日本への旅
4月に約3週間ほど、日本に帰ってきました。
私のまわりでも、帰っていた方が多かったようです。やはりみなさん、お目当ては桜かしら。
前々回の帰国あたりからでしょうか、時期を選べるなら出来れば4月に帰りたいなと思うようになり、幸いにも旦那氏と私の職場が4月はまだあまり忙しくなく、かき入れどきである夏が始まる前にまとめて休みをとりやすいというのもあり、可能な限りそうしています。
まぁそんなこんなで帰ってまいりました。
私としては4月に帰る最大の楽しみといえば、やっぱりこれでしょう。
「劇場版コナン」
いや別に4月じゃなくても観られるでしょうけども。上映したてのフレッシュなコナンが観たいじゃないですか。
観たい日本映画が映画館でタイムリーに観られることなどとっくの昔に諦めた私ですが、コナンだけはどうしたって映画館で観たいのです。それだけが唯一の、大人になってから実家で過ごした頃の良い思い出として記憶に残っているのです。
よもやコナンは私の心の友、まさにセラピー。
いつか絶対DVDを揃えるんだー。オー。
ということで、桜が満開でした。
今回の帰国は、実家に帰らないというか帰れないということもあり、母と姉の住む「姉宅新居」へ居候させてもらうことになっていました。姉は無事に母と引越しを済ませ子供達と再び暮らし始めたわけですが、なにせ旦那さんとはまだギクシャクしているのでどうにもこちらも居づらいよなぁ、、、ということで、最初の一週間は母と旦那氏と旅行を楽しみそれから後半の滞在を姉宅でお世話になることにしました。
金沢から始まり、大津と京都、そして大阪へのお墓参りに、姫路と広島へ行きました。上の写真は金沢城で、桜はまさにピークでした。
高崎から金沢へ北陸新幹線で行きましたが、とても便利でした。車内も広くて綺麗でとても快適。お寿司も最高に美味しかった。是非次回もまた行きたいですね。
私は大学と就職が京都と滋賀だったので、旅行をするならどうしてもそちらを廻りたい。なので今回も琵琶湖を見て、美味しい近江米の朝食を食べて、京都駅でご飯を食べて「擬似あの日の関西生活」を満喫。あー、ハッピー。
こちらは京都駅にある中村藤吉の生茶ゼリー。滞在中にテイクアウトしてホテルで食べて、新幹線口でもう一度買って車内で食べる幸せ。お腹はパンパンですがそれでも食べます。(記事に写真を載せるつもりがなかったので、まったく自分用の画質ですみません)
もしもいつか日本に帰ることがあるのなら、その時は断然、京都にも琵琶湖にも近い大津に住みたいなとやはり思うのでした。
今回、大津の宿泊は大津プリンスを利用しました。春も秋も大変混雑する京都駅は荷物を預けたくてもコインロッカーが足りなくなりますが、大津プリンスさんは京都駅にある出張所でチェックイン前に荷物を預けることが出来るので非常に便利でありがたかったです。スタッフの方の対応もとても丁寧で素晴らしく、さらに大津駅とホテルの間はシャトルも出ていてもう最高そして感激。タイムセール?を利用してお得な料金で部屋をとることができて、本当にラッキーでした。次回も必ず、こちらに泊まろうと思います。
金沢と広島で旦那氏は大切な知り合いに会うため途中別行動をしたのですが、母は大津から合流したので金沢では私は一人で買い物をしてブラブラし、広島では母と二人で広島駅を散策し広島焼きを食べました。姫路のホテルで朝食をお腹いっぱい食べた後でしたが、どこも満席のお店ばかりでたまたま立ち寄ったお店の席が残り数席空いていたので、これは今のうちに食べておかなければということで二人ともヒーヒー言いながらも完食。苦しいのだから二人で一つを分ければ良いものを、せっかくだからと一人一つずつ食べました。そしてとても美味しかった。「広島焼きを食べた」という事実と「旅先で名物を母と食べた」という事実が相まって、ことさら良い思い出になりました。
一口食べてから「あ!撮らなければ」と思い、食べたという証拠にパシャリ。美しくなくスミマセン。
そして旦那氏と再び合流して、最後の目的地、宮島へ。
丁度良く、夕陽の時間帯に着きパシャリ。
夕陽と鳥居と干潮を見たかったので、到着した日はとても嬉しかったです。
が、潮の満ち引きを調べていかなかった私は、翌朝ショックを受けるのですね。
帰りの新幹線の時間と、観光客の少ない時間に静寂の中で厳島神社を参拝したいという思いとで、朝食前の早朝参拝をすることにしたのですが、、、昼過ぎにならないと満潮は見れなかったわけですね。どうしても海に浮かぶ(ように見える)厳島神社の回廊を歩きたかったのですが、今回は残念でした。次回は時間を調べて是非、満潮時の参拝をしたいと思います。
でも早朝参拝は静かで美しくてとても良い時間を過ごせました。
そんなこんなで無事に楽しい旅行を終え、すっかりジーンズもきつくなったところで地元の群馬へ戻ります。
そして姉宅へ。
二人の姪っ子もすっかり大きくなり、なんだか子供って頼もしい。
姉は別居中の幻の10ヶ月を埋めるべく、どうにも頑張りすぎているようで見ていて本当に苦しかったですが、まぁそれは本人のみが解消できる心の溝のはず。これからも応援し続けますが、今回一緒に過ごせてとても楽しかった。
二人とも最近はお酒をめったに飲まない日々ですが、一緒にいる間はここぞとばかりに毎日晩酌したり、つまみの奪い合いをしたり、ファミコンで競い合ったり、ツインビーとアイスクライマーでお互いのアイコンを潰しあったりとそれは楽しい姉妹の時間を過ごせました。
そして昔のように連日買い物に出かけたりと、そんなことがとても心地よいのですよね。姉妹とは不思議なものだなとしみじみ感じた時間でした。会えば触れれば昔に戻ったかのような近い関係で、お互いの、少なくとも私には姉の心情や行動が手に取るようにわかったり。そして細かい記憶はすっかり忘れて残ってないけど、幼少期も一緒に過ごした紛れもなく血の繋がった姉妹であり家族なのです。この絶対的な事実の力よ。家族って本当に不思議だなとあらためて思いました。
新居でも姉は怒れるトラだったので家の空気は大方ヒリヒリしていましたが、普段は誰もツッコミを入れられない大虎に、年を重ねた妹の特権で私は蹴りをくれたりツッコミ倒したり愛ある暴言を吐きあって子供たちさえも笑わせたりと、まぁ私のやるべきことはやったかなと思います。
いじれば大変面白い人なのに。でもあんなに怒っていたら、近づけないよなぁ旦那さんも。昔からですがよりを戻した今もあまり口をきかない姉の代わりに旦那さんの日々の心境なども聞きながら、母と姉と生きてくれていることに感謝を伝えました。
するととても寂しそうに「追い出されたら、カナダに行くから良いんだよ、、、」とボソッとつぶやいた義兄。追い出されたら、実家に帰りなさいな。あなたには帰る実家がまだあるじゃないか、とツッコミ損ねたのが今回の帰国での一番の心残りです。
