日々 悶々

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どうしてスカッとした気分や何も考えていない状態で1日、1週間などの期間を過ごせないものか。頭の中でずーっと、何か他のことを考えていたり、気になっている問題がゴワンゴワン騒音を立てている気がする。

瞑想も試したんだけども、なかなかどうして効かないなぁ。

 

ところで。去年受けた健康診断で、血液検査の結果を見て医者に勧められたのがビタミンDだった。「ちょっと低いかな」と言われてサプリメントを取り始めただけだが、落ち傾向にあったのがだいぶ改善したように思う。医者に「D不足」と言われた時に「あ。落ち気味って、気分ではなく体内環境が原因だったのかも」と妙に腑に落ちた。

今では鬱の改善にビタミンDの摂取をすすめているみたいだけど、私がそれを知ったのはつい最近だった。カナダでは冬の日照時間が短いということで、みんな積極的に「D摂らなきゃ!」「D!D!」的な発言をしている同僚が多く、なんと私はその発言を密かに鼻で笑っていた。いかにもマッチョの「肉、肉、酒!」みたいな同僚の男性が「Dを飲まなきゃ調子悪くなるぞ」と真剣に教えてくれた時などは、この国の人たちは何かに騙されているのではないかとさえ感じた。けど違った。

まぁとにかく、私自身のゲキ落ちは、ものすごく減った。気のせいかもしれないが、ビタミンDを飲み始めてすぐに効果がわかった。それまで得体の知れない精神的なものだと思っていた時々やってくる重い暗さが、血中成分だったとわかってあっさりほぼ解決した。

それでもまだ、日々悶々とするけれど。

ほぼ解決した「落ち」とは別に、13年間苦しんだ「もう二度と治らないのでは」と本当に絶望的だった皮膚炎が、改善した。この間に日本とカナダを合わせて5人の医者や専門家に会ったが、誰も症状名も言わず、というか言えず?、ただ一人その皮膚炎用にとクリームを処方してくれた医者も「治らないけど、ごまかせる」と言って処方してくれたのがステロイド剤で、それも効かずにただただ痒かった。そして掻くのが我慢できない私は血が出るまで掻き続ける、さらに悪化する、患部が広がるの繰り返しで今に至る。

13年前に始めて症状が出た時はただ一点のピンポイントの痒みだったのだが、ひたすらに掻きまくり、家にあった使用期限切れの痒み止めを塗ったら見事に悪化し、初めて医者に診てもらった時点では指三本分ほどの広さになっていた。そこで一旦軟膏か何かをもらったような気もするが、広がった血まみれの皮膚をちょっと抑えただけだったように記憶している。何しろ当時は群馬の地元のおっさん医者に他の若い先生たちの目の前で「肝臓疾患じゃないの?(ニヤリ)」という意味不明な洗礼を受けたので、頭の中は検査結果の無事をただ祈るばかりで痒いし痛いし意味がわからないしでパニックだった。どうして医者はそういうことを言うのだろう。私が一体アンタに何をした。血まみれでお会いしただけではないか。 ちなみに検査結果はどこにも異常がなく、そのおっさん医者はしどろもどろに「えぇ、、まぁ、、肝臓には異常がないようなので、、」と非常にギクシャクしていた。 おっさんよ、なぜ私の不調を願った?アンタ、医者だろ。

とにかくその後もこの痒みにはずっと苦しんできた。一度は大きな病院で生検までしたのに、傷口が大きすぎたらしく、若いお兄ちゃんドクターは「一応、縫合しときましょうか、、」と縫ってくれたもののその傷口が夜には化膿してしまい、一睡もできずに泣く思いで当時の親友のナースに電話すると「それヤバイ。すぐに医者行け」と言われ、翌日急遽またその病院に行くことになる。翌日は女性のベテランドクターで、傷口を見るなり「ワッ!何で彼は縫ったの!?」と驚き怒っていた。先生、患者はほとんどされるがままです。良い医者は会ってすぐにわかるが、どのくらいヤバイ医者かは失敗されないとわからないものです。トホホ。

