猫と自宅待機

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そして84日が過ぎた。これは自宅待機の期間です。そしてまだ継続中。

コロナ騒動は私にいろんなものを与えてくれましたが、その中でも大きなものといえばやはり、この自宅待機の日々です。

その間、群馬の母や姉は当初まったくコロナを気にもとめておらず、「緊急事態宣言?そんなの日本に来るかね?」と言っていた。その後少ししてから日本も自粛に入り、「ちょっとでも熱があったら医者に診てもらえないんだよ」と持病持ちの父が心配そうに話しているうちに、そのまま感染者の人数もあがらず、自粛が解けた。そして私はまだ、自宅で待機をしている。

 

カナダも少しずつビジネスが再開してきたが、分野ごとに時期をずらして復帰していくらしい。5月のどこかで初めて「ビジネスを再開する」という言葉を聞いたときに、まっ先に思い浮かんだのは「やめて!再開しないで!てか私が辞める!」という腹の底からの気持ちだった。ついにきてしまったか、と。

そして先日、6月のはじめ頃に「緊急外の診療(歯医者、マッサージ治療など)の再開を許可する」という政府からの連絡をみて、「ついに、本当に辞めるときがきた」と思った。私の仕事はその2つの職種と限りなく近い勤務体系で、それらが再開するということは、私の職場も再開するということだからだ。

 

自宅待機になり最初に気づいたのは、今まで絶対に性格的にも経済的にも無理だと思っていたが一度はやってみたかった「専業主婦」という夢のポジションに就けうるということだった。居られる。猫と一緒に家にいくらでも居られる。なんなら料理も掃除も断捨離も芝刈りもやる。問題ない。料理と断捨離は最初の一ヶ月くらいでこんなもんかなという程に落ち着いた。最近はめっきり作る気もなくなってしまったが、それでも自分が食べたいものが思いついたらササッと作る。ずっと家にいるから本当は1日2食で良いよなと思う。(旦那は仕事してくれているので、彼が食べるときは作る。それ以外は作る必要がないと言われている)

気を抜くと1日13時間くらいパソコンの前に座ってる日が続き、さすがに健康が心配になり散歩を真面目にし始めた。1週間に3回くらいの散歩。以前はこれさえも面倒だったので、今年こそはと年初の抱負に入れていた。結果的に、散歩が定期的に出来るようになって良かった。

 

以前の記事にも書いたが、志村けん氏とのお別れと時を同じくして、これまたもう絶対に無理だろうと思っていた「父との再通話」に導かれた。一人暮らしと社会の状況によって父の性格も変わっていた。見事に悪と威勢が削げ落ち、元来の愛情深い人になっていた。「何か必要なものはあるかい?」と聞くと「体温計が欲しいんだけど、店で売ってないんだよ」と言うので、ネットで探して普段よりは高いがそこまでバカ高くはない値段のものを送ってあげた。体温計が無事に手元に届いた父に「他にはないかい?」と聞くと、「ないです。体温計がきて、もう本当に幸せ。これが手に入らなくて本当に心配だった。どうもありがとうございます」と本当に幸せそうに言われた。それを聞いて私の心も救われた。

 

毎年夏になると家の近所の観光地から、屋外カラオケの音や、道行く人の大きな話し声や、道端で騒ぐ集団の声などが聞こえて騒がしいのだが、今年は自宅待機のおかげでその夏の出だしが遅れている。私的にはとてもハッピーでありがたい。

 

そして何より、私が一番心穏やかに過ごせている理由は、「誰にも会わずにすむ」というこの快適自宅待機生活そのものである。

去年の秋頃から、密かに心の底で思っていたことがあった。「あー、一ヶ月くらいのんびり休みたいな。」

私の仕事は接客業で、本当にいろーんな人がいろーんなことを求めてやってくる。職場の人も本当にいろーんなタイプの人たちで、この仕事でなければ間違いなく一生話すこともなかっただろう人たちばかりである。楽しい日もあったけれど、基本的に私はいつも疲れていた。人が近くに居ることで否が応でも耳に入ってくる会話、言葉、見えてしまうジェスチャー、きつい香水の匂い、感じてしまう価値観、優しさ、意地悪さ、執着、エネルギーなどなど、どうしたってそういうものを受けてしまう。もちろん人によるし、日による。同僚のほとんどはまったくそんなことを感じない人らしいが、私は本当に敏感なのだと思う。

それが、自宅待機になった途端にまったく疲れが消えた。「あ、やっぱり人との交流でやられてたんだ」と納得した。セラピストなどの仕事は、クライアント毎に塩で手を洗ったり、気でエネルギーシールドを張ったりすると良いという。私も「これはやばい」というお客さんや同僚との接触中と後には出来るだけ塩で浄化するようにしていたのだが、それでもどうにも疲れていた。なのでこの社会的に与えられた「人と会わなくてすむ期間」が私には本当に恵みの癒し時間になった。

 

当初は「日本で何が起こってるのか?」を知りたくて本格的にやり始めたツィッターも、とことん真実を追求したくてやっているうちに、はじめは気持ちが落ちてたが今はもう「落ち込む」という段階は抜けた。日本の政治だけを見つめると嫌気しか起きないが、世界で起こっている大きなことを探し始めると希望も見えてくる。世界は全てつながっているようだから、いろんな場所やジャンルからそれぞれの情報を集めて、今自分が持っている情報と方向性の確認などをしている。上手にシンクロニシティによって導かれることが多々ある。例えば、まったくジャンル違いの人のことがフッと頭をよぎる。まったく関係ないようなことの名前がフッとよぎる。それを別々に辿っていくと、行き着くところはその数日間に私が辿り着いた言葉や情報たちの追随になってたりして、結果、手元に届いた情報や感覚の確認になる。何が正しいかはまだ誰にもわからないが、自分の見つめる情報の整理はこうしてシンクロニシティや直感などを頼りに精査している。

