父と義父

前々回の記事で、私の中に微かに残る父への思いを吐き出したことで、微妙に心の中が変わりつつあります。

ブログって、いろんな使い方があるんですね。(しみじみ)

rainbowworld.hatenablog.com記事を書いてから、何かこう悶々としたものがずっと頭の中にあり、「何かが違う気がする」と思っていました。

そしてつい先日のこと。母と電話で話していると、父が「生命保険無加入」というのが発覚しました。私はてっきり、父にもしものことがあったらその保険金で実家を解体出来るかなと勝手にあてにしていたものですから、これを聞いてまぁ大分がっかりしました。(あえて無加入でいく人もいるのでしょうから、そのことについて言及しているわけではありません。あくまでも、我が家の父の話です)

というのも、その朝父は「胃カメラを飲むから朝食は要らない」と言い家を出たというではないですか。父は昔からストレスを胃に溜め込む人で、以前は潰瘍が3箇所同時に見つかったこともあったほどです。聞けば前回の健康診断で何かが発見されたというではないですか。これはもしかするともしかするかもと思い、万が一のことを考え母に保険のことをたずねたら、母が非常にがっかりしながら呆れた様子で話し始めました。

「自動引き落としを3ヶ月出来なかったから、停められた。」

「この間はうっかり電気を停められそうになって、危なかった。ちょうど私が家にいたから、1ヶ月分だけ払って繋いでもらった。」

 

、、、、、。 え?

そんなにダメなの?

 

母が「保険には入っておいた方が良い」と声をかけても、「そんな金はない」の一点張りで怒って話にならないとのこと。そして母には「俺は病気かも。もうすぐ死ぬかも。」とあれこれと心配しながらぶちぶち言ってくるらしいのです。

だったらなおさら保険に入れよ、父。

そして、父は母に一銭も生活費を渡してないのです。

フルで厚生年金ももらっており、普通の年金と足すとある程度の金額はもらっているはずの父ですが、何しろ管理が出来ないため、支給月になると朝から晩までオートレースに行ってしまい帰ってこないという日が続きます。

行くなら勝てよ。

行くなら元取って帰ってこいよ。

ていうか、行くなよ、父。

他に収入が無いのに、よくもまぁ、ギャンブルにそのなけなしのお金を使って怖くないのかと驚きます。

 

てゆーか、驚いてる場合ではないのです。

現実問題として、母がこれから離婚をして籍を抜き、姉は以前の父との大喧嘩で既に決別しているわけですから、つまるところ父が死んだら父名義のあの実家を片付け解体し更地にして処分するという工程の全てを私がやらなければならないということがハッキリしているわけです。

そこに保険も入っていない、病気でも自然死でも孤独死でも家の中で死んで誰にも見つけられないかもしれない、発見されるのが数ヶ月後でもう虫とかいろんなものがスゴイことになってしまって家中スゴイことになってしまっているかも知れない、それらの全てを私が一人で実費で対応しなければならないの???

 

ヒデブ。

 

とりあえず、一度に現金払いなんて無理だから、どうにか手を打たなければと考えたところ、「あ。父の保険料、私が出せば良いんじゃないかい?」と思いつき。

「病気になっても入院なんかさせない」とキッパリ言いはる母に、私が保険料を払うからどうにか安い生命保険に入らせて欲しい、と伝えました。

母に「すいませんねぇ」と言われるも、何かすっきりせずここでも悶々とする私。

その後、姉にこの件に関して大体の流れをメールすると、「クズの金なんかあてにしてんじゃねぇ。ヤツはクズだ。死んでも捨て置け。」と容赦ない積年の恨みと怒りのこもったメールが連続で返ってきました。怖や、姉。よもや般若か修羅か。

そしてとどめに、「クズはアルコール中毒でニコチン中毒でギャンブル中毒です。絶対治らない。捨て置け。」と。

それ、私が姉と母に教えたことやないかーい。

 

確かに、中毒です。中毒なんです。

そして中毒は病気なんです。治りません。

私は姉に捨て置けとは言いませんでしたが、母には再三言って聞かせました。

「それは病気で、絶対に治らないんだよ。本人がそれを治す意思があって、専門家の助けを借りないと、そして借りてもとても治すのが大変な病気なんだよ。言って治せるものじゃないんだよ。」と。

家族のことが大事だからとか、誰かのことを考えるからとか、そんなこととはまったく別のところで本人の中に巣食う、病気なのです。

子供時代からの愛情飢餓が、大人になっても続き、今や65歳の初老の愛情飢餓人です。

そして年を取りさらに好き勝手にし始めた父は、もうこれからもっと酷くなる一方でしょう。

 

そうだった。

これは中毒という病気だった。

もう治らない病気なんだった。

 

わかっていたけど忘れていたそのことを、般若のメールでほろっと思い出しました。

そして悶々としていたことがハッキリと心の中に言葉として浮かんできました。

 

どうして私がこの愚かな家族の尻拭いをしなければならないのだ?

どうして私がこの「既に人間ではなくなってしまっている中毒親父」に資金援助しなければいけないのだ?

