにもならない考えや心を、どうにも出来ずにいた翌日、⚪️⚪️君から電話がかかってきた。

「直哉君の両親がな、お前に会いたいねんて。どうする?」

「行く。会いに行きたい。どうしたら良いん?」

会ったら、なんて言われるだろう。どうやって謝ればいいだろう。どれだけ罵倒されるだろうか。それでも私は、会いに行かなければいけない。どれだけ責められようとも、私は私の責任を果たさなければいけない。

その電話の翌々日、私は⚪️⚪️君と待ち合わせをして、彼と最後に会った大学の友人と一緒に、彼の実家に行った。砂を撒かれるのを覚悟で臨んだが、ご両親はとても優しく弱々しく、笑顔で私を迎えてくれた。

彼の父親が「5日間ご遺体を家でお世話します」と決めたので、この日私はまだそこで安らかに眠っている彼に会うことができた。(後で彼の父親と、この時どうして彼の写真を撮らなかったのかと、二人で笑って悔しがった。あったらあったで心が痛むだろう。でも「愛しい人は遺体さえも愛しい」という気持ちを二人で後に話したのだった。)

 

ご実家では最期の日のことや、「近頃毎日のように京都に行ってたんは、お宅さんとこでしたか。」など、最近の彼の様子を、怖いはずの彼の父親は私に優しくたずねてくれた。何か他に知っていることはないか、一緒に写っている写真などはないかと聞かれ、ずっと気になっていた「以前撮った写真」のことを思い出し、それを伝えた。「以前、彼がなぜか赤いキティーちゃんのカメラを持っていて、部屋で二人で写真を撮りました。彼はそのカメラをいつも車のダッシュボードの中に入れていると言っていたのですが、、ご存知でしょうか、、」私が尋ねるやいなや、「おーそれな、今現像屋に出してるとこやで。もうすぐ出来るんちゃう?」とのこと。彼が乗っていた車は日産のフェアレディZという車で車高が低かったため、ダンプカーと正面衝突した事故の衝撃で車の前半分が潰れていたとのことだった。もちろんダッシュボードが潰れていても何もおかしくはない状況だったのに、ドリンクホルダーに入れておいた彼の携帯電話とともに、奇跡的に後部座席に飛ばされていてそのいずれも無事だった。彼の携帯が潰れていたら、私も、友人も、事故のことを知るのは後のことだっただろう。

 

いろんな話をした。私の知っている彼のこと、彼が話してくれた両親への気持ちなど、彼が置き土産かのように私に託したメッセージをすべて伝えた。私たちは一緒に泣いた。そして彼の父親も母親も、泣きながらも決して私を責めなかった。それがとても苦しかった。

そして二人は口を揃えて言った。「あなたがあの日あの車に一緒に乗ってなくて、本当に良かった。それを考えるともう本当にいてもたってもいられない」と。

 

あの日あの車に。どれだけ一緒に乗っていればと思ったことだろう。

彼の代わりに、私が死ねば良かったのに。

こんな私が取り残されて、こんなに惜しまれている彼が死んでしまった。

なんでこんなことが起こってしまったんだろう。

 

 

それから数日でお通夜があり、お葬式があった。若い子のお葬式はさながら成人式の前撮りのようで、若くて生命力溢れる子達がみな驚きと悲しみを交互に見せながらとにかく参列していた。私はその中で、ただ泣くしかなかった。斎場の最前列で参列者の方を向きながら立っているご家族を見て、なぜ私はこちら側で、何も出来なくただ泣いているだけなんだろうと思った。なぜ私はこんなにも悲しいのに、あちら側にいられないのだろう。何も出来ない。ただそんなことを思った。

斎場の中を見上げると、上から彼が悲しそうにこちらを見ている気がした。いたたまれなくなった。

お焼香をする順番が回ってきた。私はよろよろと棺に近づき、花を添え、彼のご遺体のおでこにキスをした。ドライアイスでむせかえりそうになり、とても冷たいそのおでこが愛おしく、そして悲しかった。

 出棺直前に、彼の母親がキョロキョロと周りを見渡していた。この日も一緒に参列してくれていたあの日最後に会った大学の友人が、「お母さん、あんたのこと探してると思うよ」と私の背を押した。前に出て棺に近ずくと、彼の母親は泣きながら必死に私に「写真、棺にちゃんと入れたから。ちゃんと、入れさせてもらったからね」と言った。

あの日、実家で話したキティーちゃんのカメラに入っていた私と彼との一生に一度のツーショット写真。撮った時の彼の手の角度は明らかに見当違いの方向を向いていて、絶対に私の顔は写っていないはずだったあのツーショット。大破したZの車体から奇跡的に出てきたそのカメラに残されていたその一枚の写真は、まるで合成処理をしたかのように完璧に二人の姿を中央に据え、3Dのような彼の笑顔とともにしっかりと恋人らしく写っていた。その写真を撮った時は、まだ付き合う数ヶ月前だったのに。この日にこうなるのがわかっていたかのような、完璧な一枚になっていた。

 

本当はあの日、実家でこのカメラのことを伝えたあの日に、彼の父親が約束してくれたことがあった。急いで現像されてきた写真を確認していると、友人たちと撮った他のピンボケした写真の中から一枚だけ、唯一ピントの完全にあったこの写真が出てきた。そこに映る今までと違う少し大人びた笑顔でいる彼の姿を見て、彼の父親が私にこう言った。「これ、お葬式で使う遺影にさせてもらいますわ。ほんま、ええ顔してる。ほんまに、ええ顔やわ。これが良いわ。約束しますわ。遺影に使わせてもらいますわ。」

私はその写真を、そしてそこに映る実家で見るのとは違う彼の表情を大切に思ってもらえただけでもう十分すぎるほど嬉しかった。そしてありがたかった。夜遊びしていると思っていた息子が、良い笑顔で写真に写っているということが、「短い人生だったけど、若い者らしく楽しめたんやなぁ」と言って泣きながら喜んでくれる素敵な家族がいて本当に良かったと思った。それだけで私はとても嬉しかった。

結局、彼のご祖父母達があまりにも見慣れない彼の写真では困るということで、ご家族の写真の中から遺影を選ぶことになった。私はそれを聞いて安心していたのだが、彼の父親からは「口約束みたいになってしまって、ほんま申し訳ない」と謝られてしまった。

そして出棺直前に、泣きながら彼の母親がその写真を入れてくれた姿を見て、彼のご家族の愛情をさらに感じて私はまた泣いた。

 

 

続く

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