結局のところ、今自分がやるべき最も大事なことは、自分自身の心や魂を穏やかにして、自分と自分の周りのエネルギーを清めたり上げたりすることなんだと思う。

一人が瞑想するとその人の周りの200メートルが癒されると聞いたことがある。

去年の秋にオーストラリアの火事の鎮火と自然の再生を祈るというようなことに参加した。タッピング(The Tapping Solution)を通してだったが、イメージとして世界中から愛の光が注がれその光が雨となってオーストラリアの火を鎮めるというのが見えた。そしてその数日後、本当にオーストラリアに雨が降った。(洪水になってしまったが、、、)イメージが見えたことにも驚いたが、以前から聞いていた「祈りで雨を降らすことができる」というのを実感して言葉が出なかった。

そういったこともあるから、なおさら、自分のエネルギーは清(浄)められるだけ清(浄)めるように努めようと思った。大きなことをする自分は想像つかなくても、瞑想なら確実に出来ると感じた。自分の望む未来をイメージするというのが今自分に出来る前進への道かと思う。

 

 以下は紹介です。

以前も何度か紹介しましたが、もう一度載せておきます。タッピングという療法で、顔などにある鍼灸のツボを順番に軽く叩きながら、自分の中にある感情を解放していくセラピーで、トラウマ解放に効果的です。日常の痛みや不安などの解放にもとても効果的です。(パニックアタックのある方には、イメージが強すぎて向かないとのことです。)

短いもので5分くらいです。誘導は英語ですが、痛みや不安の解放バージョンは比較的にシンプルな言葉で誘導されており、英語がちょっと苦手な人でもやりやすいのではと思います。

www.thetappingsolution.com

私はどちらかというと勘が働き、スピリチュアルなことに興味があります。ですがスピリチュアルといってもふわふわキラキラという感じのことではなく、シンクロニシティが多い、電話をとる前にかけてきた相手がわかる、人が表向きにだしている「形」ではなく本当の「意」がわかる、などの「見えないけれどそこにあるもの」といった世界もしくは世界感のことです。(伝わるかな?)

悟りとか、気(エネルギー)の流れや滞りとか、レイキも含め波動やクリスタル、数秘学、タロットのようなカード、などいろいろなことを含む感じのことが非常に呼ばれるというか気になることなのです。その一つに「自分の数字を知る」というのがあって、天使と繋がるということで有名?なKyle Grayという英国の方のサイトを紹介します。ローマ字で名前を書き込み、メールアドレスを入力して送信すると結果がメールにも送信されてくるというもので、無料で自分の数字を調べられます。(メールアドレスは入力しないと診断出来ませんが、後から送られてくるメール内から配信解除が出来ます)私は自分と旦那の数字を調べたのですが、これまで調べたいろんな数秘学の中でも最も結果が愛情深く描かれていると感じるサイトなので一応リンクを貼っておきます。結果も英語ですが、非常にシンプルだと思いますので意味が伝わりやすいかと思います。

https://destiny.kylegray.co.uk/

 

興味のある方は試されると面白いと思います。

ちなみに私の数字は「7」であり、「真実を追うもの」でした。

その説明がまさに私の全てを見抜いている・知っているという感じでした。泣けた。

 

必要な人に、届きますように。

お読みいただきありがとうございました。

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これがオリンピックだったのか

コロナが発生し各国に広がりだしてから、個人的にずっと思ってたことがある。

これがオリンピックだろ。世界の政府選手権大会。国ごとに競っちゃダメなやつで、協力したら出来が良くなるやつ。

あれ、どちらかというと、じゃぁ万博の方が近いのかなと今気づいた。

 

ということで、 カナダの首相のスピーチを貼ります。

www.youtube.com

毎回見るようにしている、首相のコロナ関連のスピーチ。今までこんなにトルドー氏の顔をマジマジと見続けたことって、ないなぁ。2日目あたりから、この人はジャニーズの人なんじゃないかって気になってくる。(ちなみにカナダ国民への救済の具体的な数字を話した時には、キリスト氏に見えた)

日本にいた時も、こちらに来てからも、こんなに真剣に「国・政府から発信されるもの」を観たことがない。42年間の人生で、ただの一度もだ。お恥ずかしい。

まったく理解が出来なかったことと、する気もなかったことが理由だけども、こんなに危機感をもって注意を払う必要もなかったというか、少なくともその必要は一度も感じられなかった。今は亡き祖父がしょっちゅうテレビで国会答弁を観ては、ブツブツと今思えばまっとうな批評をしていたけれど、それは祖父が戦争を経験したからだと思っており、祖父と政府は関係性が近いなぁと感じていた。

こういう国政や社会の仕組みに無知な私だから、自身がそれまで就いていた介護職で腰を傷め2年間は働けず、その後も痛くて1日3時間以上の勤務が出来なかった時に、当時実家に身を寄せ療養させてもらっていた26歳の私は「親が死んだら自分に未来はない」と絶望し毎晩不安で泣いていた。

調べていれば何か補助制度的なものがあったのかも知れないが、私の知る限りは何もなかった。当時ほぼ働けない時でさえ年金の支払い用紙が届き、「なぜほぼほぼ無収入なのに国は徴収するのか?」と悲しくなっていた。答えは「親がとりあえず収入があるから」で、親の収入も生活で全部消え貯金も一切ないし出来ないというのに、なぜいい歳したほぼ無職の娘の「年金」まで払えると思ってるんだ政府は?とどこにもぶつけられない怒りと悲しみをもっていた。だから、このまま日本に居たら、私は死ぬしかないと確信していた。

