書類整理とシュレッダー

いよいよ12月です。

来週には母がやってくるので、ワクワク。

いつも遊べるお友達がいないので、友達のような母がやってくるのはとても楽しみなのです。どこへランチに行こう〜とか、何して遊ぼう〜とか、何買おう〜とか。

現在、カナダポストは部分的にストライキをしているとのことで、先日母に送った封書がなかなか届かずに非常に心配していたのですが、昨日ようやく到着したとのことで、一安心。

というのも、入国審査の際のやりとりは母にとってとてもストレスになるので、その際に審査官に提出する旦那からの英文レターはとても心強いのです。無事に届いて良かった。

 

さて、冬になると私の働く職場は暇になり、休みが増えたりします。私は休みになると何かしら家の中のものを捨てて片付けたいという気持ちになり、部屋ごとや引き出しごとに断捨離を敢行するのですが、先月末から取り組んだのはカナダに住み始めてから保管し続けていた「12年分の重要書類」です。

インターネットや携帯電話などの請求書や各種銀行からの明細なども全てとっておいたのですが、もう数年前に解約している会社のものも全てとってあったりと、まぁどうしても紙類は増えていき、専用のコンテナもいっぱいになってしまいますよね。

カナダは基本確定申告を個人でするようなので、その書類も一体何年とっておかなければならないのか?という感じで、申告時に会計士からもらう最終の書類と、そのために準備して持って行ったその年の我が家の収支の全ての書類とを一緒にまとめて保管していました。

なので、今回はその書類の中から、確定申告のために準備した中のもう捨てても大丈夫な書類と銀行口座等のもう必要ない書類を全てシュレッドすることにしました。

 

その中でも、以前の職場の給与明細が大量に出てきてちょっと面白かったです。今の職場のお給料は自動振り込みで、金額や労働時間等の明細はお給料管理会社のサイトにログインすれば確認出来るようになっていますが、以前は毎回紙で明細をもらっており、最初に働いた職場で「給与明細は確定申告に持っていく方が良い」と言われたので(実際にはT4という書類をもらうので、それを持っていくだけで大丈夫なのですが)それ以来ずっと最近の自動振り込みに変わるまでの分の明細書が手元にあったのですね。

我が家のシュレッダーは小型で一回の使用に4分間くらいしかパワーが持たず、全書類を処分するのに日数が要りましたが、本日ようやく完了しました。書類の置いてあった場所と私の心が、ようやくすっきりしました。

 

書類の中に7・8年前の私と旦那の給与明細を見つけて、あらためて自分たちの軌跡をしみじみと振り返りました。

移民する前後の日本食レストランでのお給料と、移民後にカナダの会社で働いた金額、それからカレッジに行った後で働き始めた今の職場でのお給料の金額の比は1:2:3。

冗談みたいに、ジャパレスは低いのです。

そしてこれは移民者や留学生などが働く「カナダ以外の国籍のレストランとビジネスのお給料&待遇あるある」であるように思います。

 

この時代に、治外法権かよ。

就労中は、「海外だし、自分たちは外国人労働者だし、肩身狭いし、英語わかんないし、カナダ政府が相手にしてくれるわけないし、てか外人怖いし」などと思って当時の清貧生活を送っていましたが、労働者の権利てか人権の重みをあらためて感じたのは、カナダの会社で働き始めてからでした。

カナダ人達の、権利の主張の仕方は本当にスゴイ。

慣れるまでは本当に、本当にカルチャーショックでした。

大きい声では言えない、いや言いたくありませんが、私たち日本人そしてアジア人達は「一生懸命働ク。文句言ワナイ。言ッタラダメヨ。最低賃金?当タリ前ヨ。最低賃金以下?当然ヨ。休憩?何ソレ?仕事アルダケ有難イデショ?チップ?マネジメント二献上デショ。当然デショ。」というのを押し付けられるというか、受け入れるというか。

カナダ以外の国籍というか、主にアジア人が経営する会社はどの国も同じような内容だとみな口を揃えて言います。オイタワシヤ。

田舎だからなのか。結局異国に来ても、田舎と都会の差なのか?

少なくとも私たちが住む街とその近隣では、残念ながらアジア人経営のお店や会社はあまり良い話を聞きません。うーん、、、。

結論:海外在住中の方は、せっかくですから勇気を出してその国の法律に則ったその国の会社に働いて、しっかりと人権と労働者の権利を得ましょう。

 

書類整理から話が逸れてしまいましたが、この移民者あるある、克服したほうが良いように感じます。

日本でスキルアップと転職を繰り返しながら希望の会社やお給料に近づいていくというのと同じことなのかと思うのですが、私も旦那も日本ではそれが出来ませんでした。

出来ないというか、興味がない。それをして、就きたい職種も仕事もない。

ですが、こちらでの生活ではそうも言ってられず。

移民でというか移住で最も驚いたのが、冗談ではなく「居場所がない」という感覚。

ワークビザではその期間が終わったらこの国に居られない(観光ビザへの延長は除く)し、移民しても外国で路頭に迷うわけには絶対にいかない、という感覚。

自分達の居場所を確保するために、居る権利を取得するためにビザが必要であり、今後の衣食住を守って生活を発展していけるだけの経済力がないといけない。

日本に居た頃には想像もしたことがなかった「ビザがないから居られないよ」という危機感。ビザが取れなきゃこの国に居られる資格なし。この恐怖が強すぎて、私の心は鍛え上げられたのです。

 

といっても、移民を言い出したのもカナダが好きだと言い出したのも全て旦那でしたので、当初は「あんた、気張りや」みたいな完全に他人事な姿勢で計画を立ててきたのですが、次第に気づくわけです。「やばい。この人任せだと、やばいで」と。

店員に何かを尋ねるときも、お金のことを聞くときも、お金のやり取りをするときも、銀行でやり取りするときも、「お金に関することと、各種制度は知っておかないと」と。

そして私はカナダに来てからというもの、ある医療検査に引っかかり続けてきましたので、「怖いけど検査に一人で行けるようにならないといけない」や、「医療も各種サービスも、旦那が留守でも自分でやれるようにならなければいけない」と思うようになりました。

イヤイヤですが必要に駆られて、英語に向かっていかなければならなくなりました。

カナダ一年目に滞在したストラットフォードで、何かの技術専門学校を見つけました。当時、旦那と自転車をキコキコしながら食料品の買い出しに行く途中で必ず目に入る学校でした。自分がカナダ社会で働く気などさらさらなく、働いている姿など想像さえ出来ませんでしたが、よく「今度人生やり直すなら、絶対技術職に就くべきだ」と旦那に言っていました。

言語が違う場所に来て初めて、自分の知ってる言語や経験じゃ何の役にも立たないと感じたからでした。いい歳した大人が、英語を話せないというだけで幼稚園児と同じてかそれ以下か、と。

その国の仕組みを何も知らず、医療や福祉や学校や保険など、職業や会社や、銀行で口座が作れるのかどうかさえも知らず。特に私は半年で帰るつもりだったので、まったく予想もしていなかった海外移住の道でした。