抜糸された時にものすごく痛くて、「大変だったわね。もう平気よ」となだめてもらった時には悔しくて惨めで悲しくて診察室で大泣きした。

そんなこんなを経て、もう13年間この痒みと共にいる。あまり痒くないかなと思う日が続いても、狂うくらい痒い日が急にあったりして意味がわからない。

でもひたすらに毎日掻いていた。何かつけたり、何もつけなかったり。

そしてついに先日、もういい加減にしてくれよと心底思い、もう無理だろうと思いながらもネットでちょっと調べてみた。いろんな情報があったが、どれも効くような効かないような。その中で、「あ。私はまったく反対のことしてたかも」と思ったのが、「保湿すること、スィートアーモンドオイルが良いらしいということ、そして掻かない。」めっちゃ掻いてたやん。

掻きすぎて、皮膚が裂けて、血が出てさらに痛くって、殺菌作用が良いかもとか思ってそういう効果のあるエッセンシャルオイルを他のオイルと足してちょっと強めにつけたりして、そのオイルでさらに乾燥して、また痒くなって、掻く。永遠のループ。痒み痛み地獄。

でも掻いて血が出るから、その皮膚を剥がさないとさらにアカギレみたいになって深くなって痛い。服にも擦れてまた痛い。そして永遠に治らないかに見える痒みとアカギレ状態。

そしてある晩、限界を感じたので、泣きながらタッピングを試す。タッピングはこちら。

www.thetappingsolution.comhttps://www.thetappingsolution.com/

タッピングはEFT タッピングというもので、Emotional Freedom Techniques

 という方法。トラウマなどの感情を体にある数カ所のポイントを叩きながら解放するというセラピーで、私は過去の記憶やネガティブな感情を取り除くために時々使っているけれど、皮膚炎に使ったのはこれが初めてのような気がする。前に何かの痛みに対して使ったが、効いたような効かなかったような。でも今回は自分のハッキリとした「もう限界なんだよ。いい加減にしてくれよ」という感情が備わりそこに焦点を合わせやすかったためか、とても効いた。翌朝、痒みがまったくなくなっていた。

一瞬でも痒みがなくなったので、「掻かない」という状態でいられた。

これが功を奏してか、そこから2週間くらいまったく痒くない日が続いた。

13年間、2ヶ国間、5人の医者の後である。私には奇跡でしかなかった。

経過はというと、その後ついつい痒くもないのに掻いちゃったりして、結果的に皮膚に傷をつけてしまってまた血が出て掻いて、自分で「痒い痛い皮膚炎」を単発的に起こしたりしているが(よもや中毒。習慣病)、以前に比べたらはるかにマシになっている。(糖分の摂りすぎ、小麦粉系の食べ物を食べた後には痒くなる。これはまた別の話し)

 

こんなに熱く?皮膚の話をするつもりじゃなかったのだが、ついでなので老化の話し。

最近、顕著に物忘れが激しい。まだ42歳ですけどね。ホルモンの関係では?と思っている。というのも、私はおそらくあと2年のうちには女性特有のサイクルが終わるのではないかという感覚がある。それに伴ってか、よく更年期の女性たちが言うところの一つである「物忘れ」が来てるのじゃないかと思っている。

「思い出せない」という意味ではなく、「意識が続かない」「一つのことへの集中が維持できない」という感じで、何かに手をつけっぱなしで次へ行き、次へ行ったものを完了して、戻ってくるとお菓子食べっぱなしや、お茶だしっぱなし、書類書きっぱなし、作業ひろげっぱなしなど、その前にやっていた作業が見事なまでに途中で放棄されている姿を発見して「ワッ!」となる。

これまでもそそっかしかったり、少しの出し忘れ的なことはあったが、これほどまでに「作業のど真ん中」で放り出して次のことを始めてしまうということはありえなかった。

そして、脳みそ力というか、脳内の霧というか、記憶の池までの景色が非常に霧がかってる感じで。「記憶力」と「判断力」と「タイミング」でここまでどうにかやってきた感が強いので、「あれ、ヤベ。次何だっけ?」的な感覚で常にいることがちょっと怖い。とりわけ記憶力には自信があり非常に頼りにしてきただけに、心もとない。

そんな話しを50代もしくは50代手前の同僚に話したら、「あんた、そりゃ更年期だ。前後合わせて5年はそんな感じだよ。それを過ぎればすっきり晴れるから、気楽にやんな、同士よ。ヒヒヒ」と言ってもらう。持つべきものは老若混合の同僚か。