今世で父を旦那に選んだのは私ではなく母なのに、その母はまったく他人事で、冷酷にも病気でもなんでも入院もさせず救急車も呼ばないと言っているのに、どうして私がその母の旦那の生活費やギャンブルのお金や電気や携帯の料金の心配をしないといけないのか?

そもそもどうして私が「自分で酒飲んでタバコ吸ってギャンブルして生きたい」と心底その姿勢を貫いている人間を正さねばいけないのだ?

 

答えはやはり、シンプルなのでした。

「捨て置け」

 

私が心を痛めなくても良いことなのです。

父から心と手を引くならば、母からも姉からも私は手を引けば良いのです。

彼らには彼らの何か「意味」があるから同じ家に住んでいるのでしょう。

私には私の何か「道」があったから、きっと家とそして国を出たのです。

そうだ、私は自分なりの距離をとろう。 深呼吸、深呼吸。

 

ここであまりにも対照的で面白いので、義父のことを少々書きたいと思います。

義父は山形から上野に集団就職をしてきた団塊の世代で、母の一つ上の世代です。

(ついでに母と義母は同じ寅年生まれで、縛られるのが苦手な外に出たい・自由でありたいという根本のタイプが似ています。

しかし私の父は巳年、義父は丑年。結婚する相手によってこんなにもその後が違うだなんてと、何度思わされたことでしょう)

 

義父の実家は貧しい農家で、食い扶持を減らすために田舎を出ざるを得なかった「長男ではない息子の一人」です。

片や、父はとても貧しい兼業農家の次男に生まれました。こちらも食べるものに困りながら育ちました。

義父は昔から「勿体無い」の人で、お金をかけることを極力嫌います。タダで直す、タダで食べる、タダでもらう、タダで、、、とにかくタダでが好きな非常に財布の紐がかたい人です。絶対にものを捨てない、手放さない。

そんな義父は、真面目に勤続し、某大手の下請け会社の工場長になって定年しました。

義父の受け取った退職金は、とても大きな金額だったと聞いています。

が、定年後10年経った今も、そしてこれからも一銭も使うことなく死んでいくと決めています。

死んだ後に家族・親戚に残すためです。

家族は義母と、旦那の姉と弟、親戚とは、義母の姉妹のことです。

旦那は諸事情により、遺産はもらわないことになっています。

お葬式などのために生命保険も入り、義母ではなくちゃんと旦那の姉が受取人になるように、その手続きの一切を既に説明してあり、そして義母には遺族年金が入るので、「家族も親戚もこれでなんとかやっていけるから、俺が死んでもあいつらは大丈夫だ。」と仏のような顔で言っています。本気で。

 

義母は気前が良く宵越しの金は持たないというか持てないタイプの人で、入ったお金はすべて家族や人のために使ってしまう人です。そんな奥さんのために、全部用意をしているお義父さん。

片や、いやもう出すのも嫌だけど、片や、群馬の我が父は、小さい会社ながらもエンジニアの上の人になったのに(役職忘れた)、退職金は母に一切金額を教えることなく速攻で使い切り、年金になってからはさらにギャンブル三昧で、「借金は残さないようにしようと思ってる」と言ってはいたがもの凄くそこはダウトで非常に怪しく、嫁には生活費を一切入れず、機嫌が悪ければ大声で「出てけー!」とバカみたいに叫びちらし、こたつの相向かいという至近距離からテレビのリモコンを母に思いっきり投げつけ、玄関から土間へ母を押し飛ばし、躾と訓練のされてない犬を二階で飼い、、、、。

あぁ、もう書くのはやめよう。

そうだ、「捨て置け、私」

 

何が言いたかったかというと。

同じ寅(虎)の性質の二人なんです。母も義母も。

だけど結婚した相手がこの蛇か牛かで、大きく自分たちの道が変わりました。

母は元気はつらつ社交的な人で友達がたくさん居ますが、家では首を絞められ檻に入れられた哀しい虎のようです。

片や義母は好き放題喋り放題で、3歳児がそのまま白髪になって歩いているような人です。

うちの父はそれを怒鳴り続け、義父はそれを「誰にでもいいところは必ずある」と言いながら一緒に生きたのです。(実話)

 

結婚をするときは、マジ相手を慎重に選びましょう。

そして「これやばい」と思ったら、勇気を出してとっとと別れましょう。

「これやばい」と思う相手の問題は、それが暴力であってもなくても、完全に相手の問題であって、あなたには何もできない場合が多いのです。

またそういう人に寄る人も寄せられる人も問題がある場合が多いわけですが、「私は変わるんだ」と強く思うなら、「自分」は変えられるのですから。

寄り添って一緒に助け合って生きていきたい人なら素敵ですが、そうじゃなくて「これやばい」と思うなら、「あなたらしいあなた」に戻って人生やり直しましょうよ。

 

私は捨て置きながら、適度な距離で様子を見ようと思います。(見るんかい)

読んでくれて、ありがとうございます。

 

 

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