仮にあの時英語が話せても、私の日本での学歴や職歴はここではまったく使えず、完全に一からのやり直しをすることになったわけですが。

あの経験は、大事だったなと思います。

居場所のなさの不安と、実際生きていかなければならないこのサバイバルな現実は私をとても強くしてくれました。

今の町に引っ越しジャパレスで働きながらもう少し英語力を付けるためにと語学学校に2・3ヶ月行きました。でも学費が高く、永遠に上達する気がしない(少なくとも短期上達は見込めない)授業進行に、「これにかけるお金はない」と断念。

私はともかく旦那には確実にカナダの学歴をつけてもらわなければという計画から、ジャパレス清貧中に出来るだけのお金を貯め、移民権を取得後にまずは旦那をカレッジに送り込むことに成功します。カナダ人の生徒と海外からの留学生では学費が違うので、我が家は是が非でも移民をしてからの就学にしたかったので、これは大変良かったです。

さらに、カナダは素晴らしい国で移民者に向けた無料のカレッジプログラムがあることを知り、まったく想像もしていなかったですが、私もカレッジで英語と諸々を勉強出来ることになりました。たった一年間だからと、ビビりながらも何とか通いきり、修了。

でもそこで気付きます。自分が内向的である以上、英語力だけで就ける仕事は無理だぞ、と。なのでここであらためて、あの日のストラットフォードで感じたことが自分に返ってくるわけです。

 「技術職だ。英語力の欠如は、何かしらの技術力でまかなうべきだな」と。

無料の一般プログラムの授業の中で、カナダの仕事を調べるというのがあり、私は以前の仕事である介護職について調べたのですが、お金は良いけど仕事がキツイ。そして同じ仕事はしたくない。

ということで、化粧は嫌いだけど一念発起して美容科に行くことに決めました。

私はずっと「セラピスト」になりたかったので、人に触れ癒す手伝いをする今の仕事内容はとても気に入っています。

 でもいかんせん同僚がみな浮世離れした人たちばかりで、正直最近キツイ。

田舎のカナダ人なんてみんな欲の話しかしない。性欲、酒欲、ドラッグ欲、そしてまた性欲。あぁ、うんざりだ。

 

でもお金は最高に良い。今までやった仕事の中では格別に効率良くお金を稼げます。

なので今は模索中。お金を稼げる間に、次の道を探さなくては。

早めの脱サラを目指して、いろいろ試してみようと思います。

好きな数字の勉強もしたいし。

ブログももうちょっと力を入れたい。

そう思うとまだやってみたいことが残っているだけ楽しみで良いな、と。

 

 来年はさらに自分に投資して勉強する一年にしたいと思います。

ということで、溜まっていた書類を片付けたら次の習い事をするやる気が出た、という話でした。

 

 こんなシュレッダーが我が家にもあったら良いな。

 

 

 

満月に2通の手紙

今月の初めに、母と姉が無事に実家を出ました。

母は無事に離婚届けも提出し、旧姓に戻りました。

この「無事に」というのを、私はとても心配していました。

引越し当日は、姉が子供達の住んでいるアパートの引越し作業も同時にしなければならずとてもバタついたようで、引越し完了の連絡が私のところに来なかったため、「あ、これは死んだ。修羅場だ。流血だったんだ。」と得意の完璧な妄想力で私自身の血の気を引かせて気が気ではありませんでしたが、翌日になって二人の無事を確認することが出来、なんだか一気に世界観が変わったかのような気分を味わいました。

その世界観とは、物心ついた時からずっと頭の片隅にあり続け、五感も六感も使っていつもいつも心配し続けてきた「いつか母親が殺されてしまうのではないか」という恐怖から、「もう母親が家の中で殺される心配がない」という安心とはまた違う「恐怖のない世界」という感覚です。

少なくとも家の中で母が父に殺される心配はなくなったというこの新しい状況が、あらためて「私は父が本当に怖かったんだな」ということを気づかせてくれました。

母が無事に離婚届けを提出し終わり、家を出て、離婚届けを出した旨を父に書き置きで伝えた一連の流れが終わり、「これで父と母は他人に戻ったのだ」というえも言われぬ解放感と、「もうこれで、良い歳した大人二人の面倒(心配)は一切要らないんだろう」というお役御免のような解放感で、このまま知らんぷりしても良いんじゃないかと思ったりしながら、ちょうど3週間が経ちました。

 

その間、姉に引越し祝いを贈ったり母の新しい部屋の収納の相談やらに乗ったり口を挟んだりしながら、あちらもようやく新しい生活に馴染んできたところで、もうすぐ母がカナダにやってくることになっています。

 母のカナダ入国にあたり、今回はパスポートを作り直して名前も変わったため新しくeTAの申請をし直したのですが、当人はパスポートの作り直しの申請までで既にキャパ超えだったので、代わりに旦那がこちらで母のeTAを申請してあげることになりました。

新しく作ったエアカナダのポイントカード、eTA承認のEメールのコピー、入国審査官に見せるための旦那からの手紙、この3点を送るため母宛の封書を用意しました。

住所は新居、名前は旧姓。新しい生活を送るこれまでとはまったく別の人のような母への宛先と宛名を書きながら、「これにも慣れていくんだろうな」と思ったり。

 

かたや、どんな風に過ごしているのかまったくわからない父へ、今後のことを相談したいという旨の手紙を書きました。

何度も何度も書き直し、結局、手書きではどうしても伝えるべきことが書けなかったので、最終的にワードで打ったものをプリントすることにしました。

手書きじゃないけど、娘の気持ちが伝わることを祈って。

父の対応次第では、これが最後になるやりとりです。何度もためらいながらも、やはり伝えるべきことは伝えておかなければと誠心誠意、心を込めて書きました。

宛先は私がこれまでずっと使ってきた住所、宛名は私が今まで見てきた「働いていた父」の名前。定年して酒で頭がやられてしまった方ではない、人の名前。私の中では、その名前。

 

郵便局の簡易オフィスが入っている近所のドラッグストアーに、母への手紙と父への手紙を出しに行きました。満月の夜に、2通の手紙。それぞれに違う宛先のついた、両親への手紙。

まさかこんな遠くの地へ来て、こんなに綺麗な満月の日に、ようやく無事に離婚した母親と父親への2通の手紙を送る日が来るとは。

満月はリリース、手放し、解放。

父よ母よ、出来るだけ幸せに生きてください。今までありがとうございました。

43年間の結婚生活、お疲れ様でした。

 

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好き過ぎて憎い

先日のこと。

『マッチョ、時々、乙女』な旦那と夫婦会議をしていたら、旦那が私にこう言った。

「本当に、お前が好きすぎて憎いわ」と。

それを聞いて私は、本当にこの人と結婚して良かったと思った。

結婚というより、一緒に生きられて良かったと思った。

乙女であり小説家でもある旦那の言葉からは、こうして時々虹が出る。

 

実のところ私達が出会ったきっかけは某mixiで。

今思うと、こんなにも人生生きづらい私達でも、何気に時代の流れにのってたなとさえ思う。

遡ること13年前、まだそんなにmixiとか私の周りには全く誰もやってる人がおらず、たまたま知り合った群馬県民の、どこかの大学卒の「パソコンやってるよ」という人からmixiのことを教わった。