普通に働け普通に結婚し、まして普通に妊娠して母になった知り合いは誰もわかってくれなかったけれど。それどころか「マジ、親に感謝したほうがいいよ。ワタシも親になってマジ有り難みがわかったから」というふざけた助言を昔の知人に言われたこともあった。親の助けがなくては私の命がないと、お前よりよっぽど日々感じながら申し訳なくて泣いて生きてるわ、と思ってまた泣いた。

 

話しは戻して、コロナオリンピックについて。

カナダは3月の頭ぐらいからじわじわっと増えはじめた気がする。日本のトイレットペーパーの件を「やらせか?」と思ったらやっぱりそうだった、なんて考えてたら、こちらでもアメリカ系の2大スーパーからトイレッットペーパーが消えたというのがニュースになった。このニュース自体が要らぬ恐怖をカナダにも広め、ちょっと人々が迷走した数日間があったけども、私の職場のザ・カナディアンズな同僚は「冗談だろ。尻はシャワーで洗えるだろが」とまったく受け止めていなかった。職場を閉めると決まったのが16日の月曜で、私は当日勤務していた。その頃になると別の同僚達が「他の同業者はもう閉まっているのに、なぜうちだけまだ開けているのか?こんなの間違ってる!」とピリピリした雰囲気になっており、また別の同僚は彼氏が免疫系疾患をもっているのでとても心配し「この騒動が完全に収まるまで私はずっと家に居たい。早く帰りたい」と悲痛な表情だった。その時はまだ若い人は大丈夫という情報があったので、私も周囲も「自分の身を守るために閉めるのかな」くらいに思っていたと思う。

そして勤務後2時間ほどしたら「明日から閉める」という通達がまわってきて、一気に流れが変わった。私はそのだいぶ前から「いずれ私も2週間もしくはそれ以上の自宅待機になる」と確信しており、生活費のことや自宅待機中にすることなどを前もって考えていたので、本当に閉めるという異常事態に衝撃はあったものの、すぐに受け入れることが出来た。旦那氏は驚いていたけど。

この間、各国や自分の所属するカナダはもちろん日本の政府の対応など見聞きして、今ならあの時の私の抱えていた悲しみを感じている人がいるのかも知れないとふと思った。日本人は素晴らしい人達が多いから、政府に頼らずに自分たちで動き出す人がたくさん出てくると思うし、これを機に国民のための政治に移り変わることを心から願うが、それでもどうしてもこの国はおかしいのじゃないかと思う人がいたら、騒動が終わったら国を出れる準備をしておくのも手なんじゃないかと思う。前回の台風じゃないけど、今回の被害と政府のコロナへの対応など含めて、どこが危険度が高いかとかどこの土地が危ないかとか世界中でそういうのが表に出てきたと思う。私の今住んでいる地域はやや田舎で、だからこその「無知による差別」はあるが、街を歩いて殴られることはないようだった。移民系でなく生粋の白人のカナダ人は正義心が強い面があり、そういう不平等や理不尽な対応を嫌うという特徴もある。もちろん例外はいる。他の国でのアジア人攻撃はその国ごとの経済や貧困などの背景があるようだったけども。

余談だが、2月か3月の初めだったかに義父母とラインのビデオ通話で話した時、義母が「身体、大丈夫?あなたは強いから何を言われても大丈夫だもんね」と画面の向こうで泣きじゃくっていた。この設定の全てが理解に苦しむが、きっと私がカナダ人にいじめられたり攻撃をされたりしたというのを前提に泣いたのだろうと推測する。義父母が言うには、日本での報道では日本人が菌を撒き散らかしていると世界から思われているというもので、こちらのニュースではそんなこと一言も言われてなかったと思うけどなと思ったものだった。日本の政府とメディアがやろうとしている意図さえもわからないと感じた。アジア人暴行の件でいうと、アジア以外の国などでは「マスクの装着は重症な感染症の証」らしく、「昔の日本で治療法のない時代に結核の人がウロウロして目の前で咳をしたり吐血する恐怖」を与えるような感じなのだと思う。(コロナほど感染力が強くなくても、当時なら十分な恐怖だと理解していただきたいだけの例えです)先日街でマスクをしている中国人の若い子達をみて、「マジか、今か、まぁ今か。でもマジか」と衝撃を受けた。もしかしたらもう間もなくもしないうちにマスク着用が世界中で当たり前になる事態がくるかも知れないけれども、マスクが当たり前ではない国でマスクを着けるということが与える自分と他人への影響はまったく眼中にないのかと思ってしまった。もうここまでコロナが広がった今、外国でのアジア人のマスク着用がどのくらい周囲の敵意を買うのかはわからないけれど、あの子達はアジア人が暴行を受けている報道が流れていた時にどういう感覚で見てたのだろうかと思う。何も思ってないのかも知れないけれど。

違う違う、マスクのことが言いたかったわけではなく。

この後のことはよくわからないけれど、カナダの人口の少なさはアジアやアメリカと比べて半端なく少ない。でも国土はものすごく広い。寒すぎる未開の土地も半分くらいあるけれど、それでもこの国が完全に移民受け入れをやめることなどあるのだろうかと思う。国民が少なすぎたら国が成り立たないではないか。そして土地は本当にあまっている。(ように見える)

何が言いたかったかというと、この時を生き抜いて、その後で、これまで少しでも「本当は海外で暮らしたい」と思ったことがある人は、真剣に挑戦してみたらどうでしょうかということでした。安全で、いい政府のある国で、移民ができるところ。もしかしたらもう、安全な居場所はどこにもないかも知れない。でも自分がどこで生き、どう生きて、どう死んでいくのかを考える日々を私たちは生きていると思う。

あなたや私の居る場所が、あなたと私が幸せになれる場所であることを祈っています。

 

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電話しました、泣いたってよ

そのまま何もしないなんて出来るわけもなく。

前回の記事を出した数時間後には、覚悟を決めて電話しましたよね。

あの記事を書き始めたのは母から実家の電話がつながると聞いたすぐ後だったので、本当にものすごく動揺していて。

 