とにもかくにも、何を食べても美味しい、そして食べ物ごとにいろんな感情や感傷が渦巻いて「あれもこれも食べなければ!」と食べ続けたので今回も大変シシオの付いた帰省となりました。
そして今回初めて、私も旦那氏も「いつか日本に帰りたいかも」と思う心境の変化がありました。年月が変えたのか、はたまた加齢が何かを変えるのか。カナダに来てからこれまで一度も思ったことのない感情です。年をとるのも悪くない。いやぁ本当に、悪くない。
カナダに帰国する日、旦那氏は実家に帰ってから12キロ太りプチ鬱になって羽田空港に現れました。ポッチャリと肉の付いた顔にぬいぐるみみたいに陥没した丸い黒目をしてやってきた旦那氏。見た瞬間にわかりました。やっぱり今じゃないんだよな日本で暮らせるのは、と。今はまだ旅行や一時帰国がいいとこで、生活するのは今じゃない。もしも日本に帰るなら、その時は準備を整えてからベストな形でベストなタイミングで導かれるだろうと、なんとなく楽しみに思うのでした。まだまだ日本では家族などいろいろなものにエネルギーを食べられてしまう旦那氏と私にとって、そういう理由があってなぜか海外に送られて暮らしているんだなぁということもしみじみ理解しました。
帰省する前はカナダにいろいろ不満がありましたが、ここで生きている・生かされている意味をわかった気がしました。ありがたく、今を生きます。
そして。
今回の帰国で私がとても気になっていたのは父のことですが、日本に到着した翌日に祖母のお墓まいり用のお花を買うため実家の近くのスーパーに買い物に行った時のことです。駐車場の片隅にどこででも見かける、そして父も乗っている一台の軽トラを発見しました。どうにもその軽トラが気になった私は、その車から少し離れたところに停めた母の車の中で一緒に話していた母と旦那氏に「あれは父のではないか?」とやや本気で、少し冗談のつもりで言いました。二人は否定しましたが、やがて動き出したその軽トラがこちらの方向に向かって走り始めるやいなや「あ!父だ!」とみんなで大騒ぎ。咄嗟のことで助手席に座っていた旦那氏は運転席にいた母に隠れるように言い自分は横を向いて顔を見せないようにし、後部座席にいた私は旦那氏の背もたれの横からしっかりと念願の父の姿を見ることが出来ました。孤独に苦しんでいたら可哀想だなとそればかりが頭によぎった父の顔は、なんとも晴れ晴れとした表情で憑き物が落ちたかのようでした。母にはとても言えませんが、そんな父の姿を見て「離婚はお互いにとって、積年の恨みと怨念を解消したのではないか」としみじみ旦那氏と話しました。何にせよ、すっきりとした父の姿を見ることが出来て本当に本当に良かった。私の肩からも心からも、憑き物が落ちたような軽さを感じ日本旅行を楽しむことが出来ました。それがたとえあの時一瞬の父の姿だったとしても、きっとご先祖様が見せてくれたサインなのだと思っています。
無事にカナダの自宅に戻ってくると、愛猫ファイブの子猫トリオが「帰って来たの!?捨てられたと思ったよ!!!」と全身全霊で訴えてきた姿がなんとも愛しい限りでした。帰ってこれる場所があって、迎えてくれた家族ニャンズがいて、ありがたいなぁと喜びを感じたのでした。写真はすっかり日常に戻ったトリオニャンズです。前よりもさらに甘えるようになったかな。
いい旅でした。
私はあなたのフィロソフィーが好きです
私は昔からあまり人と合わず、というか複数人の集まる場所だとまったく意味がわからず、3人以上で集まると気が散って落ち込むという感じでやってきました。
2人なら、相手の気持ちやその背景にあるいろいろな感情や感覚に寄り添えますが、3人から増えるともう何が何やら。3人以上の人間関係のバランスという「場の流れとお互いの立場の牽制、推しはかり」みたいなものが絡んでくると気が散り、各々の体裁などに嫌気がさしてしまうという感じでした。
私はものすごく単純なのだと思います。そして「他人の気持ち」というのがよくわかりません。
人の痛みはわかると思っていますが、見栄・表向き・一応そう言っておかないと、、などのごく普通の会話の潤滑剤のようなクッションのようなオブラートのような、そういうものが苦手です。
決して会話のたびにグサグサ刺しているわけではありませんが、そういう会話の潤滑剤で溢れてくると、会話自体の意味が薄まる気がしてその集まり自体に興味がないというか、まぁそういう話をする時間が「これ何の時間?」みたいに思えて私はあまり好きではなく今まできました。
おそらく幼少期の父と母の力関係から、人間関係は「親分子分」という図式であると認識していたと思われ、幼稚園では「私は親分、他の友達は子分」という恐ろしい設定で付き合っていて、それを担当の先生が家まで相談しにくるということがありました。
今思えば、あれは当時の家庭環境を物語っていたのだなと思えますが、それを冷静に振り返り始めたのは最近のことのように思います。
人との距離感が、ちょっとわからないのかなと思います。
そしてなんというか、時間潰しのような付き合いが、苦手なんです。
そして、他の大勢の人が「これ良いよね〜」ということの大半がちょっとよくわかりません。なので流行りやそういうものにはまったく興味がなく、同じテンションで会話を合わせるようなことが非常に苦手です。
そう、「会話を合わせる」というのは、私には非常に苦しい価値観のすり合わせなのです。
かといって人類みな嫌いかというとそうでもないです。
他の大勢の人が嫌うような個性のある人は結構好きであり、みんなが敬遠したり影で笑ったりする人達と仲良くするのは得意です。
もちろん、本当に嫌われるべくして嫌われているような意地の悪い人などは私もなるべく関わらないように努めますが、そうではなく、暗い・何考えてるかわからない・イケてないと他の人達に思われる人達は、私にはまったく理解しやすく接しやすいのです。
なぜでしょう。
なぜなんでしょう。
色があるからでしょうか。
自分が「大勢の輪」という中に入りづらいからでしょうか。
人数が集まると人の意図は違う形に走りやすくなり、それが危険だなぁと思います。
「たくさん同じ思想の人がいる。だから我々は正しい」みたいな。
そういう雰囲気、好きではないです。
非常に危ないです。
でも人は流されやすいから、大勢でいた方が安心するのもわかる。
でも私は出来ないなー。
完全孤立では仕事も回らないので困りますが、お局達の派閥闘争に巻き込まれるのもご免で。
人が集まって「好まない者」を叩くのは暴力的でダメです。
私には私の正義感があって、賛同もしない人の動きに対して「数のうちに入れ」みたいな誘いにはのれないんだなぁ。
私には私の意思があって、私が誰を好きでいるかは私にしか決められないのです。
私にあの人やその人を嫌えという、強要をするのはやめてください。
あなたがその人を嫌うのに、そこにあなたのフィロソフィーはありますか?