 

さて。そして父のことである。

実はこれが一番の心のつかえであり、ずっと悶々と私の頭の奥でズシンズシンと唸っている。

なんだかんだいっても父のことは気になる。

ハガキでも書こうかと思うが、いざとなるといろいろ恐ろしくなって、ためらう。

私が想像するに、間違いなく父の欲しい支援物資は「金、酒、たばこ」なのだが、そのどれも送ってやる事が出来ない。酒は出来るが、それで頭がおかしくなっている人に、さらにガソリンをあげるわけにはいかない。なので他のものを送ったりするが、なんだかマヌケかなとも思う。

 先日の台風で群馬の実家のあたりは被害がなかったようだが、それでも古い家なのできっと雨漏りが大変だったのじゃないか?そもそも借金はどうなってるんだろう?食べているのだろうか?電気は通っているのだろうか?(電気代払えてるのか?)等々を考えるときりがない。そして罪悪感のような、不義理な感覚に苛まれる。私には良い父親だったのだ。大声で怒鳴り支配的な価値観のところを除いては。何より、私を大学に行かせると早々に決心し、それを実践させたのは父だった。それだけが、唯一それだけが私が不義理で苦しいところなのだ。実際には生活費のやり繰りで苦労したのは母なのだが、それでもあんな田舎で生きてきたやんちゃな父が「娘を大学に行かせる!」と私の背中を押し、私に違う世界を見せるタチ役者だったことは紛れもない私の人生の中の真実なのだ。でもきっとこれはアレだ。まともな人間の部分の良心と、ダメな女の良心がごちゃまぜになってしまっているんだ。人生42年のどのページを振り返っても落雷のような激しさで大声で唸っている父の姿が占めているというのに「良い父親」と認識してしまっているあたりがよもや記憶障害なのか。南無三。

祈ろう、父への癒しと救済を。

 

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浦島太郎とピーターパン

年をとるって、こんな感じなのかな。

先月、42の誕生日を迎えた私は、年をとったことで、落ちました。

こんな風に感じる誕生日が来るとはちょっと思ってなかったです。

 

ですが良いこと?といえば、年を重ねて、これまでずっと気にしていた他人のことや細かいことなどが以前よりも気にならないようになったように思います。これは加齢や更年期前の微妙な状況により、脳みその一部の動きが鈍くなったという感じもしますが。今まで心をいためてきたようなことが気にならなくなったので、良いことかな。

 

さて。本題に。

私の旦那は、ピーターパンです。

自他共に認める感じの、ピーターさんです。

そんな旦那が、先日40歳になり、浦島太郎になってしまったという話し。

 

というのも、彼は書き物をしており、ここ2年間はそれに本腰を入れたいとのことで「40までに芽が出なかったら諦めるから、それまでは集中してやらせて欲しい」ということだったので、約束通り40までは本人も「イケイケ、ゴーゴー」で頑張ってきました。そして結果としてちょっと芽が出ました。しかしながら、本人が望んでいる「大きなわかりやすいチャンス」がまだ来ていないということで、、、。

遂に先日40才の誕生日を迎えたピーター氏、待てども来ない「大きな結果」と、目の前に立ちはだかる職場の「狂った上司」の間で、とうとう目が覚めてしまったようなのです。

 

「俺モウ40ニナッタ。俺、何ヤッテンノ?」

 

変な薬でも飲まされたのだろうか?彼は変に目が覚めて、とても哀しくなってしまいました。

そんなピーター氏を見ると、私もとても哀しくなるのです。

我が家のハッピーピーターパンが、ある日突然、得意技の夢見るハッピーダンスもせずに、呆然と立ち尽くして言うのです。

「俺、何ヤッテンノ?」

「世間体ガ」「恥ズカシイヨ」

 

我が家のピーターさんは、きっとどこかで悪い毒でも飲まされたに違いない。

そして私は思うのです。

世間体?

「ナニ人」基準の世間体か?

何を基準にして比べれば良いのか、今更「ココ」で?

 

健康的な食生活をして運動をしながら、太らずに良い体型を維持し続けている健全な白人と比べれば良いのか?

それともハッパ吸って気を紛らわして毎日ハッピーそうに生きる白人と比べるのか?