「人とつながれるよ。やったら?」と言われて、人を探すためにやってみた。

一方旦那はその頃、当時は某出版社の編集だったお姉さんに「mixiっていうのがあるよ。いろんな人が見てるから、作品載せてみれば?」と言われて始めたところだった。

 

当時の私は労災休養中で、シブシブ群馬の実家に戻り、リハビリを兼ねて自転車で近所の田んぼや畑の周りをキコキコしており、道端の花や空の写真を撮っていた。

写真を記事に載せて投稿し始めてから間もなく、現「乙女な肉旦那」が一枚の写真にコメントをくれた。そこから始まった。

 

コメントのやりとりから、Eメールのやりとりになり、現代版の文通みたいな期間を経て、ついに電話で話すようになり、そしてとうとう旦那が私の実家の最寄駅である某国定駅まで会いに来てくれた。何もない、本当に何もない、てか自転車置き場しかなくて学生が通学用に使うためだけにあるかのような田舎の駅に、神奈川産のシティーボーイが降り立った。

 

コメントやEメールのやりとりで、私は旦那の人柄がもの凄く伝わってきて、「気持ちの良い人だなぁ」と思っていた。

初めて電話で話した時は、彼のあまりにも聡明な声とテンポよく会話を回せる頭の回転の速さに、俄然好感を抱いた。頭の回転の速い人は大好きだ。

2つ年下の旦那は、まだ当時ちゃめっ気たっぷりのわんぱく小僧で、若さと楽しさに勢いがあった。そしてその勢いで某国定駅に来ることになったのだ。

 

mixiを始めたものの、心の底からアナログ一直線だった当時の旦那は、今でもそうだがとても疑い深い人で、私が商売女だと思っていたらしい。旦那の親友の一人も「危険だ。会いに行ってはダメだ!」と言っていたらしい。

一方私は、旦那の声とキャラクターに俄然楽しい印象を持ち、どれほどサラッサラなストレートヘアーの小柄な好青年が来るのだろうかとウキウキして駅まで迎えに行った。当時の愛車、真っ赤なフェアレディZで。

文字にするとなんだか見事にメチャクチャな設定である。

でも本当の話し。事実は小説よりも奇なり。恐るべし。

 

そして駅に着き、電車が到着し、私はルンルンで小柄で華奢なサラサラストレートヘアの青年を探した。学生服のみなさんを見送り、駅にはほぼ誰もいなくなった。

すると、階段の上に、中肉中背のややボテっとしたタンクトップ姿の青年が一人、携帯を触りながら立っている。

「違う。絵的に絶対に違う。でもあれだべ。(群馬弁)」

私は自分のイメージと実在の青年のあまりにも違いすぎる姿に半ば呆然としながらも、mixiのハンドルネームで声をかける。やっぱり彼だった。

 

ちょっと曇った目に、小柄でも華奢でもないその腕の筋肉。本人が「これは筋肉だよ!」と言って力こぶを作って見せるまでまったく筋肉だと気づかなかった私の、この想像力の乏しさに驚く。いや、むしろ逆か。想像力が豊かすぎたのか。

挨拶後の私の一言はまさに、「めっちゃ詐欺やん」でした。すみません。

 

そんなこんなでランチをし、あっという間に旦那は折り返し神奈川に帰る時間になってしまった。なんせ群馬と神奈川は非常に交通のべんが悪く、まともな時間に帰ろうとすると6時半とか7時とかには最寄の田舎駅を出発しないといけなかった。うちの実家は当時私にとても寛大で理解があったので、「無理してこの電車に乗らなくても、泊まってけば良いじゃないか。」と初めて会った好青年に私は言った。

旦那はバカがつくほど常識的な人で、「それはいけない、初めて会った女の人の家に泊まるなんて、そんなことをしてはいけない」と別れを惜しみながらも常識と葛藤していたその時だった。

Zのラジオから旦那の人生のテーマソングであるベン・E・キングのスタンドバイミーが流れた。

完全なるシンクロニシティだった。

これが旦那の心を決めた。

そして私たちは実家に引き返し、旦那は初対面の私の父にご挨拶。まずはお友達として。

 

そこから私達の現実での交流はスタートし、いろんな山を越え谷を越え、3ヶ月後には結婚することを決意し、6ヶ月後には入籍するという流れになって今に至る。

どこかの誰かの言葉で、結婚は3つのINGで決まると聞いたことがあり、フィーリング、タイミング、ハプニングだったような気がする。

まぁホントその通りだなと思う。

好きなだけでも、優しいだけでも、愛されてるだけでも、気が狂いそうなほど愛しているというだけでも、結婚には至らないのだな。

 

私は家族愛の深い蟹座の女で、星的には結婚が向いているらしいが、これまで経験してきた「先の見える一見退屈そうにも見える安定した交際」はどうしても耐えられなかった。とても優しい、死ぬほど優しい人達だったのに、彼らとはどうしても結婚には辿り着けなかった。周囲も家族も、そして本人達もいつかそうなるのだろうと思っていたけれど、どうしても結婚には辿り着けなかった。

でも結婚って、そういうものだと思う。

旦那と出会った頃は、私はある失礼なヤブ医者から「子供はまぁ無理でしょうね」と言われており、家族みんなが結婚を諦めていた。それどころか私自身は酷い痛みに苦しんでいて、結婚どころか再就職さえ絶望的だった。

旦那といえば夢を追いかけ、現実の競争社会から完全に離れており、どうやって夢を追いかければ良いのかわからなくて悶々としている時だった。

どこから見ても、結婚なんてありえないような状況だったが、そこはそれなりのハプニングと運命的な波長でもって、「じゃ、結婚しとこっか。」ということに至る。

私の中では至って自然で当然な成り行きだった。

「この人との先が、まったく予想がつかない」というのが、私の旦那に対する感想であったにもかかわらず、だからこそ堂々と自信をもって結婚に踏み切れたのだ。

当初、旦那はカナダに来ることが決まっており、私は日本で待つ予定だった。

私の就職時代の素行を知るとても尊敬する元上司には「何も結婚しなくたって。その人じゃないとわかったらどうするの?」と心配されたが、私は自信満々に「それこそ結婚してみなければわからないじゃないか!ダメだと思ったら別れれば良いんだよ!」と言っていた。

 

旦那の声のファンにはもう一人居て、それは亡くなった彼のお母さんだった。

まだお母さんが生きていた頃、時々カナダに電話をかけてくれたことがある。

当時も今も家に電話はなく、旦那の携帯にいつも電話をもらっていた。

なのでお母さんと話すのはいつも旦那が先だった。娘同様に私を大事にしてくれたお母さんは、私がカナダに来ると伝えた時にはひどく泣いた。「また帰ってきますよ。たった一年ですよ。」と伝えても、まるで今生の別れのように泣いていた。そしてお母さんは正しかった。きっと、本当にどこかで感じ取っていたのではないかと思う。

カナダに電話をもらう度に旦那と話すお母さんは、旦那の人柄がわかり、とても好印象をもってくれた。息子を亡くし、その息子の生き証人だった私の存在を無くすことがどれほど辛いことだったかを私は知っている。ましてその相手である旦那と現実で接することへの抵抗があったことも、よくわかる。でも旦那の声から出るその人柄は、お母さんの心も溶かした。