かたや孤軍奮闘していたり、そういうものには入らないながらも人間関係のやり取りはしながら普通に仕事をしている人達も少数ながらに存在して。
私はあなたのその「関わるまい」という意志が好きです。
周りの人と仲良くしても、決して一緒になって必要以上に叩かない・敵意を見せない、あなたのその姿勢が好きです。
私は大勢で連むのが苦手です。だってまったく理解が出来ないから。
「楽しいから集まろう」というのもちょっとよくわからないのですが、それ以上に「徒党を組んで、押しやろう」というその意図が嫌いです。
「人と連む」ということ以外で、自分の気持ちを冷静に伝えてみて欲しいなぁ。本当に伝える必要のあるものならば。
「人数多い方が優位じゃ」みたいな愚かな振る舞いをするその他大勢の一人達に、嫌悪感を抱くなぁ。
本当に正しいと思うなら、一人でやったら。
先日からそういう、その他大勢の人達の闘争を見聞きしながら、悶々と何かを考えていましたら、ある日の通勤途中にピカッと何かが開けた感じがしました。
私は「その他大勢の人達」が苦手なのでそんなに友達がいませんが、友達であろうとなかろうと「私が好意を抱く人達」にはみんな共通点があることにようやく気付きました。
大勢の集団にいつもずっと入ってこれなかったので、「入れない自分」を足らない、欠けてる、おかしい、とそこに標準ばかりを合わせて落ち込んできましたが、だって嫌いなものは嫌いだし、自分の意思は自分の判断でしか変えられないし、同意も出来ないものに「それイイね」とか出来ないよってことでそれはそれでおいておき、そんなことより何より私がこれまで好きだった人達はみな、その人なりのフィロソフィーを生きている人だったことにピカーンときたので非常にすっきりした、ということなのです。
あー、すっきりした、私の悶々感。
一人だろうと大勢だろうと。
私はあなたのそのフィロソフィーが好きなんです。
自分の好きなものがまた一つわかりました。
ようやく2月が終わる
こちらは今はまだ2月28日です。
カレンダーを見ながら、ようやく2月が終わるとホッとしています。
今年の2月は、1月に母が無事に日本に帰り、その後の精神的な疲れからリカバリーをするためだけにあるようなものだと始めから思っていました。ようやくその期間が終わってくれて嬉しく思います。
毎年2月になるとどーんと落ちたりするので、なおさら駆け足で過ぎ去る2月は私にはありがたいです。
昨年の12月半ばから今年の1月半ばまで母がこちらに滞在しましたが、その間いろいろなことを感じ、悲しくなったり古い感情を手放したりしていました。
親の離婚とともに、私の人生にも「変わったもの」や「終了したもの」が想像していたものと少し違う感覚で細々とあり、「あぁ、そうか。これももう失くなるのだな」と思うことが多々あり。
もともとウマく機能していなかった家族でも、失くなれば失くなるでそれなりに不便に思うことなどもあり。母が滞在していた間に今後の予定などを話し合うなかで、「父親不在の不便さ」みたいなものも時々出てきたりして、居たら迷惑でしかない人なのに不在だと面倒なポジションというか、まともな「父」というキャラクターだったらどんなにこの人生ゲームは楽にまわるのだろうかと考えたりもしました。
離婚の書類手続き面でのドタバタは、最後の最後で気づいた「車の名義」でした。
父は自動車整備士だったので、今まで我が家の車関係は全部父がやっており、、。
無事に引越しを終え一件落着と思っていたのに、日本への帰国をあと一週間に控えた母が「車の保険を更新しないといけない」と言いだしたのがきっかけでした。
私が保険更新に必要な書類をググっていると、嫌な感じの情報が目に入ってくるではないですか。まさかと思い、ものすごく嫌な予感はしておりましたが母に確認します。
「車の名義って、まさか父ではないですよね、、」
するとさらっと母が悪びれもなく答えるわけです。
「そうだよ。あの人が勝手に買ってきたんだよ、私の留守中に!」と語尾がややキレてます。
いや、キレられてもね。
しかも保険の有効期限は母が帰国してから約一週間で切れるというギリギリな状態で、まぁなんというか、よくこんな状態で来たなというか。
慌ててそのことを姉に連絡し、今度は姉が日本でキレております。
「あれだけ言ったのに!!!」と。まぁそうですね。お怒りごもっとも。
そもそも母に生きている間の離婚をすすめたかった理由の一つに、「父の借金を一切受けない」というのがありました。どちらが先に逝っても、母のお金がギャンブルに流れるか、借金が全て私たちにやってくるかのどちらかのようだったので、出来ればそのどちらも阻止したく、せめて戸籍上の他人に戻れる母は是が非でも籍を抜いておきましょうというのが私と姉の目的でした。なので、母が父名義の車を所持したまま父が逝くなんてことがあったらば、という惨事を想像して私も姉もワーギャーとなったのでした。
車は帰国後に無事に届けてきたそうです。もちろん父との接触を避け、車泥棒ならぬ速攻の置き逃げだったようですが。なんでしょう、この珍家族。
今回の母の滞在で、私のなかで大きく変わったもののなかに「母への認識」というのがあります。離婚のショックがあるかどうかは定かではありませんが、そしてその影響の方が8割以上を占めていたのかもしれませんが、見事なまでの思考能力の完全停止と、見事なまでの幼児返りに、このままボケていく母の姿を見た気がしました。
母はもともと自発的な人ではないように思います。そしてこの40年強の暴君の支配下生活により「自分で選ぶ」や「自分で責任を取る」という感じの意思はことごとく叩かれ潰されてきたのだと思います。
私はこれまで、出来ることなら将来的には母の面倒をみたいとずっと思っていました。今は離れているので現実的ではないですが、願望としてずっと心にありました。
が、今回の滞在でそれはないなと思うに至りました。
母はずっと支配されていた暴君父の代わりに、「自分のことを全部決めてくれて、そしてやってくれる人」を求めており、近くに居てしまうと私がその役に適任なのであり、結果イライラして私がヒステリーを起こすという悲劇、、というかよもや惨劇になってしまい、本人は至って無邪気に気づいていないフリをし続けるという、私が予想していた「常人が離婚をしたらその後きっとこんな感じになるよね」という姿をはるかにブッチ切っておいでになりました。
そして心底思い知らされます。我が出生の家族に常人などおらんやないかい、ということを。
母は今回の滞在中、これまでで史上最悪の幼児返りぶりでした。70の婆さんスーパーでカートを暴走しめっちゃ危ない、とか、立ち止まるといつも距離が異常に近い、とか、なんならあれです、あの、幽霊とか亡霊とかそっちの類です。完全に憑依されてました、私が。
私は「幼児返り」と言っていますが、調べればいろんなところでこういう症状名というか診断名というかが出てくるような出てきたような。
結婚だけではないはずです、この母の生き様は。結婚して父が暴君になる前から、つまりは暴君の支配下におさまる前から、絶対母は「人に世話されたい」という星の元で生まれてきたと思います。なんせ70年前の「初孫」です。どんだけ世話されてきたんでしょう。(ちなみに「私は初孫だったから」が母の口癖です。恐怖しか覚えません)
そして恐ろしいことに、そのスーパーでの母の様子を姉に伝えると「それ、まったく孫と一緒」とのこと。もっと怖いわ。奇跡の63歳差の同キャラ?