丸々2日間、考えましたけども。

1日目は、ずっといろんな感情や不安がぐるぐるして、寝て、起きてまた1日考えて、夕方になる頃にはこりゃもう電話するな、と。

これはもう、何か大きなものに与えられた恵まれた機会だな、と。

 

父だけじゃなく、私だって、誰だって、いつ何で死ぬかわからない。

今は、コロナで多くの人が死を近くに感じている。元気で過ごしている時にはない何かが、「今ならかけて良いよ」とはっきりと言っているみたいだった。

生きている間に与えられたから、この機会をいただこう。

 

気が急きながら、長いこと使っていなかったスカイプを再設定して、再課金して、今から夕ご飯を食べようとしている旦那氏に、「私、今から電話します」と伝え驚かれ、意を決してかけましたよ、実家へ。

 

何回か呼び出してから電話口に出た父は、前より張りのない声で。電話のはじめの聞き取りがあまり良くない父が「もしもし。もしもし?」と二回言うのを確認してから、「もしもし、、、あー、私だよ、、」

数秒の間の後、私を認識した父は「、、、あぁ」と言い、私がこの先をどうしようかと考えていると、父から咄嗟に「カナダは大丈夫か?どうなんだ?大丈夫?」と言われ。

 

もうこの一言で、父の気持ちが、心に沁みて理解できました。

出し方がわからないだけで、今までほとんど間違っていただけで、やっぱり愛情深い人なんだよな。

開口一番で怒鳴られるかなとどこかで覚悟もしていたけれど、出てきたのは心からの心配と、「大丈夫だよ、こっちは、大丈夫」という私の答えに息を漏らして「あぁ、、良かった、、」と心底安堵したのが伝わる声だった。何を想っていたのか、どう過ごしていたのかが十分に伝わってきて、泣きそうになった。

 

聞きたいことは山ほどある。でも、せっかく得た「会話をする」機会だから、言葉は慎重に選びたい。

何から聞こうかと悩みながら話をしようとする私に、父の方から「ちゃんと食べてるよ。簡単な料理もしてるんだよ」とか「いい生活はしてないけど、ちゃんとやってるから」とかと言ってくる。私に心配かけないようにとしている姿勢に、グッときた。

父をおいて突然家を出た母と姉のことをどう思っているかと思いながら、私からは絶対に名前を出さないでおこうと決めていたが、これも父の方から「お母さんにお米の炊き方を教えたのはお父さんなんだよ」などと言ってくる。気にしているのだな、どう伝えようかなとタイミングを待っていると、父の方から聞いてきた。

「お母さんとお姉ちゃんは、ちゃんと生活できてるんか?、、大丈夫なんか?」

私は「大丈夫だよ。二人とも大丈夫だよ」と答えた。父は弱々しく「ありがとうございます」と言った。私は心から、「父の魂は修行を終えたんだな、、」と感じて、心の中で手を合わせた。なんていうか、本当に。

父がもう一つ、とても気になっていたのはやはり孫のことで、特に今年が高校受験だった子のことだった。静かに「孫には近づくなって言われたから、、、」と言うので、「⚪️⚪️のこと、聞きたい?なんと、高校に無事に受かったよ」と言うと「どこどこどこどこ?」と聞いてきた。「⚪️⚪️高校だよ。卒業するまで勉強頑張らないとねって言っといたよ」と言うと、しんみりと噛みしめながら「そうかぁ、、ずっと気になってたんだよ、、」と言う。

 

他にも少し話しをして、またかけることを伝えて電話を終えた。以前出した手紙でラインのことを勧めたけど、「無料で使える」というのが理解できないらしいのと、スマホ自体が扱いきれてないというので、それはまたこの先命が続けば、使い方を教えてあげられたりその他いろんなことが一緒に出来たりするといいなと心から思った。

先のことは本当にわからないけど、今ここで生きている間に電話で話せたこと、しかも恐れていた怒鳴る方の父ではなく、愛情ある悲しき父の方とまともな頭と意識で会話が出来たこと、父を守ってくれているご先祖様や今回電話をつなげてくれたいろんなもの様にとても感謝している。

今回、本当に、父はご先祖様に守られているなぁと心底感じた。

離れている間に、私は何度も父のために祈っていた。「どうか学ぶ機会を与えてあげてください」と。20歳になる年に結婚し、若くして父になり、その辺りから怒鳴ったり物を投げたりテーブルの上の食事を全部床に払い落としたりとしてきた暴れん坊の父だったけど、今回の一家離散で初めて一人でじっくり考える時間を与えられ、人生と向き合ったのだろうとその期間を思い泣けた。今、時期も時期でコロナの脅威がありことさらに一人で心細いだろうと思い、でも私にはどうすることも出来ないけれど、心配していた元家族の今現在の安全を確認できただけでも少しの癒しになればと願う。

こんな奇跡が起こるとは思わなかった。

電話を切った後、父の魂の成長に涙が止まらなかったけれど、そして近くに居られないことや生活を共にしてあげられないことにまた泣けたけれど、願わくばどうかもう少しでも長く生きてもらい、次の帰国の時はご飯が一緒に食べられたらと次の奇跡を祈るのでした。とにもかくにも、声が聞けて、会話が出来て良かった、本当に。

 

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電話、つながるってよ

一昨日、母とラインで話していたら、過去数カ月の中でもっとも驚くニュースを耳にした。

 

不通だった実家の、イエデンワがつながるって、、、

 

驚愕だった。今も動揺している。どうしよう、実家の電話が通じてしまう。

以前、家の電話が通じなかったのは未払いか故障か。母も姉も未払いだろうと言っていた。どちらにしてもなおさない、またはなおせないと思っていたからこれには心底驚いた。開かずの間が、開いた。母の友人が間違って2度かけたため、イエデンワ再開が判明した。