生前に大変旦那のことを褒めてくれたお母さんだったが、以前お墓参りに伺った時に初めて旦那と対面したお父さんからも「この人が旦那さんですか。なるほど偉い大絶賛なのもうなずけますな。」と言われた。旦那の心根の良さが伝わって本当に良かったと心から思ったのだった。

 

とにかく、そうして私の人生に現れた青年はなぜか私の想像したサラサラストレートヘアの華奢な青年ではなかったが、出会って13年たった今も「この先はどこへ行くんだろうね?どこへ向かってどんなところへ行くんだろうね??」とちょっとワクワクしながらもまったく想像がつかないという絶えず進み続ける人生を展開してくれている。

好きすぎて憎い、とか言いながら。

人生で一番のプレゼントだな。ホント。ありがとうございます。

 

夢を見るのは苦手だけど、目標があればそれを達成するために走れる私と、とにもかくにも夢を見る天才の乙女な旦那とで、これからも日々精進していきたいと思う次第で。

二人とも生きづらいけど、二人で生きればなんとかなるさ。

 

そして。私が結婚を決意した旦那からのメールからは、3Dで虹が出てました。

以前、あの彼が亡くなった時に悲し過ぎて世界が三重に見えた感覚と、旦那のメールを開いて心が震えた3Dの虹の感覚は、どこかでしっかりとつながる同じ愛情のしるしでした。

「この先もしも『運命の人』という存在に出会う時は、必ず全感覚でわかるはずだ」と泣きながらでも確信していたあの当時の自分に、「それは本当だよ」と背中を撫でてあげたいです。

 

というある夫婦の話しでした。読んでくださりありがとうございます。

 

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 こちらは21日なのですが、今更新したら22日付でアップされるのですね。そんなつもりで書いたわけではないのですが。

英語ですが興味のある方へ Healing Cancer World Summit

www.healingcancersummit.com

もう始まっていますが、アメリカ時間の(?)17日から23日まで、興味のある人は名前(ファーストネームのみ)とメールアドレスの登録だけで無料で聴ける、ガン治療のエキスパート達におけるHealing Cancer World Summit  に参加できます。

日ごとに公開されるエキスパートが変わり、全てもしくは気になったものを聴くことができます。

私がこのサミットを知ったのは、主催者のKris Carrが先日私がやったベーガンダイエットの主催者でもあり、このサミット開催のお知らせを事前にメルマガで受けたからです。

rainbowworld.hatenablog.com

私は基本的に、Hay Houseとそこから知った専門家たちの有料・無料セミナーのお知らせは受信するようにしており、ピンとくるものは受講するようにしています。

 

今回のサミットも他のサミット同様、全員の話に興味があるわけではありませんが、初日のKelly Turner Ph.Dと2日目のKen Cookという人の話が非常に面白いと感じました。(まだこちらでは開催から2日目です)

Kelly Turner Ph.Dの話の中で、「末期ガンから回復した人の9つの共通点」というのがあり、それらは順不同に

①食生活を劇的に変えた

食事の50%以上を野菜、人によっては肉を断ち菜食のみにした。

②Anger Work, Grief Workに取り組んだ

Griefは死別、絶望、悲しみなど。自分の中にずっと溜めていた人生の怒りや絶望などの気持ちに向き合い、解放するワークをする。

③瞑想・リラクゼーション

瞑想はあらゆることに効く。もちろん闘病にも。毎日10分からでもとにかく始めてみる。やり方は様々。自分のやりやすいもので良い。頭や心から雑念を取り除くのにもとても役立つ。

頭・心・体はリラックスしている時に治癒力が高まるので、自分に備わっている治癒力を高めてあげる。

④好きな『楽しめる』ことをする時間をもつ

瞑想と同様で不安や痛みに苦しんでいる時には、治癒力が働きづらくなっているため、ワクワク出来ることだけに没頭する瞬間を作って、心と体から一瞬でも不安や苦しみを消す時間を作る。(数分でも数十秒でも良いからまずはやってみる)

筋トレと同様に、やり続けると継続できる時間が長くなる。

⑤好きな「コメディー(お笑い)」をみて、とにかく笑う。笑ってみる。

辛い時に笑うのはとても大変なことで、難しいこと。だけど笑うと、ガン細胞を抱きしめて圧縮死させるNK細胞が活性化するため、笑いはガン治療にはなくてはならない最強の治療法である。(KellyはNK細胞のことを「ハグ細胞」と紹介している。苦しむガン細胞を抱きしめるから、ハグ細胞)なるほど。

⑥直感に従う。

Kelly がガンを克服した人の調査を始めて、もっとも驚いたのがこの「直感」に関するコメントだったと言っている。一人や二人ではなく、調査したすべての人が自分の中に聞こえた・受け取った直感に従ったと報告したという。その直感は治療方法に関するものであったり、自分のどこにガンがあるかであったり、何に取り組むべきであったり、など人によって様々。

 

⑦⑧⑨は時間の都合上、具体的ではなくサラッと説明されてしまいよく覚えていませんが(すみません)、確か禁酒・禁煙などの体に悪いと言われていることをやめる、専門家の指導のもと薬草治療を取り入れる、などでした。

 

約1時間の対話形式のインタビューの中で10分間ほどの誘導瞑想をしてくれたのですが、私的にはこれが目からウロコでした。

手短に訳すとこんな感じです。他のいろんな誘導瞑想と同様に、深呼吸から入り、全身をリラックスさせ、落ち着き安全であると認識してから、美しい階段をどんどん下に降りていき、深いところに美しいドアがあり、そのドアには私たちが望みそして私たちを待っている「癒し:healing」があり、そのドアを開けて癒しの空間に入ると地面に一歩一歩足を踏み入れるたびに足先から癒しが身体中に満たされていき、とても美しく快適なあなたのための休める場所(イス、ソファー、ベッドなど)があり、そこに横になってとても気持ちがよくなっていると隣に美しい宝箱があることに気づき、それを開ける。そしてその宝箱の中身が、「あなたに必要な癒しの原因」でした。

 

これは新しい、いや、新しいと私には感じました。とてつもなく斬新。

この『宝箱』の設定が、すごい。

これも直感の一つと思います。瞑想でリラックスして、癒しの場の実際の癒しエネルギーで満たされ癒されながら、宝物に遭う。宝箱の素材も色も形も自分で想像し(瞑想内の世界で実際に見る、触る)、その中身を想い、そして開ける。

その中身は、、、、、、。

 

私の中身は、なんと、亡くなった祖母、亡くなった彼、亡くなった彼のお母さん、亡くなった最愛のネコ「ブン太」、でした。みんな亡くなってるやないかい!