わかりませんが。子供のいない私にとっては、この事実はホラーでしかありません。
私が日がなヒステリックになっていく姿をみて、旦那が言います。
「同居は無理だね」
同感です。
今回の滞在が史上最悪だったことには二つの理由があったと思っています。
1つは、母が離婚後のショックの過程だったこと。(多分)(本人は無自覚っぽい)
2つ目は、「母が無事にあの家を出れた」という「もうあの危険な場所に母を帰さなくて良い」という絶対的な安全感。
この2つ目が、私のこれまでの母への想いも一新させました。
今まで私は家族の中での私の役割として、「不遇な環境の母を、救ってあげたい。助けてあげたい」ということだけが頭と心の底にあり、「絶対的な危機感」がずっとそこにはありました。
でももうそこに帰らなくて良い。今回で母は本当に「いつキレるかわからない人」の呪いのない場所に安全に暮らしていられるようになった、この「日常生活が危険」という幼い頃からの呪いから私自身も解放されることになったというのが母への見方の変化になったと感じました。
そして、「私は母の命のガード。守らなきゃ」という自分の役目を終えたとしみじみ実感しました。
母と姉は、これで大丈夫。ここからはお互い自分達でやっていくだけ。
もう、母は大丈夫。
なので面倒はみません。母の件はこれで終わり。終了。
だから離れているんだな、と本当に、思うことがあります。
私は家族に全てを注いでしまうし、自分をすぐに殺してしまうから、私が私の人生を生きるならそれが出来る場所にいないといけない。
今回の件は、本当に、母も姉も私も、お互いの40年間にお疲れ様。よくやった。
書類整理とシュレッダー
いよいよ12月です。
来週には母がやってくるので、ワクワク。
いつも遊べるお友達がいないので、友達のような母がやってくるのはとても楽しみなのです。どこへランチに行こう〜とか、何して遊ぼう〜とか、何買おう〜とか。
現在、カナダポストは部分的にストライキをしているとのことで、先日母に送った封書がなかなか届かずに非常に心配していたのですが、昨日ようやく到着したとのことで、一安心。
というのも、入国審査の際のやりとりは母にとってとてもストレスになるので、その際に審査官に提出する旦那からの英文レターはとても心強いのです。無事に届いて良かった。
さて、冬になると私の働く職場は暇になり、休みが増えたりします。私は休みになると何かしら家の中のものを捨てて片付けたいという気持ちになり、部屋ごとや引き出しごとに断捨離を敢行するのですが、先月末から取り組んだのはカナダに住み始めてから保管し続けていた「12年分の重要書類」です。
インターネットや携帯電話などの請求書や各種銀行からの明細なども全てとっておいたのですが、もう数年前に解約している会社のものも全てとってあったりと、まぁどうしても紙類は増えていき、専用のコンテナもいっぱいになってしまいますよね。
カナダは基本確定申告を個人でするようなので、その書類も一体何年とっておかなければならないのか?という感じで、申告時に会計士からもらう最終の書類と、そのために準備して持って行ったその年の我が家の収支の全ての書類とを一緒にまとめて保管していました。
なので、今回はその書類の中から、確定申告のために準備した中のもう捨てても大丈夫な書類と銀行口座等のもう必要ない書類を全てシュレッドすることにしました。
その中でも、以前の職場の給与明細が大量に出てきてちょっと面白かったです。今の職場のお給料は自動振り込みで、金額や労働時間等の明細はお給料管理会社のサイトにログインすれば確認出来るようになっていますが、以前は毎回紙で明細をもらっており、最初に働いた職場で「給与明細は確定申告に持っていく方が良い」と言われたので(実際にはT4という書類をもらうので、それを持っていくだけで大丈夫なのですが)それ以来ずっと最近の自動振り込みに変わるまでの分の明細書が手元にあったのですね。
我が家のシュレッダーは小型で一回の使用に4分間くらいしかパワーが持たず、全書類を処分するのに日数が要りましたが、本日ようやく完了しました。書類の置いてあった場所と私の心が、ようやくすっきりしました。
書類の中に7・8年前の私と旦那の給与明細を見つけて、あらためて自分たちの軌跡をしみじみと振り返りました。
移民する前後の日本食レストランでのお給料と、移民後にカナダの会社で働いた金額、それからカレッジに行った後で働き始めた今の職場でのお給料の金額の比は1:2:3。
冗談みたいに、ジャパレスは低いのです。
そしてこれは移民者や留学生などが働く「カナダ以外の国籍のレストランとビジネスのお給料&待遇あるある」であるように思います。
この時代に、治外法権かよ。
就労中は、「海外だし、自分たちは外国人労働者だし、肩身狭いし、英語わかんないし、カナダ政府が相手にしてくれるわけないし、てか外人怖いし」などと思って当時の清貧生活を送っていましたが、労働者の権利てか人権の重みをあらためて感じたのは、カナダの会社で働き始めてからでした。
カナダ人達の、権利の主張の仕方は本当にスゴイ。
慣れるまでは本当に、本当にカルチャーショックでした。
大きい声では言えない、いや言いたくありませんが、私たち日本人そしてアジア人達は「一生懸命働ク。文句言ワナイ。言ッタラダメヨ。最低賃金?当タリ前ヨ。最低賃金以下?当然ヨ。休憩?何ソレ?仕事アルダケ有難イデショ?チップ?マネジメント二献上デショ。当然デショ。」というのを押し付けられるというか、受け入れるというか。
カナダ以外の国籍というか、主にアジア人が経営する会社はどの国も同じような内容だとみな口を揃えて言います。オイタワシヤ。
田舎だからなのか。結局異国に来ても、田舎と都会の差なのか?