何度でも言わせて。驚愕だった。コロナや、今現在満喫している数週間の自宅待機や、カナダ政府の失業保険のサイトがパンクしてて微妙に申請が完了出来ないことなんて比じゃない。

つまり、母が実家を脱出してから何を話すのかまったくわからないながらも勇気を振り絞って2回通話を試み、発信ボタンを押すたびに心臓が止まりかけたあの、あの実家のイエデンワが、今なら通じるなんて、、、。

ガッデム。

 

なんでかなー。なんでこのタイミングかなー。

神様は私に何をしろと言っているのでしょうか、ジュテーム。

よりによって、幼少期の思い出の大魔神、志村ケン氏が亡くなったという報道の直前の母とのやりとりで。

もう、あれだ。志村氏が父にしか見えないよね。

だって、あれだ。歳も近いし、髪も薄いし、お酒も浴びてるし、さらに胃潰瘍も持ってるし、ヘビースモーカーだし、あれだ。なぜここへきて、電話がつながるの。

手紙を書こうにも、日本とカナダの間のいろんなものが閉じてるから、いつ届くかもわからないし、何より手紙が届いても相手が返信しないし。

そう思って、何度も「これで死別でも、いた仕方なし」と覚悟を決めていたのだけど。

そもそも一家離散したその時から、それは覚悟の上なのだけども。

つながるって聞いたら、感じ悪いやないかい。

今生きててつながるのに、かけないで死なれたら気ぃ悪いやないかい。

 

よくドラマで見かける、「死ぬ前に、一言だけでも」って、あれは、本当は好きで好きでどうしようもない人が、相手が死んでしまう前に、どうか一言つながりたいという時の話しで。しかも相手が変わってる、もしくは変わる準備が出来てるケースで。

 

父と何を話せば良いのかわからないから、相手が何をぶつけてくるかもわからないから、なんだかかけられないんだなぁ。

 

 心の中でさんざん謝ったから。

遠くても思ってるから。

いつも感謝してるから。

 

二度とわかり合えなくても、父が私達を許さなくても、父がしてくれたことへの恩は忘れないから。

合掌。ありがとう。

 

 

でも明日あたりかけてしまうかも。アーメン。

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我が家のピーターさんのその後と結婚記念日

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もう2月ですね。

今年のカナダはありがたいことに今のところは暖冬で、我が家の近所のメイン観光地である滝も今年はまったく凍っていません。

このまま雪かきせずにいけるかな。

 

さて、2月14日は我が家にとっては14年目の結婚記念日です。

14年目にして初めて、旦那のピーター氏はそそくさとお花を買ってきてくれました。出会ってから毎年、誕生日と結婚記念日には手紙を書いてくれていたピーター氏ですが、ついに忙しすぎてそちらは断念した様子。でも良いのです。

毎日毎日、優しい言葉をかけてくれるのです。

 

rainbowworld.hatenablog.com

さて、前々回の記事の後、ピーター氏は大きな決断をし、出世をする道を選びました。

書き物をやめたわけではありませんが、とりあえずまずは現世での社会的な仕事で、カタチにすることを選びました。これまでも悶々としながらもずっと全力で働いてきた職場ではありましたが、本人がアンハッピーな状況が続いていたため、どうにもその状況を打破したかったのですね。それまで頑なに否定していた「出世する」という道を、その後のステップアップを最終的な視野に入れて、とることに決めました。以前の記事でサラッと触れましたが、ピーター氏の上司はちょっとサイコ気味というかまぁそういう人でしたので、その上司に恨まれずに職場を離れるというのを最低目標にし、動き出すことにしたのですね。

すると。奇跡が起こりました。

いや、それが必然なのですが、あまりにもの展開だったので「出たよ、奇跡」という驚きと笑いとで新たな道の展開にあらためて「正しい場所にいる」ということを実感するのでした。

何が起こったかと言うと。

まず職場の直属の最高責任者であり最大の難関であったサイコの上司に「昇進したい」と伝えると、一度は阻んだものの何かを企んでいた彼女が数日後にオーケーを出しました。最大難関突破。これは後に周囲の関係者にも激しく同意される最初の奇跡でした。

次に、その2週間後に突然その上司が退職することになります。誰も想像が出来なかったタイミングでの、きっと上司自身も想像もしえなかった離職でした。(突然の不幸とかではありません。念のため)

そして、そこに昇進して1ヶ月も経たないピーター氏が、彼女のポジションをやってくれないかと会社からオファーされました。

話がうますぎる。

その元上司のポジションは、ピーター氏が出世街道を進む中で最終的にいつか辿り着きたいと目標にしていた役職でしたので、これはもう二人で「驚き笑い」っていうのでしょうか、顔は笑ってるけどめっちゃ驚いていました。

でも、カナダに来てからこういうことはよくあるのです。道が合っていると、最大に後押しをしてくれる。人や状況や、もっと大きなものが。ありがたや。

そしてめでたく、お試し期間の3ヶ月を終え、会社側もその間のピーター氏の功績を評価してくれて、昨日無事に本契約の書類をまとめて受理されてきました。

これもまた奇跡の中の一環で、この会社は通常は6ヶ月間の勤務継続を条件として次のポジションに昇格させるのが規定ですが、今回は会社側のオファーだったので最短期間の3ヶ月で本契約に至り。嫁としては本契約になることでの収入アップが何よりも気になるところだったので、ようやくこれで家計の計算が出来るというところ。何しろこの間のお給料の変動は、赤字か?生活出来るのか?というギリギリもしくは厳しくアウトというところだったので、1日も早く確約して欲しかったわけです。