 

 よもや世間体とは何ぞや。

周りが違いすぎていて、比べる対象もわかりません。

 

私の中では。

日本を出てきてココで生きている今、日本の価値観と比べることさえ出来ないのだよワトソン君。そんなことするくらいなら、日本の中で生きるべきだよニャンコ先生。

 ではどうするのか?

 

我が家のピーター氏が「書き物をしたい」と言った時、私はただ「書けば」と言いました。

生活が出来るだけの収入さえ確保してくれれば、何をやっても構わないのです。

しかもそれが、ピーターさんのとても好きなことで、出会った頃から好きだと知ってることであって、本気で書き始めたらとても上手に書けるようになっていて、パソコン1つで出来るから他に何も出費がかからなくて、本人も目を輝かせてイキイキと生きられるなら、何が問題なのか、と。

 

本気で書きたいのなら、死ぬまで書けば良いではないか。

夢を見る能力の乏しい私のような人とは違い、ピーター氏のような人は、ずっと夢見て生きていて欲しいし、そうあるべきなのだ。

空も飛べない現実を見ながら、何が楽しくて生きていけば良いのよ、ピーターさん。

ネバーランドでゴーゴーしてもらって、どんどん老けていく私の横で、つるっつるの肌でニッコニコし続けていてくれなきゃ、困るのよ。

ピーターさんの見る夢で、ワクワク出来る人がここにいるんじゃい。

 

ということで、我が家の浦の島太郎氏は数日間、真剣に考え込んでおりますが。

まぁ、この先の人生の計画と方針を新しく立て直すには、良い時だなと思います。

二人とも40代になり、また新しい人生の節目にきたわけで。

今をどう生き、この先の人生をどのように生きていきたいかを話し合い探し合うには、良い時期です。

 

四十にして惑わず

 

良いじゃないか、太郎さん。大事なものだけ抱えたままで、上手に年を重ねていけるよ。要らないものだけ置いていって、さらに身軽に前進しましょうよ。

本当に捨てるべきものがハッキリ見えてくる良い時ですよ。

 私は思うのです。この時代を生き抜く中で、好きなことがあって、それを形に出来て、しかも発信出来て。ハッピーやぞ、ピーター君。未来は明るいではないか。

 

シケタツラシタジジィミタイニ 

サミシイコト言ウピーターサンハ

玉手ボックス 開イタ太郎カ

シノゴノ言ワズニ 夢ヲ追エ

 

 幸せになるのです。

 

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日本への旅

4月に約3週間ほど、日本に帰ってきました。

私のまわりでも、帰っていた方が多かったようです。やはりみなさん、お目当ては桜かしら。

 

前々回の帰国あたりからでしょうか、時期を選べるなら出来れば4月に帰りたいなと思うようになり、幸いにも旦那氏と私の職場が4月はまだあまり忙しくなく、かき入れどきである夏が始まる前にまとめて休みをとりやすいというのもあり、可能な限りそうしています。

 

まぁそんなこんなで帰ってまいりました。

私としては4月に帰る最大の楽しみといえば、やっぱりこれでしょう。

「劇場版コナン」

いや別に4月じゃなくても観られるでしょうけども。上映したてのフレッシュなコナンが観たいじゃないですか。

観たい日本映画が映画館でタイムリーに観られることなどとっくの昔に諦めた私ですが、コナンだけはどうしたって映画館で観たいのです。それだけが唯一の、大人になってから実家で過ごした頃の良い思い出として記憶に残っているのです。

よもやコナンは私の心の友、まさにセラピー。

 いつか絶対DVDを揃えるんだー。オー。

 

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ということで、桜が満開でした。

 

今回の帰国は、実家に帰らないというか帰れないということもあり、母と姉の住む「姉宅新居」へ居候させてもらうことになっていました。姉は無事に母と引越しを済ませ子供達と再び暮らし始めたわけですが、なにせ旦那さんとはまだギクシャクしているのでどうにもこちらも居づらいよなぁ、、、ということで、最初の一週間は母と旦那氏と旅行を楽しみそれから後半の滞在を姉宅でお世話になることにしました。

 