うまく言えませんが、伝わりづらいかもしれませんが、みんな死んでますけども、彼らは私にとって「愛」の象徴です。疑うことなき、愛の象徴。

祖母が亡くなる前まで二人で交わした愛情、彼が亡くなっても届けてくれた愛情、彼のお母さんが亡くなる直前に電話をくれて何度も何度も泣きながら伝えてくれた愛情、私に生きる気力を与えてくれた愛ネコとの出逢いと愛情。

 

その宝箱の中からみんなの愛情が溢れていて、みんなが声をそろえて私に伝えようとしているのは「生きて」「愛してるよ、生きて」

私の癒しのブロックになっているもの、まさに、でした。

私は一番知っている。あなたも一番知っている。本当のこと。

とにかく泣きました。アイヤー、ソウキタカ。

 

これまでいろんな瞑想を試してきた方だと思いますが、それにしてもこれは私には斬新な切り口でスッと入ってくる気持ちの良い瞑想でした。

他にもたくさん癒しの瞑想がありますので、興味ある方は是非探してみてください。

 

ついつい私事で話が脱線してしまいましたが。

私の日本での記憶と知識は日本を出た12年前で完全に止まってしまっているので、

今現在の日本のガン治療の情報がどうなっているのかまったくわからないのですが、今日ここで紹介させていただいたサミットでも言われていますが、予防できるなら予防するのがいいね、と。なっても治せるが、予防がいいねと。

なので上記の9つ(6つしか書けてませんが)は予防にも良いし、これはガンに限らずどの病気にもあてはまる対処法だと言っています。

より健康に生きるにも「楽しいことや好きなこと」をする時間を大切にして「笑うこと」を意識的に取り入れる。

Kellyの調査した人逹のなかで、ある女性が言った言葉に「ガンと宣告される以前の、「面白かった記憶(笑った記憶)がない。これは生きるにも死ぬにも良くない!!」と言ったそうです。宣告されたから笑えないのではなく、その以前からも彼女は笑っていなかったということに気づいたわけです。楽しいことを取り入れなかった今までの人生に気づき、これはまずい!と思ったわけですね。もちろんその女性も回復されました。

 

私たちは最期のその瞬間まで生きている。肉体の死はその最期の一瞬を迎える時ですが、それまでの人生の全ては生きている「生命活動」の途中なのだな、と最近思うようになりました。

じゃぁ生きないと。生きるなら幸せに近づきたいし、心が幸せでありたいなと。

 

補足①

ちなみに、病気回復や予防に言われる「エクササイズ:運動」が9つの中に入っていないのは、調査した人達のほとんどが大分進行した病状から回復されたため、治療という観点でのエクササイズは実行不可能だったためとのこと。(予防にはエクササイズはやるべきだそうです)

補足②

この記事でまったく説明出来ませんでしたが、Ken Cook氏は主に「体につける製品の毒性」について話しています。化粧品からシャンプーなどの生活用品を含め、肌に塗るもの(頭皮も含む)は体内に浸透する ため、人体の最大の臓器である肌から吸収されるということ、その危険性について、莫大な研究結果をもとに話しています。個人的には、美容関係従事者として『化粧品が毒物』というのは既知の事実であり、だからこそその内容物と生産者、生産工程などを知ることは重要であると同意しまくりです。

 

取り急ぎご紹介を、と思って手短かに書く予定だったのですが。ゴチャゴチャと個人的な見解を入れてしまい、読みづらい人にはごめんなさい。

内容に興味がある方、英語の耳慣らし教材を探している人、海外では健康問題がどのように言われているのか(このサミットはとても総合的な観点からガン治療を捉えているものの一つであり、『Body Mind Spirit』の全てから闘病・克服・予防・豊かな生き方に取り組んでいる人達の集まりです。一般的というよりも先駆的です)を知りたい方などには良い機会になるのではないでしょうか。

 

www.healingcancersummit.com

 

 

 

 

父と義父

前々回の記事で、私の中に微かに残る父への思いを吐き出したことで、微妙に心の中が変わりつつあります。

ブログって、いろんな使い方があるんですね。(しみじみ)

rainbowworld.hatenablog.com記事を書いてから、何かこう悶々としたものがずっと頭の中にあり、「何かが違う気がする」と思っていました。

そしてつい先日のこと。母と電話で話していると、父が「生命保険無加入」というのが発覚しました。私はてっきり、父にもしものことがあったらその保険金で実家を解体出来るかなと勝手にあてにしていたものですから、これを聞いてまぁ大分がっかりしました。(あえて無加入でいく人もいるのでしょうから、そのことについて言及しているわけではありません。あくまでも、我が家の父の話です)

というのも、その朝父は「胃カメラを飲むから朝食は要らない」と言い家を出たというではないですか。父は昔からストレスを胃に溜め込む人で、以前は潰瘍が3箇所同時に見つかったこともあったほどです。聞けば前回の健康診断で何かが発見されたというではないですか。これはもしかするともしかするかもと思い、万が一のことを考え母に保険のことをたずねたら、母が非常にがっかりしながら呆れた様子で話し始めました。

「自動引き落としを3ヶ月出来なかったから、停められた。」

「この間はうっかり電気を停められそうになって、危なかった。ちょうど私が家にいたから、1ヶ月分だけ払って繋いでもらった。」

 

、、、、、。 え?

そんなにダメなの?

 

母が「保険には入っておいた方が良い」と声をかけても、「そんな金はない」の一点張りで怒って話にならないとのこと。そして母には「俺は病気かも。もうすぐ死ぬかも。」とあれこれと心配しながらぶちぶち言ってくるらしいのです。

だったらなおさら保険に入れよ、父。

そして、父は母に一銭も生活費を渡してないのです。

フルで厚生年金ももらっており、普通の年金と足すとある程度の金額はもらっているはずの父ですが、何しろ管理が出来ないため、支給月になると朝から晩までオートレースに行ってしまい帰ってこないという日が続きます。

行くなら勝てよ。

行くなら元取って帰ってこいよ。

ていうか、行くなよ、父。

他に収入が無いのに、よくもまぁ、ギャンブルにそのなけなしのお金を使って怖くないのかと驚きます。

 

てゆーか、驚いてる場合ではないのです。

現実問題として、母がこれから離婚をして籍を抜き、姉は以前の父との大喧嘩で既に決別しているわけですから、つまるところ父が死んだら父名義のあの実家を片付け解体し更地にして処分するという工程の全てを私がやらなければならないということがハッキリしているわけです。

そこに保険も入っていない、病気でも自然死でも孤独死でも家の中で死んで誰にも見つけられないかもしれない、発見されるのが数ヶ月後でもう虫とかいろんなものがスゴイことになってしまって家中スゴイことになってしまっているかも知れない、それらの全てを私が一人で実費で対応しなければならないの???