少なくとも私たちが住む街とその近隣では、残念ながらアジア人経営のお店や会社はあまり良い話を聞きません。うーん、、、。
結論:海外在住中の方は、せっかくですから勇気を出してその国の法律に則ったその国の会社に働いて、しっかりと人権と労働者の権利を得ましょう。
書類整理から話が逸れてしまいましたが、この移民者あるある、克服したほうが良いように感じます。
日本でスキルアップと転職を繰り返しながら希望の会社やお給料に近づいていくというのと同じことなのかと思うのですが、私も旦那も日本ではそれが出来ませんでした。
出来ないというか、興味がない。それをして、就きたい職種も仕事もない。
ですが、こちらでの生活ではそうも言ってられず。
移民でというか移住で最も驚いたのが、冗談ではなく「居場所がない」という感覚。
ワークビザではその期間が終わったらこの国に居られない(観光ビザへの延長は除く)し、移民しても外国で路頭に迷うわけには絶対にいかない、という感覚。
自分達の居場所を確保するために、居る権利を取得するためにビザが必要であり、今後の衣食住を守って生活を発展していけるだけの経済力がないといけない。
日本に居た頃には想像もしたことがなかった「ビザがないから居られないよ」という危機感。ビザが取れなきゃこの国に居られる資格なし。この恐怖が強すぎて、私の心は鍛え上げられたのです。
といっても、移民を言い出したのもカナダが好きだと言い出したのも全て旦那でしたので、当初は「あんた、気張りや」みたいな完全に他人事な姿勢で計画を立ててきたのですが、次第に気づくわけです。「やばい。この人任せだと、やばいで」と。
店員に何かを尋ねるときも、お金のことを聞くときも、お金のやり取りをするときも、銀行でやり取りするときも、「お金に関することと、各種制度は知っておかないと」と。
そして私はカナダに来てからというもの、ある医療検査に引っかかり続けてきましたので、「怖いけど検査に一人で行けるようにならないといけない」や、「医療も各種サービスも、旦那が留守でも自分でやれるようにならなければいけない」と思うようになりました。
イヤイヤですが必要に駆られて、英語に向かっていかなければならなくなりました。
カナダ一年目に滞在したストラットフォードで、何かの技術専門学校を見つけました。当時、旦那と自転車をキコキコしながら食料品の買い出しに行く途中で必ず目に入る学校でした。自分がカナダ社会で働く気などさらさらなく、働いている姿など想像さえ出来ませんでしたが、よく「今度人生やり直すなら、絶対技術職に就くべきだ」と旦那に言っていました。
言語が違う場所に来て初めて、自分の知ってる言語や経験じゃ何の役にも立たないと感じたからでした。いい歳した大人が、英語を話せないというだけで幼稚園児と同じてかそれ以下か、と。
その国の仕組みを何も知らず、医療や福祉や学校や保険など、職業や会社や、銀行で口座が作れるのかどうかさえも知らず。特に私は半年で帰るつもりだったので、まったく予想もしていなかった海外移住の道でした。
仮にあの時英語が話せても、私の日本での学歴や職歴はここではまったく使えず、完全に一からのやり直しをすることになったわけですが。
あの経験は、大事だったなと思います。
居場所のなさの不安と、実際生きていかなければならないこのサバイバルな現実は私をとても強くしてくれました。
今の町に引っ越しジャパレスで働きながらもう少し英語力を付けるためにと語学学校に2・3ヶ月行きました。でも学費が高く、永遠に上達する気がしない(少なくとも短期上達は見込めない)授業進行に、「これにかけるお金はない」と断念。
私はともかく旦那には確実にカナダの学歴をつけてもらわなければという計画から、ジャパレス清貧中に出来るだけのお金を貯め、移民権を取得後にまずは旦那をカレッジに送り込むことに成功します。カナダ人の生徒と海外からの留学生では学費が違うので、我が家は是が非でも移民をしてからの就学にしたかったので、これは大変良かったです。
さらに、カナダは素晴らしい国で移民者に向けた無料のカレッジプログラムがあることを知り、まったく想像もしていなかったですが、私もカレッジで英語と諸々を勉強出来ることになりました。たった一年間だからと、ビビりながらも何とか通いきり、修了。
でもそこで気付きます。自分が内向的である以上、英語力だけで就ける仕事は無理だぞ、と。なのでここであらためて、あの日のストラットフォードで感じたことが自分に返ってくるわけです。
「技術職だ。英語力の欠如は、何かしらの技術力でまかなうべきだな」と。
無料の一般プログラムの授業の中で、カナダの仕事を調べるというのがあり、私は以前の仕事である介護職について調べたのですが、お金は良いけど仕事がキツイ。そして同じ仕事はしたくない。
ということで、化粧は嫌いだけど一念発起して美容科に行くことに決めました。
私はずっと「セラピスト」になりたかったので、人に触れ癒す手伝いをする今の仕事内容はとても気に入っています。
でもいかんせん同僚がみな浮世離れした人たちばかりで、正直最近キツイ。
田舎のカナダ人なんてみんな欲の話しかしない。性欲、酒欲、ドラッグ欲、そしてまた性欲。あぁ、うんざりだ。
でもお金は最高に良い。今までやった仕事の中では格別に効率良くお金を稼げます。
なので今は模索中。お金を稼げる間に、次の道を探さなくては。
早めの脱サラを目指して、いろいろ試してみようと思います。
好きな数字の勉強もしたいし。
ブログももうちょっと力を入れたい。
そう思うとまだやってみたいことが残っているだけ楽しみで良いな、と。
来年はさらに自分に投資して勉強する一年にしたいと思います。
ということで、溜まっていた書類を片付けたら次の習い事をするやる気が出た、という話でした。
満月に2通の手紙
今月の初めに、母と姉が無事に実家を出ました。
母は無事に離婚届けも提出し、旧姓に戻りました。
この「無事に」というのを、私はとても心配していました。
引越し当日は、姉が子供達の住んでいるアパートの引越し作業も同時にしなければならずとてもバタついたようで、引越し完了の連絡が私のところに来なかったため、「あ、これは死んだ。修羅場だ。流血だったんだ。」と得意の完璧な妄想力で私自身の血の気を引かせて気が気ではありませんでしたが、翌日になって二人の無事を確認することが出来、なんだか一気に世界観が変わったかのような気分を味わいました。
その世界観とは、物心ついた時からずっと頭の片隅にあり続け、五感も六感も使っていつもいつも心配し続けてきた「いつか母親が殺されてしまうのではないか」という恐怖から、「もう母親が家の中で殺される心配がない」という安心とはまた違う「恐怖のない世界」という感覚です。
少なくとも家の中で母が父に殺される心配はなくなったというこの新しい状況が、あらためて「私は父が本当に怖かったんだな」ということを気づかせてくれました。