金沢から始まり、大津と京都、そして大阪へのお墓参りに、姫路と広島へ行きました。上の写真は金沢城で、桜はまさにピークでした。

高崎から金沢へ北陸新幹線で行きましたが、とても便利でした。車内も広くて綺麗でとても快適。お寿司も最高に美味しかった。是非次回もまた行きたいですね。

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私は大学と就職が京都と滋賀だったので、旅行をするならどうしてもそちらを廻りたい。なので今回も琵琶湖を見て、美味しい近江米の朝食を食べて、京都駅でご飯を食べて「擬似あの日の関西生活」を満喫。あー、ハッピー。

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こちらは京都駅にある中村藤吉の生茶ゼリー。滞在中にテイクアウトしてホテルで食べて、新幹線口でもう一度買って車内で食べる幸せ。お腹はパンパンですがそれでも食べます。(記事に写真を載せるつもりがなかったので、まったく自分用の画質ですみません)

もしもいつか日本に帰ることがあるのなら、その時は断然、京都にも琵琶湖にも近い大津に住みたいなとやはり思うのでした。

 

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今回、大津の宿泊は大津プリンスを利用しました。春も秋も大変混雑する京都駅は荷物を預けたくてもコインロッカーが足りなくなりますが、大津プリンスさんは京都駅にある出張所でチェックイン前に荷物を預けることが出来るので非常に便利でありがたかったです。スタッフの方の対応もとても丁寧で素晴らしく、さらに大津駅とホテルの間はシャトルも出ていてもう最高そして感激。タイムセール?を利用してお得な料金で部屋をとることができて、本当にラッキーでした。次回も必ず、こちらに泊まろうと思います。

 

金沢と広島で旦那氏は大切な知り合いに会うため途中別行動をしたのですが、母は大津から合流したので金沢では私は一人で買い物をしてブラブラし、広島では母と二人で広島駅を散策し広島焼きを食べました。姫路のホテルで朝食をお腹いっぱい食べた後でしたが、どこも満席のお店ばかりでたまたま立ち寄ったお店の席が残り数席空いていたので、これは今のうちに食べておかなければということで二人ともヒーヒー言いながらも完食。苦しいのだから二人で一つを分ければ良いものを、せっかくだからと一人一つずつ食べました。そしてとても美味しかった。「広島焼きを食べた」という事実と「旅先で名物を母と食べた」という事実が相まって、ことさら良い思い出になりました。

 

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一口食べてから「あ!撮らなければ」と思い、食べたという証拠にパシャリ。美しくなくスミマセン。

そして旦那氏と再び合流して、最後の目的地、宮島へ。

丁度良く、夕陽の時間帯に着きパシャリ。

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夕陽と鳥居と干潮を見たかったので、到着した日はとても嬉しかったです。

が、潮の満ち引きを調べていかなかった私は、翌朝ショックを受けるのですね。

帰りの新幹線の時間と、観光客の少ない時間に静寂の中で厳島神社を参拝したいという思いとで、朝食前の早朝参拝をすることにしたのですが、、、昼過ぎにならないと満潮は見れなかったわけですね。どうしても海に浮かぶ(ように見える)厳島神社の回廊を歩きたかったのですが、今回は残念でした。次回は時間を調べて是非、満潮時の参拝をしたいと思います。
でも早朝参拝は静かで美しくてとても良い時間を過ごせました。

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そんなこんなで無事に楽しい旅行を終え、すっかりジーンズもきつくなったところで地元の群馬へ戻ります。

そして姉宅へ。

二人の姪っ子もすっかり大きくなり、なんだか子供って頼もしい。

姉は別居中の幻の10ヶ月を埋めるべく、どうにも頑張りすぎているようで見ていて本当に苦しかったですが、まぁそれは本人のみが解消できる心の溝のはず。これからも応援し続けますが、今回一緒に過ごせてとても楽しかった。

二人とも最近はお酒をめったに飲まない日々ですが、一緒にいる間はここぞとばかりに毎日晩酌したり、つまみの奪い合いをしたり、ファミコンで競い合ったり、ツインビーとアイスクライマーでお互いのアイコンを潰しあったりとそれは楽しい姉妹の時間を過ごせました。

そして昔のように連日買い物に出かけたりと、そんなことがとても心地よいのですよね。姉妹とは不思議なものだなとしみじみ感じた時間でした。会えば触れれば昔に戻ったかのような近い関係で、お互いの、少なくとも私には姉の心情や行動が手に取るようにわかったり。そして細かい記憶はすっかり忘れて残ってないけど、幼少期も一緒に過ごした紛れもなく血の繋がった姉妹であり家族なのです。この絶対的な事実の力よ。家族って本当に不思議だなとあらためて思いました。

