私はあなたのフィロソフィーが好きです
私は昔からあまり人と合わず、というか複数人の集まる場所だとまったく意味がわからず、3人以上で集まると気が散って落ち込むという感じでやってきました。
2人なら、相手の気持ちやその背景にあるいろいろな感情や感覚に寄り添えますが、3人から増えるともう何が何やら。3人以上の人間関係のバランスという「場の流れとお互いの立場の牽制、推しはかり」みたいなものが絡んでくると気が散り、各々の体裁などに嫌気がさしてしまうという感じでした。
私はものすごく単純なのだと思います。そして「他人の気持ち」というのがよくわかりません。
人の痛みはわかると思っていますが、見栄・表向き・一応そう言っておかないと、、などのごく普通の会話の潤滑剤のようなクッションのようなオブラートのような、そういうものが苦手です。
決して会話のたびにグサグサ刺しているわけではありませんが、そういう会話の潤滑剤で溢れてくると、会話自体の意味が薄まる気がしてその集まり自体に興味がないというか、まぁそういう話をする時間が「これ何の時間?」みたいに思えて私はあまり好きではなく今まできました。
おそらく幼少期の父と母の力関係から、人間関係は「親分子分」という図式であると認識していたと思われ、幼稚園では「私は親分、他の友達は子分」という恐ろしい設定で付き合っていて、それを担当の先生が家まで相談しにくるということがありました。
今思えば、あれは当時の家庭環境を物語っていたのだなと思えますが、それを冷静に振り返り始めたのは最近のことのように思います。
人との距離感が、ちょっとわからないのかなと思います。
そしてなんというか、時間潰しのような付き合いが、苦手なんです。
そして、他の大勢の人が「これ良いよね〜」ということの大半がちょっとよくわかりません。なので流行りやそういうものにはまったく興味がなく、同じテンションで会話を合わせるようなことが非常に苦手です。
そう、「会話を合わせる」というのは、私には非常に苦しい価値観のすり合わせなのです。
かといって人類みな嫌いかというとそうでもないです。
他の大勢の人が嫌うような個性のある人は結構好きであり、みんなが敬遠したり影で笑ったりする人達と仲良くするのは得意です。
もちろん、本当に嫌われるべくして嫌われているような意地の悪い人などは私もなるべく関わらないように努めますが、そうではなく、暗い・何考えてるかわからない・イケてないと他の人達に思われる人達は、私にはまったく理解しやすく接しやすいのです。
なぜでしょう。
なぜなんでしょう。
色があるからでしょうか。
自分が「大勢の輪」という中に入りづらいからでしょうか。
人数が集まると人の意図は違う形に走りやすくなり、それが危険だなぁと思います。
「たくさん同じ思想の人がいる。だから我々は正しい」みたいな。
そういう雰囲気、好きではないです。
非常に危ないです。
でも人は流されやすいから、大勢でいた方が安心するのもわかる。
でも私は出来ないなー。
完全孤立では仕事も回らないので困りますが、お局達の派閥闘争に巻き込まれるのもご免で。
人が集まって「好まない者」を叩くのは暴力的でダメです。
私には私の正義感があって、賛同もしない人の動きに対して「数のうちに入れ」みたいな誘いにはのれないんだなぁ。
私には私の意思があって、私が誰を好きでいるかは私にしか決められないのです。
私にあの人やその人を嫌えという、強要をするのはやめてください。
あなたがその人を嫌うのに、そこにあなたのフィロソフィーはありますか?
かたや孤軍奮闘していたり、そういうものには入らないながらも人間関係のやり取りはしながら普通に仕事をしている人達も少数ながらに存在して。
私はあなたのその「関わるまい」という意志が好きです。
周りの人と仲良くしても、決して一緒になって必要以上に叩かない・敵意を見せない、あなたのその姿勢が好きです。
私は大勢で連むのが苦手です。だってまったく理解が出来ないから。
「楽しいから集まろう」というのもちょっとよくわからないのですが、それ以上に「徒党を組んで、押しやろう」というその意図が嫌いです。
「人と連む」ということ以外で、自分の気持ちを冷静に伝えてみて欲しいなぁ。本当に伝える必要のあるものならば。
「人数多い方が優位じゃ」みたいな愚かな振る舞いをするその他大勢の一人達に、嫌悪感を抱くなぁ。
本当に正しいと思うなら、一人でやったら。
先日からそういう、その他大勢の人達の闘争を見聞きしながら、悶々と何かを考えていましたら、ある日の通勤途中にピカッと何かが開けた感じがしました。
私は「その他大勢の人達」が苦手なのでそんなに友達がいませんが、友達であろうとなかろうと「私が好意を抱く人達」にはみんな共通点があることにようやく気付きました。
大勢の集団にいつもずっと入ってこれなかったので、「入れない自分」を足らない、欠けてる、おかしい、とそこに標準ばかりを合わせて落ち込んできましたが、だって嫌いなものは嫌いだし、自分の意思は自分の判断でしか変えられないし、同意も出来ないものに「それイイね」とか出来ないよってことでそれはそれでおいておき、そんなことより何より私がこれまで好きだった人達はみな、その人なりのフィロソフィーを生きている人だったことにピカーンときたので非常にすっきりした、ということなのです。
あー、すっきりした、私の悶々感。
一人だろうと大勢だろうと。
私はあなたのそのフィロソフィーが好きなんです。
自分の好きなものがまた一つわかりました。