母が無事に離婚届けを提出し終わり、家を出て、離婚届けを出した旨を父に書き置きで伝えた一連の流れが終わり、「これで父と母は他人に戻ったのだ」というえも言われぬ解放感と、「もうこれで、良い歳した大人二人の面倒(心配)は一切要らないんだろう」というお役御免のような解放感で、このまま知らんぷりしても良いんじゃないかと思ったりしながら、ちょうど3週間が経ちました。
その間、姉に引越し祝いを贈ったり母の新しい部屋の収納の相談やらに乗ったり口を挟んだりしながら、あちらもようやく新しい生活に馴染んできたところで、もうすぐ母がカナダにやってくることになっています。
母のカナダ入国にあたり、今回はパスポートを作り直して名前も変わったため新しくeTAの申請をし直したのですが、当人はパスポートの作り直しの申請までで既にキャパ超えだったので、代わりに旦那がこちらで母のeTAを申請してあげることになりました。
新しく作ったエアカナダのポイントカード、eTA承認のEメールのコピー、入国審査官に見せるための旦那からの手紙、この3点を送るため母宛の封書を用意しました。
住所は新居、名前は旧姓。新しい生活を送るこれまでとはまったく別の人のような母への宛先と宛名を書きながら、「これにも慣れていくんだろうな」と思ったり。
かたや、どんな風に過ごしているのかまったくわからない父へ、今後のことを相談したいという旨の手紙を書きました。
何度も何度も書き直し、結局、手書きではどうしても伝えるべきことが書けなかったので、最終的にワードで打ったものをプリントすることにしました。
手書きじゃないけど、娘の気持ちが伝わることを祈って。
父の対応次第では、これが最後になるやりとりです。何度もためらいながらも、やはり伝えるべきことは伝えておかなければと誠心誠意、心を込めて書きました。
宛先は私がこれまでずっと使ってきた住所、宛名は私が今まで見てきた「働いていた父」の名前。定年して酒で頭がやられてしまった方ではない、人の名前。私の中では、その名前。
郵便局の簡易オフィスが入っている近所のドラッグストアーに、母への手紙と父への手紙を出しに行きました。満月の夜に、2通の手紙。それぞれに違う宛先のついた、両親への手紙。
まさかこんな遠くの地へ来て、こんなに綺麗な満月の日に、ようやく無事に離婚した母親と父親への2通の手紙を送る日が来るとは。
満月はリリース、手放し、解放。
父よ母よ、出来るだけ幸せに生きてください。今までありがとうございました。
43年間の結婚生活、お疲れ様でした。
好き過ぎて憎い
先日のこと。
『マッチョ、時々、乙女』な旦那と夫婦会議をしていたら、旦那が私にこう言った。
「本当に、お前が好きすぎて憎いわ」と。
それを聞いて私は、本当にこの人と結婚して良かったと思った。
結婚というより、一緒に生きられて良かったと思った。
乙女であり小説家でもある旦那の言葉からは、こうして時々虹が出る。
実のところ私達が出会ったきっかけは某mixiで。
今思うと、こんなにも人生生きづらい私達でも、何気に時代の流れにのってたなとさえ思う。
遡ること13年前、まだそんなにmixiとか私の周りには全く誰もやってる人がおらず、たまたま知り合った群馬県民の、どこかの大学卒の「パソコンやってるよ」という人からmixiのことを教わった。
「人とつながれるよ。やったら?」と言われて、人を探すためにやってみた。
一方旦那はその頃、当時は某出版社の編集だったお姉さんに「mixiっていうのがあるよ。いろんな人が見てるから、作品載せてみれば?」と言われて始めたところだった。
当時の私は労災休養中で、シブシブ群馬の実家に戻り、リハビリを兼ねて自転車で近所の田んぼや畑の周りをキコキコしており、道端の花や空の写真を撮っていた。
写真を記事に載せて投稿し始めてから間もなく、現「乙女な肉旦那」が一枚の写真にコメントをくれた。そこから始まった。
コメントのやりとりから、Eメールのやりとりになり、現代版の文通みたいな期間を経て、ついに電話で話すようになり、そしてとうとう旦那が私の実家の最寄駅である某国定駅まで会いに来てくれた。何もない、本当に何もない、てか自転車置き場しかなくて学生が通学用に使うためだけにあるかのような田舎の駅に、神奈川産のシティーボーイが降り立った。
コメントやEメールのやりとりで、私は旦那の人柄がもの凄く伝わってきて、「気持ちの良い人だなぁ」と思っていた。
初めて電話で話した時は、彼のあまりにも聡明な声とテンポよく会話を回せる頭の回転の速さに、俄然好感を抱いた。頭の回転の速い人は大好きだ。
2つ年下の旦那は、まだ当時ちゃめっ気たっぷりのわんぱく小僧で、若さと楽しさに勢いがあった。そしてその勢いで某国定駅に来ることになったのだ。
mixiを始めたものの、心の底からアナログ一直線だった当時の旦那は、今でもそうだがとても疑い深い人で、私が商売女だと思っていたらしい。旦那の親友の一人も「危険だ。会いに行ってはダメだ!」と言っていたらしい。
一方私は、旦那の声とキャラクターに俄然楽しい印象を持ち、どれほどサラッサラなストレートヘアーの小柄な好青年が来るのだろうかとウキウキして駅まで迎えに行った。当時の愛車、真っ赤なフェアレディZで。
文字にするとなんだか見事にメチャクチャな設定である。
でも本当の話し。事実は小説よりも奇なり。恐るべし。
そして駅に着き、電車が到着し、私はルンルンで小柄で華奢なサラサラストレートヘアの青年を探した。学生服のみなさんを見送り、駅にはほぼ誰もいなくなった。
すると、階段の上に、中肉中背のややボテっとしたタンクトップ姿の青年が一人、携帯を触りながら立っている。
「違う。絵的に絶対に違う。でもあれだべ。(群馬弁)」
私は自分のイメージと実在の青年のあまりにも違いすぎる姿に半ば呆然としながらも、mixiのハンドルネームで声をかける。やっぱり彼だった。
ちょっと曇った目に、小柄でも華奢でもないその腕の筋肉。本人が「これは筋肉だよ!」と言って力こぶを作って見せるまでまったく筋肉だと気づかなかった私の、この想像力の乏しさに驚く。いや、むしろ逆か。想像力が豊かすぎたのか。
挨拶後の私の一言はまさに、「めっちゃ詐欺やん」でした。すみません。
そんなこんなでランチをし、あっという間に旦那は折り返し神奈川に帰る時間になってしまった。なんせ群馬と神奈川は非常に交通のべんが悪く、まともな時間に帰ろうとすると6時半とか7時とかには最寄の田舎駅を出発しないといけなかった。うちの実家は当時私にとても寛大で理解があったので、「無理してこの電車に乗らなくても、泊まってけば良いじゃないか。」と初めて会った好青年に私は言った。
旦那はバカがつくほど常識的な人で、「それはいけない、初めて会った女の人の家に泊まるなんて、そんなことをしてはいけない」と別れを惜しみながらも常識と葛藤していたその時だった。
Zのラジオから旦那の人生のテーマソングであるベン・E・キングのスタンドバイミーが流れた。