 

ヒデブ。

 

とりあえず、一度に現金払いなんて無理だから、どうにか手を打たなければと考えたところ、「あ。父の保険料、私が出せば良いんじゃないかい?」と思いつき。

「病気になっても入院なんかさせない」とキッパリ言いはる母に、私が保険料を払うからどうにか安い生命保険に入らせて欲しい、と伝えました。

母に「すいませんねぇ」と言われるも、何かすっきりせずここでも悶々とする私。

その後、姉にこの件に関して大体の流れをメールすると、「クズの金なんかあてにしてんじゃねぇ。ヤツはクズだ。死んでも捨て置け。」と容赦ない積年の恨みと怒りのこもったメールが連続で返ってきました。怖や、姉。よもや般若か修羅か。

そしてとどめに、「クズはアルコール中毒でニコチン中毒でギャンブル中毒です。絶対治らない。捨て置け。」と。

それ、私が姉と母に教えたことやないかーい。

 

確かに、中毒です。中毒なんです。

そして中毒は病気なんです。治りません。

私は姉に捨て置けとは言いませんでしたが、母には再三言って聞かせました。

「それは病気で、絶対に治らないんだよ。本人がそれを治す意思があって、専門家の助けを借りないと、そして借りてもとても治すのが大変な病気なんだよ。言って治せるものじゃないんだよ。」と。

家族のことが大事だからとか、誰かのことを考えるからとか、そんなこととはまったく別のところで本人の中に巣食う、病気なのです。

子供時代からの愛情飢餓が、大人になっても続き、今や65歳の初老の愛情飢餓人です。

そして年を取りさらに好き勝手にし始めた父は、もうこれからもっと酷くなる一方でしょう。

 

そうだった。

これは中毒という病気だった。

もう治らない病気なんだった。

 

わかっていたけど忘れていたそのことを、般若のメールでほろっと思い出しました。

そして悶々としていたことがハッキリと心の中に言葉として浮かんできました。

 

どうして私がこの愚かな家族の尻拭いをしなければならないのだ?

どうして私がこの「既に人間ではなくなってしまっている中毒親父」に資金援助しなければいけないのだ?

今世で父を旦那に選んだのは私ではなく母なのに、その母はまったく他人事で、冷酷にも病気でもなんでも入院もさせず救急車も呼ばないと言っているのに、どうして私がその母の旦那の生活費やギャンブルのお金や電気や携帯の料金の心配をしないといけないのか?

そもそもどうして私が「自分で酒飲んでタバコ吸ってギャンブルして生きたい」と心底その姿勢を貫いている人間を正さねばいけないのだ?

 

答えはやはり、シンプルなのでした。

「捨て置け」

 

私が心を痛めなくても良いことなのです。

父から心と手を引くならば、母からも姉からも私は手を引けば良いのです。

彼らには彼らの何か「意味」があるから同じ家に住んでいるのでしょう。

私には私の何か「道」があったから、きっと家とそして国を出たのです。

そうだ、私は自分なりの距離をとろう。 深呼吸、深呼吸。

 

ここであまりにも対照的で面白いので、義父のことを少々書きたいと思います。

義父は山形から上野に集団就職をしてきた団塊の世代で、母の一つ上の世代です。

(ついでに母と義母は同じ寅年生まれで、縛られるのが苦手な外に出たい・自由でありたいという根本のタイプが似ています。

しかし私の父は巳年、義父は丑年。結婚する相手によってこんなにもその後が違うだなんてと、何度思わされたことでしょう)

 

義父の実家は貧しい農家で、食い扶持を減らすために田舎を出ざるを得なかった「長男ではない息子の一人」です。

片や、父はとても貧しい兼業農家の次男に生まれました。こちらも食べるものに困りながら育ちました。

義父は昔から「勿体無い」の人で、お金をかけることを極力嫌います。タダで直す、タダで食べる、タダでもらう、タダで、、、とにかくタダでが好きな非常に財布の紐がかたい人です。絶対にものを捨てない、手放さない。

そんな義父は、真面目に勤続し、某大手の下請け会社の工場長になって定年しました。

義父の受け取った退職金は、とても大きな金額だったと聞いています。

が、定年後10年経った今も、そしてこれからも一銭も使うことなく死んでいくと決めています。

死んだ後に家族・親戚に残すためです。

家族は義母と、旦那の姉と弟、親戚とは、義母の姉妹のことです。

旦那は諸事情により、遺産はもらわないことになっています。

お葬式などのために生命保険も入り、義母ではなくちゃんと旦那の姉が受取人になるように、その手続きの一切を既に説明してあり、そして義母には遺族年金が入るので、「家族も親戚もこれでなんとかやっていけるから、俺が死んでもあいつらは大丈夫だ。」と仏のような顔で言っています。本気で。

 

義母は気前が良く宵越しの金は持たないというか持てないタイプの人で、入ったお金はすべて家族や人のために使ってしまう人です。そんな奥さんのために、全部用意をしているお義父さん。

片や、いやもう出すのも嫌だけど、片や、群馬の我が父は、小さい会社ながらもエンジニアの上の人になったのに(役職忘れた)、退職金は母に一切金額を教えることなく速攻で使い切り、年金になってからはさらにギャンブル三昧で、「借金は残さないようにしようと思ってる」と言ってはいたがもの凄くそこはダウトで非常に怪しく、嫁には生活費を一切入れず、機嫌が悪ければ大声で「出てけー!」とバカみたいに叫びちらし、こたつの相向かいという至近距離からテレビのリモコンを母に思いっきり投げつけ、玄関から土間へ母を押し飛ばし、躾と訓練のされてない犬を二階で飼い、、、、。

あぁ、もう書くのはやめよう。

そうだ、「捨て置け、私」

 

何が言いたかったかというと。

同じ寅(虎)の性質の二人なんです。母も義母も。

だけど結婚した相手がこの蛇か牛かで、大きく自分たちの道が変わりました。

母は元気はつらつ社交的な人で友達がたくさん居ますが、家では首を絞められ檻に入れられた哀しい虎のようです。

片や義母は好き放題喋り放題で、3歳児がそのまま白髪になって歩いているような人です。

うちの父はそれを怒鳴り続け、義父はそれを「誰にでもいいところは必ずある」と言いながら一緒に生きたのです。(実話)

 

結婚をするときは、マジ相手を慎重に選びましょう。

そして「これやばい」と思ったら、勇気を出してとっとと別れましょう。

「これやばい」と思う相手の問題は、それが暴力であってもなくても、完全に相手の問題であって、あなたには何もできない場合が多いのです。

またそういう人に寄る人も寄せられる人も問題がある場合が多いわけですが、「私は変わるんだ」と強く思うなら、「自分」は変えられるのですから。

寄り添って一緒に助け合って生きていきたい人なら素敵ですが、そうじゃなくて「これやばい」と思うなら、「あなたらしいあなた」に戻って人生やり直しましょうよ。

 

私は捨て置きながら、適度な距離で様子を見ようと思います。(見るんかい)

読んでくれて、ありがとうございます。

 

 

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日記

私は18年前のあの日から、ずっと日記をつけている。

rainbowworld.hatenablog.com

 

今回、母が実家を出て行くにあたり、そしていつかあのことを一冊の本にしたいと思うようになり、実家に置いたままの当時からの日記の数々を、母が居る間に回収しようと思いたった。

私がどうしても手元に取り戻したいと思ったのは、特にあの当時の、彼の死から直後の3ヶ月間につけていた彼用と私用の2冊の日記だった。

青いミッフィーの表紙のB5サイズのノートをビニール製のカバーに入れて、他のものとは分けて仕舞っていた。はずだった。

 

そのノートには当時の私の感情や、実際の詳細な日々の動き(いつ彼の両親に初めて会いに行き、お通夜がいつで葬儀がいつ、初七日や四十九日にああしてこうして、いつ高槻警察署に証人として事情聴取に呼ばれたか、などの記録)が書かれているはずで、それらをもう一度読み返してみようと思った。

置いてきたのは実家の2階の、元私の部屋のクローゼットのはずだった。2階にあるもう一つの部屋を父が荒々しく使っているので、母はここ数年は全く2階に足を踏み入れていなかった。事情を説明し、ラインのビデオ通話をオンにした状態で、父の留守を確認して、母に2階に行ってもらう。ついでに私が置いてきた不要なものの最終処分をしてしまおうというのが、母の目論見でもあった。

母は、私にとって彼や彼の死や、彼の家族との思い出や、そして彼の母の死がどんな大きなものかを知っている。なので一生懸命、私の指示を聞きながら部屋のクローゼットや押し入れを探してくれた。

 

が、出てこない。

 

念のため2回ずつ、クローゼットと押し入れを入念に探してみても、あるはずのところにミッフィーのノートがない。

日記は出てきたのだけど。肝心な最初の3ヶ月の、最も記憶と感情がフレッシュな時の記録が出てこない。

マジかー。(遠い目)

なんでだー。(撃沈)

ウソだろー。(ぐるぐる目)

 

でも出てこない。

あれ。もしかして。私の保険・年金情報や印鑑と一緒に、重要書類一式として母に預けた袋の中に入ってるんじゃないか?