というのも、これまで旦那はお給料プラスαをもらう職種だったのが、昇格することによりそのプラスα分を失うことを決めたわけです。軽く1人分の収入を失ったことになり、これは家計に大きく響くわけで。当初私が覚悟していた「6ヶ月はなんとかやりくりして生き延びねば」と心配していた事態も3ヶ月で幕を閉じ、ホッとしております。嫁的にはそれが本当に大きいわけで。

ピーター氏は、新しい役職になった時から忙しいながらもとてもやりがいを感じ、自分に合っているのがすぐにわかったため、「どうしてもっと早くやらなかったんだろう」と言うほどでした。本人がハッピーなのが一番。よかったね、ピーター君。

 

14年目の結婚記念日には、新しい契約書と年俸をいただきました。神様ありがとう。

 

ちなみに去年の結婚記念日には、生命保険と疾病保険の加入というギフトを神様からいただきました。というのも、私は日本にいる時から大の保険好きで、カナダに来た時からずっと「入れるうちに保険に入らなければ」という強迫観念があり、何しろ親戚も子供もいないので、何かあった時の保障というのがとても気になっていたのです。移住して13年目にしてようやく、経済的にも精神的にも落ち着いたということで、去年からこちらの保険に加入し始めたのですが、その契約の最終書類にサインしたのが去年の今日でした。

そして今年は、1年間の安定した収入である証の「年俸契約書」のサインと提出。

カナダもこの辺りは短い夏と長い冬しかない場所です。ホスピタリティ業界で一年中安定した収入を得るのはそんなに簡単なことではなく、何よりも、カナダに来た1年目はボランティアでのインターンシップで収入ゼロからスタートしている私達ですので、これはホントに「思えば遠くへ来たもんだ」なのです。鉄矢氏の歌の意向はちょっとよくわかりませんが。

 

 何にせよ、私はピーター氏がイキイキと仕事をしているのが嬉しく、彼のセンスと才能を仕事で関わる人たちが正しく評価してくれていることが嬉しいのです。

本人は次の作品も書く気満々で、あらすじを聞いても面白そうなものばかりです。いつか書き続けているうちに、最善のタイミングで最良の結果になることを祈りながら。

ピーター氏と一緒にいられて、ハッピーだなぁ。神様ありがとうございます。

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写真は1年目の記念日にお祝いで行ったお店。お金はなくても最高のディナーでしたよ。

 

日々 悶々

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どうしてスカッとした気分や何も考えていない状態で1日、1週間などの期間を過ごせないものか。頭の中でずーっと、何か他のことを考えていたり、気になっている問題がゴワンゴワン騒音を立てている気がする。

瞑想も試したんだけども、なかなかどうして効かないなぁ。

 

ところで。去年受けた健康診断で、血液検査の結果を見て医者に勧められたのがビタミンDだった。「ちょっと低いかな」と言われてサプリメントを取り始めただけだが、落ち傾向にあったのがだいぶ改善したように思う。医者に「D不足」と言われた時に「あ。落ち気味って、気分ではなく体内環境が原因だったのかも」と妙に腑に落ちた。

今では鬱の改善にビタミンDの摂取をすすめているみたいだけど、私がそれを知ったのはつい最近だった。カナダでは冬の日照時間が短いということで、みんな積極的に「D摂らなきゃ!」「D!D!」的な発言をしている同僚が多く、なんと私はその発言を密かに鼻で笑っていた。いかにもマッチョの「肉、肉、酒!」みたいな同僚の男性が「Dを飲まなきゃ調子悪くなるぞ」と真剣に教えてくれた時などは、この国の人たちは何かに騙されているのではないかとさえ感じた。けど違った。

まぁとにかく、私自身のゲキ落ちは、ものすごく減った。気のせいかもしれないが、ビタミンDを飲み始めてすぐに効果がわかった。それまで得体の知れない精神的なものだと思っていた時々やってくる重い暗さが、血中成分だったとわかってあっさりほぼ解決した。

それでもまだ、日々悶々とするけれど。

ほぼ解決した「落ち」とは別に、13年間苦しんだ「もう二度と治らないのでは」と本当に絶望的だった皮膚炎が、改善した。この間に日本とカナダを合わせて5人の医者や専門家に会ったが、誰も症状名も言わず、というか言えず?、ただ一人その皮膚炎用にとクリームを処方してくれた医者も「治らないけど、ごまかせる」と言って処方してくれたのがステロイド剤で、それも効かずにただただ痒かった。そして掻くのが我慢できない私は血が出るまで掻き続ける、さらに悪化する、患部が広がるの繰り返しで今に至る。

13年前に始めて症状が出た時はただ一点のピンポイントの痒みだったのだが、ひたすらに掻きまくり、家にあった使用期限切れの痒み止めを塗ったら見事に悪化し、初めて医者に診てもらった時点では指三本分ほどの広さになっていた。そこで一旦軟膏か何かをもらったような気もするが、広がった血まみれの皮膚をちょっと抑えただけだったように記憶している。何しろ当時は群馬の地元のおっさん医者に他の若い先生たちの目の前で「肝臓疾患じゃないの?(ニヤリ)」という意味不明な洗礼を受けたので、頭の中は検査結果の無事をただ祈るばかりで痒いし痛いし意味がわからないしでパニックだった。どうして医者はそういうことを言うのだろう。私が一体アンタに何をした。血まみれでお会いしただけではないか。 ちなみに検査結果はどこにも異常がなく、そのおっさん医者はしどろもどろに「えぇ、、まぁ、、肝臓には異常がないようなので、、」と非常にギクシャクしていた。 おっさんよ、なぜ私の不調を願った?アンタ、医者だろ。