完全なるシンクロニシティだった。
これが旦那の心を決めた。
そして私たちは実家に引き返し、旦那は初対面の私の父にご挨拶。まずはお友達として。
そこから私達の現実での交流はスタートし、いろんな山を越え谷を越え、3ヶ月後には結婚することを決意し、6ヶ月後には入籍するという流れになって今に至る。
どこかの誰かの言葉で、結婚は3つのINGで決まると聞いたことがあり、フィーリング、タイミング、ハプニングだったような気がする。
まぁホントその通りだなと思う。
好きなだけでも、優しいだけでも、愛されてるだけでも、気が狂いそうなほど愛しているというだけでも、結婚には至らないのだな。
私は家族愛の深い蟹座の女で、星的には結婚が向いているらしいが、これまで経験してきた「先の見える一見退屈そうにも見える安定した交際」はどうしても耐えられなかった。とても優しい、死ぬほど優しい人達だったのに、彼らとはどうしても結婚には辿り着けなかった。周囲も家族も、そして本人達もいつかそうなるのだろうと思っていたけれど、どうしても結婚には辿り着けなかった。
でも結婚って、そういうものだと思う。
旦那と出会った頃は、私はある失礼なヤブ医者から「子供はまぁ無理でしょうね」と言われており、家族みんなが結婚を諦めていた。それどころか私自身は酷い痛みに苦しんでいて、結婚どころか再就職さえ絶望的だった。
旦那といえば夢を追いかけ、現実の競争社会から完全に離れており、どうやって夢を追いかければ良いのかわからなくて悶々としている時だった。
どこから見ても、結婚なんてありえないような状況だったが、そこはそれなりのハプニングと運命的な波調でもって、「じゃ、結婚しとこっか。」ということに至る。
私の中では至って自然で当然な成り行きだった。
「この人との先が、まったく予想がつかない」というのが、私の旦那に対する感想であったにもかかわらず、だからこそ堂々と自信をもって結婚に踏み切れたのだ。
当初、旦那はカナダに来ることが決まっており、私は日本で待つ予定だった。
私の就職時代の素行を知るとても尊敬する元上司には「何も結婚しなくたって。その人じゃないとわかったらどうするの?」と心配されたが、私は自信満々に「それこそ結婚してみなければわからないじゃないか!ダメだと思ったら別れれば良いんだよ!」と言っていた。
旦那の声のファンにはもう一人居て、それは亡くなった彼のお母さんだった。
まだお母さんが生きていた頃、時々カナダに電話をかけてくれたことがある。
当時も今も家に電話はなく、旦那の携帯にいつも電話をもらっていた。
なのでお母さんと話すのはいつも旦那が先だった。娘同様に私を大事にしてくれたお母さんは、私がカナダに来ると伝えた時にはひどく泣いた。「また帰ってきますよ。たった一年ですよ。」と伝えても、まるで今生の別れのように泣いていた。そしてお母さんは正しかった。きっと、本当にどこかで感じ取っていたのではないかと思う。
カナダに電話をもらう度に旦那と話すお母さんは、旦那の人柄がわかり、とても好印象をもってくれた。息子を亡くし、その息子の生き証人だった私の存在を無くすことがどれほど辛いことだったかを私は知っている。ましてその相手である旦那と現実で接することへの抵抗があったことも、よくわかる。でも旦那の声から出るその人柄は、お母さんの心も溶かした。
生前に大変旦那のことを褒めてくれたお母さんだったが、以前お墓参りに伺った時に初めて旦那と対面したお父さんからも「この人が旦那さんですか。なるほど偉い大絶賛なのもうなずけますな。」と言われた。旦那の心根の良さが伝わって本当に良かったと心から思ったのだった。
とにかく、そうして私の人生に現れた青年はなぜか私の想像したサラサラストレートヘアの華奢な青年ではなかったが、出会って13年たった今も「この先はどこへ行くんだろうね?どこへ向かってどんなところへ行くんだろうね??」とちょっとワクワクしながらもまったく想像がつかないという絶えず進み続ける人生を展開してくれている。
好きすぎて憎い、とか言いながら。
人生で一番のプレゼントだな。ホント。ありがとうございます。
夢を見るのは苦手だけど、目標があればそれを達成するために走れる私と、とにもかくにも夢を見る天才の乙女な旦那とで、これからも日々精進していきたいと思う次第で。
二人とも生きづらいけど、二人で生きればなんとかなるさ。
そして。私が結婚を決意した旦那からのメールからは、3Dで虹が出てました。
以前、あの彼が亡くなった時に悲し過ぎて世界が三重に見えた感覚と、旦那のメールを開いて心が震えた3Dの虹の感覚は、どこかでしっかりとつながる同じ愛情のしるしでした。
「この先もしも『運命の人』という存在に出会う時は、必ず全感覚でわかるはずだ」と泣きながらでも確信していたあの当時の自分に、「それは本当だよ」と背中を撫でてあげたいです。
というある夫婦の話しでした。読んでくださりありがとうございます。
こちらは21日なのですが、今更新したら22日付でアップされるのですね。そんなつもりで書いたわけではないのですが。
英語ですが興味のある方へ Healing Cancer World Summit
もう始まっていますが、アメリカ時間の(?)17日から23日まで、興味のある人は名前(ファーストネームのみ)とメールアドレスの登録だけで無料で聴ける、ガン治療のエキスパート達におけるHealing Cancer World Summit に参加できます。
日ごとに公開されるエキスパートが変わり、全てもしくは気になったものを聴くことができます。
私がこのサミットを知ったのは、主催者のKris Carrが先日私がやったベーガンダイエットの主催者でもあり、このサミット開催のお知らせを事前にメルマガで受けたからです。
私は基本的に、Hay Houseとそこから知った専門家たちの有料・無料セミナーのお知らせは受信するようにしており、ピンとくるものは受講するようにしています。
今回のサミットも他のサミット同様、全員の話に興味があるわけではありませんが、初日のKelly Turner Ph.Dと2日目のKen Cookという人の話が非常に面白いと感じました。(まだこちらでは開催から2日目です)
Kelly Turner Ph.Dの話の中で、「末期ガンから回復した人の9つの共通点」というのがあり、それらは順不同に
①食生活を劇的に変えた
食事の50%以上を野菜、人によっては肉を断ち菜食のみにした。
②Anger Work, Grief Workに取り組んだ
Griefは死別、絶望、悲しみなど。自分の中にずっと溜めていた人生の怒りや絶望などの気持ちに向き合い、解放するワークをする。
③瞑想・リラクゼーション
瞑想はあらゆることに効く。もちろん闘病にも。毎日10分からでもとにかく始めてみる。やり方は様々。自分のやりやすいもので良い。頭や心から雑念を取り除くのにもとても役立つ。