新居でも姉は怒れるトラだったので家の空気は大方ヒリヒリしていましたが、普段は誰もツッコミを入れられない大虎に、年を重ねた妹の特権で私は蹴りをくれたりツッコミ倒したり愛ある暴言を吐きあって子供たちさえも笑わせたりと、まぁ私のやるべきことはやったかなと思います。

いじれば大変面白い人なのに。でもあんなに怒っていたら、近づけないよなぁ旦那さんも。昔からですがよりを戻した今もあまり口をきかない姉の代わりに旦那さんの日々の心境なども聞きながら、母と姉と生きてくれていることに感謝を伝えました。

するととても寂しそうに「追い出されたら、カナダに行くから良いんだよ、、、」とボソッとつぶやいた義兄。追い出されたら、実家に帰りなさいな。あなたには帰る実家がまだあるじゃないか、とツッコミ損ねたのが今回の帰国での一番の心残りです。

 

とにもかくにも、何を食べても美味しい、そして食べ物ごとにいろんな感情や感傷が渦巻いて「あれもこれも食べなければ!」と食べ続けたので今回も大変シシオの付いた帰省となりました。

 

そして今回初めて、私も旦那氏も「いつか日本に帰りたいかも」と思う心境の変化がありました。年月が変えたのか、はたまた加齢が何かを変えるのか。カナダに来てからこれまで一度も思ったことのない感情です。年をとるのも悪くない。いやぁ本当に、悪くない。

 

カナダに帰国する日、旦那氏は実家に帰ってから12キロ太りプチ鬱になって羽田空港に現れました。ポッチャリと肉の付いた顔にぬいぐるみみたいに陥没した丸い黒目をしてやってきた旦那氏。見た瞬間にわかりました。やっぱり今じゃないんだよな日本で暮らせるのは、と。今はまだ旅行や一時帰国がいいとこで、生活するのは今じゃない。もしも日本に帰るなら、その時は準備を整えてからベストな形でベストなタイミングで導かれるだろうと、なんとなく楽しみに思うのでした。まだまだ日本では家族などいろいろなものにエネルギーを食べられてしまう旦那氏と私にとって、そういう理由があってなぜか海外に送られて暮らしているんだなぁということもしみじみ理解しました。

帰省する前はカナダにいろいろ不満がありましたが、ここで生きている・生かされている意味をわかった気がしました。ありがたく、今を生きます。

 

そして。

今回の帰国で私がとても気になっていたのは父のことですが、日本に到着した翌日に祖母のお墓まいり用のお花を買うため実家の近くのスーパーに買い物に行った時のことです。駐車場の片隅にどこででも見かける、そして父も乗っている一台の軽トラを発見しました。どうにもその軽トラが気になった私は、その車から少し離れたところに停めた母の車の中で一緒に話していた母と旦那氏に「あれは父のではないか?」とやや本気で、少し冗談のつもりで言いました。二人は否定しましたが、やがて動き出したその軽トラがこちらの方向に向かって走り始めるやいなや「あ!父だ!」とみんなで大騒ぎ。咄嗟のことで助手席に座っていた旦那氏は運転席にいた母に隠れるように言い自分は横を向いて顔を見せないようにし、後部座席にいた私は旦那氏の背もたれの横からしっかりと念願の父の姿を見ることが出来ました。孤独に苦しんでいたら可哀想だなとそればかりが頭によぎった父の顔は、なんとも晴れ晴れとした表情で憑き物が落ちたかのようでした。母にはとても言えませんが、そんな父の姿を見て「離婚はお互いにとって、積年の恨みと怨念を解消したのではないか」としみじみ旦那氏と話しました。何にせよ、すっきりとした父の姿を見ることが出来て本当に本当に良かった。私の肩からも心からも、憑き物が落ちたような軽さを感じ日本旅行を楽しむことが出来ました。それがたとえあの時一瞬の父の姿だったとしても、きっとご先祖様が見せてくれたサインなのだと思っています。

