ようやく2月が終わる

こちらは今はまだ2月28日です。

カレンダーを見ながら、ようやく2月が終わるとホッとしています。

 

今年の2月は、1月に母が無事に日本に帰り、その後の精神的な疲れからリカバリーをするためだけにあるようなものだと始めから思っていました。ようやくその期間が終わってくれて嬉しく思います。

毎年2月になるとどーんと落ちたりするので、なおさら駆け足で過ぎ去る2月は私にはありがたいです。

 

昨年の12月半ばから今年の1月半ばまで母がこちらに滞在しましたが、その間いろいろなことを感じ、悲しくなったり古い感情を手放したりしていました。

親の離婚とともに、私の人生にも「変わったもの」や「終了したもの」が想像していたものと少し違う感覚で細々とあり、「あぁ、そうか。これももう失くなるのだな」と思うことが多々あり。

もともとウマく機能していなかった家族でも、失くなれば失くなるでそれなりに不便に思うことなどもあり。母が滞在していた間に今後の予定などを話し合うなかで、「父親不在の不便さ」みたいなものも時々出てきたりして、居たら迷惑でしかない人なのに不在だと面倒なポジションというか、まともな「父」というキャラクターだったらどんなにこの人生ゲームは楽にまわるのだろうかと考えたりもしました。

 

離婚の書類手続き面でのドタバタは、最後の最後で気づいた「車の名義」でした。

父は自動車整備士だったので、今まで我が家の車関係は全部父がやっており、、。

無事に引越しを終え一件落着と思っていたのに、日本への帰国をあと一週間に控えた母が「車の保険を更新しないといけない」と言いだしたのがきっかけでした。

私が保険更新に必要な書類をググっていると、嫌な感じの情報が目に入ってくるではないですか。まさかと思い、ものすごく嫌な予感はしておりましたが母に確認します。

「車の名義って、まさか父ではないですよね、、」

するとさらっと母が悪びれもなく答えるわけです。

「そうだよ。あの人が勝手に買ってきたんだよ、私の留守中に!」と語尾がややキレてます。

いや、キレられてもね。

しかも保険の有効期限は母が帰国してから約一週間で切れるというギリギリな状態で、まぁなんというか、よくこんな状態で来たなというか。

慌ててそのことを姉に連絡し、今度は姉が日本でキレております。

「あれだけ言ったのに!!!」と。まぁそうですね。お怒りごもっとも。

そもそも母に生きている間の離婚をすすめたかった理由の一つに、「父の借金を一切受けない」というのがありました。どちらが先に逝っても、母のお金がギャンブルに流れるか、借金が全て私たちにやってくるかのどちらかのようだったので、出来ればそのどちらも阻止したく、せめて戸籍上の他人に戻れる母は是が非でも籍を抜いておきましょうというのが私と姉の目的でした。なので、母が父名義の車を所持したまま父が逝くなんてことがあったらば、という惨事を想像して私も姉もワーギャーとなったのでした。

車は帰国後に無事に届けてきたそうです。もちろん父との接触を避け、車泥棒ならぬ速攻の置き逃げだったようですが。なんでしょう、この珍家族。

 

今回の母の滞在で、私のなかで大きく変わったもののなかに「母への認識」というのがあります。離婚のショックがあるかどうかは定かではありませんが、そしてその影響の方が8割以上を占めていたのかもしれませんが、見事なまでの思考能力の完全停止と、見事なまでの幼児返りに、このままボケていく母の姿を見た気がしました。

母はもともと自発的な人ではないように思います。そしてこの40年強の暴君の支配下生活により「自分で選ぶ」や「自分で責任を取る」という感じの意思はことごとく叩かれ潰されてきたのだと思います。

私はこれまで、出来ることなら将来的には母の面倒をみたいとずっと思っていました。今は離れているので現実的ではないですが、願望としてずっと心にありました。

が、今回の滞在でそれはないなと思うに至りました。

母はずっと支配されていた暴君父の代わりに、「自分のことを全部決めてくれて、そしてやってくれる人」を求めており、近くに居てしまうと私がその役に適任なのであり、結果イライラして私がヒステリーを起こすという悲劇、、というかよもや惨劇になってしまい、本人は至って無邪気に気づいていないフリをし続けるという、私が予想していた「常人が離婚をしたらその後きっとこんな感じになるよね」という姿をはるかにブッチ切っておいでになりました。

そして心底思い知らされます。我が出生の家族に常人などおらんやないかい、ということを。

母は今回の滞在中、これまでで史上最悪の幼児返りぶりでした。70の婆さんスーパーでカートを暴走しめっちゃ危ない、とか、立ち止まるといつも距離が異常に近い、とか、なんならあれです、あの、幽霊とか亡霊とかそっちの類です。完全に憑依されてました、私が。

私は「幼児返り」と言っていますが、調べればいろんなところでこういう症状名というか診断名というかが出てくるような出てきたような。

結婚だけではないはずです、この母の生き様は。結婚して父が暴君になる前から、つまりは暴君の支配下におさまる前から、絶対母は「人に世話されたい」という星の元で生まれてきたと思います。なんせ70年前の「初孫」です。どんだけ世話されてきたんでしょう。(ちなみに「私は初孫だったから」が母の口癖です。恐怖しか覚えません)

そして恐ろしいことに、そのスーパーでの母の様子を姉に伝えると「それ、まったく孫と一緒」とのこと。もっと怖いわ。奇跡の63歳差の同キャラ?

わかりませんが。子供のいない私にとっては、この事実はホラーでしかありません。

 

私が日がなヒステリックになっていく姿をみて、旦那が言います。

「同居は無理だね」

同感です。

今回の滞在が史上最悪だったことには二つの理由があったと思っています。

1つは、母が離婚後のショックの過程だったこと。(多分)(本人は無自覚っぽい)

2つ目は、「母が無事にあの家を出れた」という「もうあの危険な場所に母を帰さなくて良い」という絶対的な安全感。

この2つ目が、私のこれまでの母への想いも一新させました。

今まで私は家族の中での私の役割として、「不遇な環境の母を、救ってあげたい。助けてあげたい」ということだけが頭と心の底にあり、「絶対的な危機感」がずっとそこにはありました。

でももうそこに帰らなくて良い。今回で母は本当に「いつキレるかわからない人」の呪いのない場所に安全に暮らしていられるようになった、この「日常生活が危険」という幼い頃からの呪いから私自身も解放されることになったというのが母への見方の変化になったと感じました。

そして、「私は母の命のガード。守らなきゃ」という自分の役目を終えたとしみじみ実感しました。

母と姉は、これで大丈夫。ここからはお互い自分達でやっていくだけ。

もう、母は大丈夫。

なので面倒はみません。母の件はこれで終わり。終了。

 だから離れているんだな、と本当に、思うことがあります。

 私は家族に全てを注いでしまうし、自分をすぐに殺してしまうから、私が私の人生を生きるならそれが出来る場所にいないといけない。

今回の件は、本当に、母も姉も私も、お互いの40年間にお疲れ様。よくやった。

 

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