頭・心・体はリラックスしている時に治癒力が高まるので、自分に備わっている治癒力を高めてあげる。
④好きな『楽しめる』ことをする時間をもつ
瞑想と同様で不安や痛みに苦しんでいる時には、治癒力が働きづらくなっているため、ワクワク出来ることだけに没頭する瞬間を作って、心と体から一瞬でも不安や苦しみを消す時間を作る。(数分でも数十秒でも良いからまずはやってみる)
筋トレと同様に、やり続けると継続できる時間が長くなる。
⑤好きな「コメディー(お笑い)」をみて、とにかく笑う。笑ってみる。
辛い時に笑うのはとても大変なことで、難しいこと。だけど笑うと、ガン細胞を抱きしめて圧縮死させるNK細胞が活性化するため、笑いはガン治療にはなくてはならない最強の治療法である。(KellyはNK細胞のことを「ハグ細胞」と紹介している。苦しむガン細胞を抱きしめるから、ハグ細胞)なるほど。
⑥直感に従う。
Kelly がガンを克服した人の調査を始めて、もっとも驚いたのがこの「直感」に関するコメントだったと言っている。一人や二人ではなく、調査したすべての人が自分の中に聞こえた・受け取った直感に従ったと報告したという。その直感は治療方法に関するものであったり、自分のどこにガンがあるかであったり、何に取り組むべきであったり、など人によって様々。
⑦⑧⑨は時間の都合上、具体的ではなくサラッと説明されてしまいよく覚えていませんが(すみません)、確か禁酒・禁煙などの体に悪いと言われていることをやめる、専門家の指導のもと薬草治療を取り入れる、などでした。
約1時間の対話形式のインタビューの中で10分間ほどの誘導瞑想をしてくれたのですが、私的にはこれが目からウロコでした。
手短に訳すとこんな感じです。他のいろんな誘導瞑想と同様に、深呼吸から入り、全身をリラックスさせ、落ち着き安全であると認識してから、美しい階段をどんどん下に降りていき、深いところに美しいドアがあり、そのドアには私たちが望みそして私たちを待っている「癒し:healing」があり、そのドアを開けて癒しの空間に入ると地面に一歩一歩足を踏み入れるたびに足先から癒しが身体中に満たされていき、とても美しく快適なあなたのための休める場所(イス、ソファー、ベッドなど)があり、そこに横になってとても気持ちがよくなっていると隣に美しい宝箱があることに気づき、それを開ける。そしてその宝箱の中身が、「あなたに必要な癒しの原因」でした。
これは新しい、いや、新しいと私には感じました。とてつもなく斬新。
この『宝箱』の設定が、すごい。
これも直感の一つと思います。瞑想でリラックスして、癒しの場の実際の癒しエネルギーで満たされ癒されながら、宝物に遭う。宝箱の素材も色も形も自分で想像し(瞑想内の世界で実際に見る、触る)、その中身を想い、そして開ける。
その中身は、、、、、、。
私の中身は、なんと、亡くなった祖母、亡くなった彼、亡くなった彼のお母さん、亡くなった最愛のネコ「ブン太」、でした。みんな亡くなってるやないかい!
うまく言えませんが、伝わりづらいかもしれませんが、みんな死んでますけども、彼らは私にとって「愛」の象徴です。疑うことなき、愛の象徴。
祖母が亡くなる前まで二人で交わした愛情、彼が亡くなっても届けてくれた愛情、彼のお母さんが亡くなる直前に電話をくれて何度も何度も泣きながら伝えてくれた愛情、私に生きる気力を与えてくれた愛ネコとの出逢いと愛情。
その宝箱の中からみんなの愛情が溢れていて、みんなが声をそろえて私に伝えようとしているのは「生きて」「愛してるよ、生きて」
私の癒しのブロックになっているもの、まさに、でした。
私は一番知っている。あなたも一番知っている。本当のこと。
とにかく泣きました。アイヤー、ソウキタカ。
これまでいろんな瞑想を試してきた方だと思いますが、それにしてもこれは私には斬新な切り口でスッと入ってくる気持ちの良い瞑想でした。
他にもたくさん癒しの瞑想がありますので、興味ある方は是非探してみてください。
ついつい私事で話が脱線してしまいましたが。
私の日本での記憶と知識は日本を出た12年前で完全に止まってしまっているので、
今現在の日本のガン治療の情報がどうなっているのかまったくわからないのですが、今日ここで紹介させていただいたサミットでも言われていますが、予防できるなら予防するのがいいね、と。なっても治せるが、予防がいいねと。
なので上記の9つ(6つしか書けてませんが)は予防にも良いし、これはガンに限らずどの病気にもあてはまる対処法だと言っています。
より健康に生きるにも「楽しいことや好きなこと」をする時間を大切にして「笑うこと」を意識的に取り入れる。
Kellyの調査した人逹のなかで、ある女性が言った言葉に「ガンと宣告される以前の、「面白かった記憶(笑った記憶)がない。これは生きるにも死ぬにも良くない!!」と言ったそうです。宣告されたから笑えないのではなく、その以前からも彼女は笑っていなかったということに気づいたわけです。楽しいことを取り入れなかった今までの人生に気づき、これはまずい!と思ったわけですね。もちろんその女性も回復されました。
私たちは最期のその瞬間まで生きている。肉体の死はその最期の一瞬を迎える時ですが、それまでの人生の全ては生きている「生命活動」の途中なのだな、と最近思うようになりました。
じゃぁ生きないと。生きるなら幸せに近づきたいし、心が幸せでありたいなと。
補足①
ちなみに、病気回復や予防に言われる「エクササイズ:運動」が9つの中に入っていないのは、調査した人達のほとんどが大分進行した病状から回復されたため、治療という観点でのエクササイズは実行不可能だったためとのこと。(予防にはエクササイズはやるべきだそうです)
補足②
この記事でまったく説明出来ませんでしたが、Ken Cook氏は主に「体につける製品の毒性」について話しています。化粧品からシャンプーなどの生活用品を含め、肌に塗るもの(頭皮も含む)は体内に浸透する ため、人体の最大の臓器である肌から吸収されるということ、その危険性について、莫大な研究結果をもとに話しています。個人的には、美容関係従事者として『化粧品が毒物』というのは既知の事実であり、だからこそその内容物と生産者、生産工程などを知ることは重要であると同意しまくりです。
取り急ぎご紹介を、と思って手短かに書く予定だったのですが。ゴチャゴチャと個人的な見解を入れてしまい、読みづらい人にはごめんなさい。
内容に興味がある方、英語の耳慣らし教材を探している人、海外では健康問題がどのように言われているのか(このサミットはとても総合的な観点からガン治療を捉えているものの一つであり、『Body Mind Spirit』の全てから闘病・克服・予防・豊かな生き方に取り組んでいる人達の集まりです。一般的というよりも先駆的です)を知りたい方などには良い機会になるのではないでしょうか。