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無事にカナダの自宅に戻ってくると、愛猫ファイブの子猫トリオが「帰って来たの!?捨てられたと思ったよ!!!」と全身全霊で訴えてきた姿がなんとも愛しい限りでした。帰ってこれる場所があって、迎えてくれた家族ニャンズがいて、ありがたいなぁと喜びを感じたのでした。写真はすっかり日常に戻ったトリオニャンズです。前よりもさらに甘えるようになったかな。

 

いい旅でした。

 

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私はあなたのフィロソフィーが好きです

私は昔からあまり人と合わず、というか複数人の集まる場所だとまったく意味がわからず、3人以上で集まると気が散って落ち込むという感じでやってきました。

2人なら、相手の気持ちやその背景にあるいろいろな感情や感覚に寄り添えますが、3人から増えるともう何が何やら。3人以上の人間関係のバランスという「場の流れとお互いの立場の牽制、推しはかり」みたいなものが絡んでくると気が散り、各々の体裁などに嫌気がさしてしまうという感じでした。

私はものすごく単純なのだと思います。そして「他人の気持ち」というのがよくわかりません。

人の痛みはわかると思っていますが、見栄・表向き・一応そう言っておかないと、、などのごく普通の会話の潤滑剤のようなクッションのようなオブラートのような、そういうものが苦手です。

決して会話のたびにグサグサ刺しているわけではありませんが、そういう会話の潤滑剤で溢れてくると、会話自体の意味が薄まる気がしてその集まり自体に興味がないというか、まぁそういう話をする時間が「これ何の時間?」みたいに思えて私はあまり好きではなく今まできました。

 

おそらく幼少期の父と母の力関係から、人間関係は「親分子分」という図式であると認識していたと思われ、幼稚園では「私は親分、他の友達は子分」という恐ろしい設定で付き合っていて、それを担当の先生が家まで相談しにくるということがありました。

今思えば、あれは当時の家庭環境を物語っていたのだなと思えますが、それを冷静に振り返り始めたのは最近のことのように思います。

 

人との距離感が、ちょっとわからないのかなと思います。

そしてなんというか、時間潰しのような付き合いが、苦手なんです。

 

 そして、他の大勢の人が「これ良いよね〜」ということの大半がちょっとよくわかりません。なので流行りやそういうものにはまったく興味がなく、同じテンションで会話を合わせるようなことが非常に苦手です。

そう、「会話を合わせる」というのは、私には非常に苦しい価値観のすり合わせなのです。

かといって人類みな嫌いかというとそうでもないです。

他の大勢の人が嫌うような個性のある人は結構好きであり、みんなが敬遠したり影で笑ったりする人達と仲良くするのは得意です。

もちろん、本当に嫌われるべくして嫌われているような意地の悪い人などは私もなるべく関わらないように努めますが、そうではなく、暗い・何考えてるかわからない・イケてないと他の人達に思われる人達は、私にはまったく理解しやすく接しやすいのです。

 

なぜでしょう。

なぜなんでしょう。

 

色があるからでしょうか。

自分が「大勢の輪」という中に入りづらいからでしょうか。

 

人数が集まると人の意図は違う形に走りやすくなり、それが危険だなぁと思います。

「たくさん同じ思想の人がいる。だから我々は正しい」みたいな。

そういう雰囲気、好きではないです。

非常に危ないです。

 

でも人は流されやすいから、大勢でいた方が安心するのもわかる。

でも私は出来ないなー。

完全孤立では仕事も回らないので困りますが、お局達の派閥闘争に巻き込まれるのもご免で。

人が集まって「好まない者」を叩くのは暴力的でダメです。

私には私の正義感があって、賛同もしない人の動きに対して「数のうちに入れ」みたいな誘いにはのれないんだなぁ。

私には私の意思があって、私が誰を好きでいるかは私にしか決められないのです。

私にあの人やその人を嫌えという、強要をするのはやめてください。

 

あなたがその人を嫌うのに、そこにあなたのフィロソフィーはありますか?