そう伝えると母は悲鳴をあげた。母にはその覚えがなく、これで見つからないと自分の責任では?と思い始めたからである。

一階におりて、今度は母がいつも書類を仕舞う押し入れを調べてもらう。でもやはり、そこにもミッフィーは見つからない。

この時点で母は泣きそうである。

いや、多分私のせいなんだけどね、見当たらないのは。

 

私は当時このミッフィーノートを、彼と私が一緒に存在した時間の証だと思い、とても大事にしていた。どこに行くにも持ち歩き、寝る時も枕の横に置いて寝た。

絶対自分で捨てるはずなどない、とてもとても大切にしていたものだった。

 

あれ、、、。もしかして、、、私、自分でこっちに持ってきて捨てたかも、、、。

 

こっちというのは、カナダである。

あれー、、。もしかしたら、、。

うーん、やっぱりそうかもなぁ、、、。

いつだったか、もう実家に暮らすために帰ることはないと思って、いつかの帰省の時に、自分の部屋の荷物の最終処分をしたような、、、。

その時に、大事にしていた思い出の服なども一斉に処分して、いつまでも昔の面影を引きずってはいけないと思って、でもこのミッフィーノートだけはカナダで新しく保管し直そうかとか考えて、持って帰って来たような、、、、、、、、、。

 

急いで母とのビデオ通話を終了し、カナダの自宅のクローゼットをひっくり返してみるが、見つからない。

持って来てるとするならここでしょ、という場所を念入りに探すけど、まさかのまさかで出てこない。

 

。。。。。

 

あ、、。何となく、捨てた気がする、、、。

 

人の断捨離精神というのは恐ろしいもので、必要なものから断ち切ろうとしがちである。(断捨離あるある)

もしかしたら、万が一、この先この家の中のどこかからひょっこりミッフィーが顔を出すかもしれないが、「もうないかもね。ハハハ。」と思っている。

その時は、その時だ。

日付や時間の細かい記録がないだけで、今私が覚えている感覚とそれ以外の目一杯の情報や感情や思い出が、少しどこかに消えただけだ。  (涙)

 

なぜ私が「昔の記録」を集めようと思ったかというと、旦那が次の作品を執筆し始めたからだ。夏前から始めていたが、その姿を横目に私は某憂チューブで好きなアニメを観漁っていた。旦那があまりにも真剣にノートをとりながら書いている姿を見て、「あ、私も作品に使えるノートがあるぞ?」と思ったのだ。

まぁ、結果的には紛失してますが。その時はそう思って、「ナイス、私。今のうちに確保じゃ」と思ったわけで。

私の作品は、果たして出来上がるのかどうかはわかりませんが、現在は旦那の作品が最終段階に入ったので、私はその文章のいろんなことの確認作業でお手伝い。

私はどちらかと言うと、自分で作るより、確認の方が向いてるよな、、。

少なくとも私の心には合っている、と思う。

 

そんなこんなで、衣替えの秋。家中ひっくり返して、また断捨離しましょうかね。

注:大事なものは、捨てない方が良いですよ。

 

と、ある日の猫。捨てませんけど、、、?

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夫婦と家族  

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もう10月も1週目が終わろうとしていますね。今年は本当に早い。

日常のいろいろなことに、「これを記事に書くならあぁやって、こうして、、、」などと構想を練っているのですが、なかなか実際書くとなると躊躇する。そしてそのまま、また月日が流れるというのを繰り返している気がします。

書きたいことは山盛り心と頭の中にあるのですが。

とにかく、今日は書きたいと思います。

 

いろいろ悶々と頭の中を廻っている事柄はありますが、今日は『夫婦』と『家族』について。

我が家の実家問題もいよいよ佳境に入ってきました。

以前、義兄との離婚騒動でアパートを出てきた姉が、現在は新築戸建の完成待ちです。

姉がずっと言っていた「やっぱり子供とは一緒に住みたい」という気持ちと、それをするには姉の状況だと「女手一つでは経済的に無理」という現実を受け入れてからの、「でも家が欲しい」という気持ち、そしてその後の「義兄の謝罪を条件付きで受け入れる」からの「新築戸建の完成待ち」の現在に至ります。

まぁ何ですか、ね。「子供と一緒に住む夢のマイホーム」には「ローンを組んで返済してくれる人が必要」という方程式が、悲しくも美しく希望を持ってはじき出されたわけです。

姉には「あんたのような嫁に、それでもなお戻ってきてくれよ!と言ってくれる、頭のおかしい旦那がいることに感謝だな!奇跡だな!」と。

姉夫婦の感覚はまったく理解出来ませんが、私は姉が大好きなので、姉が幸せになれる環境が一番だなと思います。

もちろん、この件で最も巻き添いを受けたのは子供達ですが、昔は自分も子供だった立場の叔母さんから言わせてもらうと、

「大なり小なり生まれてきた家族の巻き添えに合うんだぞ」

という、ね。

数年前から口をきかなくなっている姉と義兄ですが、そしてよりを戻すことが決まって数ヶ月経つ今現在もさほど口をきいているとは思えない2人ですが、

「これが2人の学びの最善の形。なんでしょ」

という感じで私は見守っています。

私が心配し、この先もその時が来たらサポートしたいと思うのは姉の経済面であり、今回姉が義兄に条件として出した「姉が実家から母を連れて行くこと・新しい家に母も住むこと」がこの先安泰で守られるように、私はこちらで準備をするということです。

 

今はまだ、姉と母は実家にいます。以前、父が姉に手をあげてから、未だにずっと父と姉は口をきかず、顔も合わせていないそうな。

母と父もまともに口をきかず、口を開いても父が大声をあげて会話にならず、父と姉も顔を合わさず。

一緒に住んでいるのに、バラバラな3人。

そして母も、結婚生活40数年の自分の人生や居場所にいろいろと足や後ろ髪を引かれながらも、ゆっくりでも少しずつ家を出て行く気持ちを固めてきていることろで、現在は荷造り中。