とにかくその後もこの痒みにはずっと苦しんできた。一度は大きな病院で生検までしたのに、傷口が大きすぎたらしく、若いお兄ちゃんドクターは「一応、縫合しときましょうか、、」と縫ってくれたもののその傷口が夜には化膿してしまい、一睡もできずに泣く思いで当時の親友のナースに電話すると「それヤバイ。すぐに医者行け」と言われ、翌日急遽またその病院に行くことになる。翌日は女性のベテランドクターで、傷口を見るなり「ワッ!何で彼は縫ったの!?」と驚き怒っていた。先生、患者はほとんどされるがままです。良い医者は会ってすぐにわかるが、どのくらいヤバイ医者かは失敗されないとわからないものです。トホホ。

抜糸された時にものすごく痛くて、「大変だったわね。もう平気よ」となだめてもらった時には悔しくて惨めで悲しくて診察室で大泣きした。

そんなこんなを経て、もう13年間この痒みと共にいる。あまり痒くないかなと思う日が続いても、狂うくらい痒い日が急にあったりして意味がわからない。

でもひたすらに毎日掻いていた。何かつけたり、何もつけなかったり。

そしてついに先日、もういい加減にしてくれよと心底思い、もう無理だろうと思いながらもネットでちょっと調べてみた。いろんな情報があったが、どれも効くような効かないような。その中で、「あ。私はまったく反対のことしてたかも」と思ったのが、「保湿すること、スィートアーモンドオイルが良いらしいということ、そして掻かない。」めっちゃ掻いてたやん。

掻きすぎて、皮膚が裂けて、血が出てさらに痛くって、殺菌作用が良いかもとか思ってそういう効果のあるエッセンシャルオイルを他のオイルと足してちょっと強めにつけたりして、そのオイルでさらに乾燥して、また痒くなって、掻く。永遠のループ。痒み痛み地獄。

でも掻いて血が出るから、その皮膚を剥がさないとさらにアカギレみたいになって深くなって痛い。服にも擦れてまた痛い。そして永遠に治らないかに見える痒みとアカギレ状態。

そしてある晩、限界を感じたので、泣きながらタッピングを試す。タッピングはこちら。

www.thetappingsolution.comhttps://www.thetappingsolution.com/

タッピングはEFT タッピングというもので、Emotional Freedom Techniques

 という方法。トラウマなどの感情を体にある数カ所のポイントを叩きながら解放するというセラピーで、私は過去の記憶やネガティブな感情を取り除くために時々使っているけれど、皮膚炎に使ったのはこれが初めてのような気がする。前に何かの痛みに対して使ったが、効いたような効かなかったような。でも今回は自分のハッキリとした「もう限界なんだよ。いい加減にしてくれよ」という感情が備わりそこに焦点を合わせやすかったためか、とても効いた。翌朝、痒みがまったくなくなっていた。

一瞬でも痒みがなくなったので、「掻かない」という状態でいられた。

これが功を奏してか、そこから2週間くらいまったく痒くない日が続いた。

13年間、2ヶ国間、5人の医者の後である。私には奇跡でしかなかった。

経過はというと、その後ついつい痒くもないのに掻いちゃったりして、結果的に皮膚に傷をつけてしまってまた血が出て掻いて、自分で「痒い痛い皮膚炎」を単発的に起こしたりしているが(よもや中毒。習慣病)、以前に比べたらはるかにマシになっている。(糖分の摂りすぎ、小麦粉系の食べ物を食べた後には痒くなる。これはまた別の話し)

 

こんなに熱く?皮膚の話をするつもりじゃなかったのだが、ついでなので老化の話し。

最近、顕著に物忘れが激しい。まだ42歳ですけどね。ホルモンの関係では?と思っている。というのも、私はおそらくあと2年のうちには女性特有のサイクルが終わるのではないかという感覚がある。それに伴ってか、よく更年期の女性たちが言うところの一つである「物忘れ」が来てるのじゃないかと思っている。

「思い出せない」という意味ではなく、「意識が続かない」「一つのことへの集中が維持できない」という感じで、何かに手をつけっぱなしで次へ行き、次へ行ったものを完了して、戻ってくるとお菓子食べっぱなしや、お茶だしっぱなし、書類書きっぱなし、作業ひろげっぱなしなど、その前にやっていた作業が見事なまでに途中で放棄されている姿を発見して「ワッ!」となる。

これまでもそそっかしかったり、少しの出し忘れ的なことはあったが、これほどまでに「作業のど真ん中」で放り出して次のことを始めてしまうということはありえなかった。

そして、脳みそ力というか、脳内の霧というか、記憶の池までの景色が非常に霧がかってる感じで。「記憶力」と「判断力」と「タイミング」でここまでどうにかやってきた感が強いので、「あれ、ヤベ。次何だっけ?」的な感覚で常にいることがちょっと怖い。とりわけ記憶力には自信があり非常に頼りにしてきただけに、心もとない。

そんな話しを50代もしくは50代手前の同僚に話したら、「あんた、そりゃ更年期だ。前後合わせて5年はそんな感じだよ。それを過ぎればすっきり晴れるから、気楽にやんな、同士よ。ヒヒヒ」と言ってもらう。持つべきものは老若混合の同僚か。

 

さて。そして父のことである。

実はこれが一番の心のつかえであり、ずっと悶々と私の頭の奥でズシンズシンと唸っている。

なんだかんだいっても父のことは気になる。

ハガキでも書こうかと思うが、いざとなるといろいろ恐ろしくなって、ためらう。

私が想像するに、間違いなく父の欲しい支援物資は「金、酒、たばこ」なのだが、そのどれも送ってやる事が出来ない。酒は出来るが、それで頭がおかしくなっている人に、さらにガソリンをあげるわけにはいかない。なので他のものを送ったりするが、なんだかマヌケかなとも思う。

 先日の台風で群馬の実家のあたりは被害がなかったようだが、それでも古い家なのできっと雨漏りが大変だったのじゃないか?そもそも借金はどうなってるんだろう?食べているのだろうか?電気は通っているのだろうか?(電気代払えてるのか?)等々を考えるときりがない。そして罪悪感のような、不義理な感覚に苛まれる。私には良い父親だったのだ。大声で怒鳴り支配的な価値観のところを除いては。何より、私を大学に行かせると早々に決心し、それを実践させたのは父だった。それだけが、唯一それだけが私が不義理で苦しいところなのだ。実際には生活費のやり繰りで苦労したのは母なのだが、それでもあんな田舎で生きてきたやんちゃな父が「娘を大学に行かせる!」と私の背中を押し、私に違う世界を見せるタチ役者だったことは紛れもない私の人生の中の真実なのだ。でもきっとこれはアレだ。まともな人間の部分の良心と、ダメな女の良心がごちゃまぜになってしまっているんだ。人生42年のどのページを振り返っても落雷のような激しさで大声で唸っている父の姿が占めているというのに「良い父親」と認識してしまっているあたりがよもや記憶障害なのか。南無三。

祈ろう、父への癒しと救済を。

 

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浦島太郎とピーターパン

年をとるって、こんな感じなのかな。

先月、42の誕生日を迎えた私は、年をとったことで、落ちました。

こんな風に感じる誕生日が来るとはちょっと思ってなかったです。

 

ですが良いこと?といえば、年を重ねて、これまでずっと気にしていた他人のことや細かいことなどが以前よりも気にならないようになったように思います。これは加齢や更年期前の微妙な状況により、脳みその一部の動きが鈍くなったという感じもしますが。今まで心をいためてきたようなことが気にならなくなったので、良いことかな。

 

さて。本題に。

私の旦那は、ピーターパンです。

自他共に認める感じの、ピーターさんです。

そんな旦那が、先日40歳になり、浦島太郎になってしまったという話し。

 

というのも、彼は書き物をしており、ここ2年間はそれに本腰を入れたいとのことで「40までに芽が出なかったら諦めるから、それまでは集中してやらせて欲しい」ということだったので、約束通り40までは本人も「イケイケ、ゴーゴー」で頑張ってきました。そして結果としてちょっと芽が出ました。しかしながら、本人が望んでいる「大きなわかりやすいチャンス」がまだ来ていないということで、、、。

遂に先日40才の誕生日を迎えたピーター氏、待てども来ない「大きな結果」と、目の前に立ちはだかる職場の「狂った上司」の間で、とうとう目が覚めてしまったようなのです。

 

「俺モウ40ニナッタ。俺、何ヤッテンノ?」

 

変な薬でも飲まされたのだろうか?彼は変に目が覚めて、とても哀しくなってしまいました。

そんなピーター氏を見ると、私もとても哀しくなるのです。

我が家のハッピーピーターパンが、ある日突然、得意技の夢見るハッピーダンスもせずに、呆然と立ち尽くして言うのです。

「俺、何ヤッテンノ?」

「世間体ガ」「恥ズカシイヨ」

 

我が家のピーターさんは、きっとどこかで悪い毒でも飲まされたに違いない。

そして私は思うのです。

世間体?

「ナニ人」基準の世間体か?

何を基準にして比べれば良いのか、今更「ココ」で?

 

健康的な食生活をして運動をしながら、太らずに良い体型を維持し続けている健全な白人と比べれば良いのか?

それともハッパ吸って気を紛らわして毎日ハッピーそうに生きる白人と比べるのか?

 

 よもや世間体とは何ぞや。

周りが違いすぎていて、比べる対象もわかりません。

 

私の中では。

日本を出てきてココで生きている今、日本の価値観と比べることさえ出来ないのだよワトソン君。そんなことするくらいなら、日本の中で生きるべきだよニャンコ先生。

 ではどうするのか?

 

我が家のピーター氏が「書き物をしたい」と言った時、私はただ「書けば」と言いました。

生活が出来るだけの収入さえ確保してくれれば、何をやっても構わないのです。

しかもそれが、ピーターさんのとても好きなことで、出会った頃から好きだと知ってることであって、本気で書き始めたらとても上手に書けるようになっていて、パソコン1つで出来るから他に何も出費がかからなくて、本人も目を輝かせてイキイキと生きられるなら、何が問題なのか、と。

 

本気で書きたいのなら、死ぬまで書けば良いではないか。

夢を見る能力の乏しい私のような人とは違い、ピーター氏のような人は、ずっと夢見て生きていて欲しいし、そうあるべきなのだ。

空も飛べない現実を見ながら、何が楽しくて生きていけば良いのよ、ピーターさん。

ネバーランドでゴーゴーしてもらって、どんどん老けていく私の横で、つるっつるの肌でニッコニコし続けていてくれなきゃ、困るのよ。

ピーターさんの見る夢で、ワクワク出来る人がここにいるんじゃい。

 

ということで、我が家の浦の島太郎氏は数日間、真剣に考え込んでおりますが。

まぁ、この先の人生の計画と方針を新しく立て直すには、良い時だなと思います。

二人とも40代になり、また新しい人生の節目にきたわけで。

今をどう生き、この先の人生をどのように生きていきたいかを話し合い探し合うには、良い時期です。

 

四十にして惑わず

 

良いじゃないか、太郎さん。大事なものだけ抱えたままで、上手に年を重ねていけるよ。要らないものだけ置いていって、さらに身軽に前進しましょうよ。

本当に捨てるべきものがハッキリ見えてくる良い時ですよ。

 私は思うのです。この時代を生き抜く中で、好きなことがあって、それを形に出来て、しかも発信出来て。ハッピーやぞ、ピーター君。未来は明るいではないか。

 

シケタツラシタジジィミタイニ 

サミシイコト言ウピーターサンハ

玉手ボックス 開イタ太郎カ

シノゴノ言ワズニ 夢ヲ追エ

 

 幸せになるのです。

 

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