そしてこの一連の流れを、父はまったく知らないという奇跡。

姉の作戦は「よもや夜逃げでしょ。ドロンパ大作戦。」であり、予定している当日の母の置き手紙以外は一切、父には事前に知らせないという強行姿勢であり。

私は複雑な思いですが、実際これはこれで、母の安全を思うと致し方なしか、という悲しい現実な気がしており。

 

あぁ、誰か怒り狂う暴れる父の魂を鎮めてください。(祈)

 

仕方ないんだなぁ。きっとこれしか、安全な道がないんだなぁ。(涙)

そして私は思うのです。

『家族って、何?』と。

何も出来なく世間を知らない箱入り娘だった母が、学はないが度胸の座った田舎の(当時)男前の父と出会い恋愛をし楽しく結婚したら、一人目の子を出産したあたりからどうもその男が豹変し、大声出すはテーブルひっくり返すはの大騒ぎをし始めて、時代にも両親にも離婚を受け入れてもらえず、当時の母は女手一つで子供二人を養えるわけもなく、他の道も考えられず、そんなこんなで40数年。

私たち子供にしてみれば、生まれたらそこは父が荒れ狂う家で、父と母が会話を始めれば父が怒鳴るか物が飛ぶかのどちらかで、それでもなお怒れる父に最悪の対応で反抗する母に「あの人は絶対いつか殺される。てか殺されたいんだろ。」と思い続けて育つ娘二人。

夫婦とは?てかなぜあの家に産み落とされたのか?

あたたかい家庭って、どんな感じなんでしょうね。(遠い目)

 

今回の「母、実家から脱出する作戦」で私が最も気にしている点は二つ。

「脱出時の母と姉の無事」と、「その後の父」であり後者の方を思うと、なんとも言えない寂しさや虚しさやいい加減にしてくれよ的な感情が渦巻くのですよね。

 

父は父なりに、田舎の、学はないけど職人職で叩き上げてきた人で、家族のためにと社会の荒波になにくそと頑張ってきた男で、仕事もするけど、腕は立つけど、ギャンブルに情熱を燃やすお金の管理と計算の出来ない人で、この俺様はもっと遊んで良いだろがっと張り切っちゃうが収入と生活費が見合わないために「貧乏はお前(母)のやりくりが下手だからだろうがー!グァーッ!」と暴れるおバカで、支配欲はあるけどその実力がない男気あふれる男で、子供愛はあるけど、死んだ人のお墓参りはかかさないけど、女には大声あげて物投げてたまに手もあげる、というクズなだけなんです。

その父も、家族のためにと一念発起して、今から数十年前に一国一城の主にと家を建てたわけです。

決して愛情の感じられない、怖くて寂しい思い出しかない実家ですが、それでもそんな男が一生懸命働いて、社会の泥を舐めながらも必死に耐えてローンを返済した、「ザ・俺の城」なマイホームだったわけです。

 

可哀想だな、親父。

もうすぐそこに独りぼっちになってしまうんだよ。

 

私は、母と姉が家を出た後の、父の生き方が心配です。

でも、あの怒れる魂が唯一鎮まるかもしれない薬があるとしたら、それは父の魂が最も悲鳴をあげて恐れている、「孤独」なのかも知れない。

私としては、父が独りになった後で、こちらの意見を聞く耳をもってくれたらなと願います。

静かに話を聞いてくれないと、何も引き出せないし、何もしてあげられない。

せめてこちらの助けを受け入れてくれるだけの静かな耳をもって欲しい、ですが、これは何気に最後のチャンスだなと感じます。

本当に、最後のチャンス。

ここで改心されなければ、今生の別れになるだろう。そう思います。

母と姉が家を出たら二度と戻ることはないでしょうが、そして私ももう二度とあの家に立ち寄るために帰るということはないですが、それでも私は父を助けたい。

母は父を恨んでいるから、一緒に居てはダメなんです。父も母を恨んでいるから、一緒にいたって仕方がない。父はあの時姉に唯一残っていた「子」としての父への愛情を撥ね退けたから、もう二度と振り向いてもらうことはない。姉は父の葬式にも出ないという約束になっています。

唯一この三者紛争に直接的に関わっていないのが、私なのです。

父が意地を張り通し、寂しく死んでいくというなら私はその自由意志を見守らなければならなくなりますが、どうか父が私に助けを求められますように。

 

夫婦と子供と家族、本当に意味がわかりません。

子供がいるから幸せな家、不幸せな夫婦。

子供がいるから離婚出来ない、して良かった夫婦。

子供がいなくても、幸せ、不幸せな夫婦。

 

子供を持つ前に、「この人と万が一に別れても、子供を連れて暮らせる、養える」と少しでも考えたほうが良いんじゃないか?と思うのは私だけなのか、、。

我が実家の問題は、田舎だからなのか?

 

私は子供の時からずっと、周囲の大人とその子供が嫌いでした。

大人も子供もセットで嫌いでした。

嫌いな子の親も、なんだか嫌な感じで、「嫌なチームだな、、」と心底感じていました。でもそこから逃げることも立ち向かうことも出来ない非力な子供の自分を呪っては、その集団や社会から抜けられない現実を寂しく思っていました。

なので、子供が嫌いなのではなく、大人もその子も嫌いです。

自分の血なのか、それとも経験からなのか、「子供が超欲しい」と思ったのはとにもかくにも昔彼氏が死んでしまった直後だけでした。「せめて子供がお腹にいたら、、神様どうか私に置き形見を、、」という執着ですが。

この実家の離婚&出家騒動においても、心から私が良かったなと思えることは、母が私たち姉妹を男の子ではなく女の子として産んだことだなということです。

子供の性別も、運命論の大きな采配だと思うからです。

私や姉が男の子だったとしたら、「嫁にいく」ではなく「嫁をもらう」になっていたわけで、すると父方の名字が後世に続いてしまう。父方の親戚はみな男の子ばかりで、彼らもその親もみな、ギャンブルに狂っています。もちろん私の父も。

なので想像するだけでも恐ろしい。もしも自分が男だったら。(チーン)(合掌)

神様は母に女の子を授け、少しでも現実的に計算する脳みそを与えてくれました。おかげで父方親戚ギャンブル集団の地獄から抜けられているわけです。というか、そう信じています。

 

今回、姉が母を連れて出て行くにあたり、最も強く母に頼んでいるのが「必ず離婚届を提出し、旧姓に戻ってから新居に入ること」です。

姓名診断とまったく同じ要領で、姉も私も父方の姓を名乗っていた時の良い思い出がまったくありません。

そして今回、姉が自分の離婚騒動にあった際に最も悩んでいたのが、旧姓である父方の姓にだけは絶対に戻りたくない、ということでした。

なので母には、この機会に確実に母の旧姓に戻ってもらい、将来的にもしものことがあっても、自分も子供も母方の姓を名乗れるようにという目論見も入っているようです。でも一番は、結局その姓側の思い出と印象なのだろうな、と思います。

私も姉も小さい時はよく母方の祖父母にお世話になりました。そしてその記憶だけが唯一、安全で安心できた快適な時間を過ごした思い出になっており、「家族」や「家」というのはあの祖父母宅で過ごした時間だと認識しているからなのだろうと思います。

 

とにかく、私は母の安全を祈り、姉の幸せを願い、父の魂の静まりをご先祖様にお願いするのでした。

 

 

 

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