 

かたや孤軍奮闘していたり、そういうものには入らないながらも人間関係のやり取りはしながら普通に仕事をしている人達も少数ながらに存在して。

 

私はあなたのその「関わるまい」という意志が好きです。

周りの人と仲良くしても、決して一緒になって必要以上に叩かない・敵意を見せない、あなたのその姿勢が好きです。

 

私は大勢で連むのが苦手です。だってまったく理解が出来ないから。

「楽しいから集まろう」というのもちょっとよくわからないのですが、それ以上に「徒党を組んで、押しやろう」というその意図が嫌いです。

「人と連む」ということ以外で、自分の気持ちを冷静に伝えてみて欲しいなぁ。本当に伝える必要のあるものならば。

「人数多い方が優位じゃ」みたいな愚かな振る舞いをするその他大勢の一人達に、嫌悪感を抱くなぁ。

本当に正しいと思うなら、一人でやったら。

 

先日からそういう、その他大勢の人達の闘争を見聞きしながら、悶々と何かを考えていましたら、ある日の通勤途中にピカッと何かが開けた感じがしました。

私は「その他大勢の人達」が苦手なのでそんなに友達がいませんが、友達であろうとなかろうと「私が好意を抱く人達」にはみんな共通点があることにようやく気付きました。

大勢の集団にいつもずっと入ってこれなかったので、「入れない自分」を足らない、欠けてる、おかしい、とそこに標準ばかりを合わせて落ち込んできましたが、だって嫌いなものは嫌いだし、自分の意思は自分の判断でしか変えられないし、同意も出来ないものに「それイイね」とか出来ないよってことでそれはそれでおいておき、そんなことより何より私がこれまで好きだった人達はみな、その人なりのフィロソフィーを生きている人だったことにピカーンときたので非常にすっきりした、ということなのです。

 

あー、すっきりした、私の悶々感。

一人だろうと大勢だろうと。

私はあなたのそのフィロソフィーが好きなんです。

 

 自分の好きなものがまた一つわかりました。

 

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ようやく2月が終わる

こちらは今はまだ2月28日です。

カレンダーを見ながら、ようやく2月が終わるとホッとしています。

 

今年の2月は、1月に母が無事に日本に帰り、その後の精神的な疲れからリカバリーをするためだけにあるようなものだと始めから思っていました。ようやくその期間が終わってくれて嬉しく思います。

毎年2月になるとどーんと落ちたりするので、なおさら駆け足で過ぎ去る2月は私にはありがたいです。

 

昨年の12月半ばから今年の1月半ばまで母がこちらに滞在しましたが、その間いろいろなことを感じ、悲しくなったり古い感情を手放したりしていました。

親の離婚とともに、私の人生にも「変わったもの」や「終了したもの」が想像していたものと少し違う感覚で細々とあり、「あぁ、そうか。これももう失くなるのだな」と思うことが多々あり。

もともとウマく機能していなかった家族でも、失くなれば失くなるでそれなりに不便に思うことなどもあり。母が滞在していた間に今後の予定などを話し合うなかで、「父親不在の不便さ」みたいなものも時々出てきたりして、居たら迷惑でしかない人なのに不在だと面倒なポジションというか、まともな「父」というキャラクターだったらどんなにこの人生ゲームは楽にまわるのだろうかと考えたりもしました。

 

離婚の書類手続き面でのドタバタは、最後の最後で気づいた「車の名義」でした。

父は自動車整備士だったので、今まで我が家の車関係は全部父がやっており、、。

無事に引越しを終え一件落着と思っていたのに、日本への帰国をあと一週間に控えた母が「車の保険を更新しないといけない」と言いだしたのがきっかけでした。

私が保険更新に必要な書類をググっていると、嫌な感じの情報が目に入ってくるではないですか。まさかと思い、ものすごく嫌な予感はしておりましたが母に確認します。

「車の名義って、まさか父ではないですよね、、」

するとさらっと母が悪びれもなく答えるわけです。

「そうだよ。あの人が勝手に買ってきたんだよ、私の留守中に!」と語尾がややキレてます。

いや、キレられてもね。

しかも保険の有効期限は母が帰国してから約一週間で切れるというギリギリな状態で、まぁなんというか、よくこんな状態で来たなというか。

慌ててそのことを姉に連絡し、今度は姉が日本でキレております。

「あれだけ言ったのに!!!」と。まぁそうですね。お怒りごもっとも。

そもそも母に生きている間の離婚をすすめたかった理由の一つに、「父の借金を一切受けない」というのがありました。どちらが先に逝っても、母のお金がギャンブルに流れるか、借金が全て私たちにやってくるかのどちらかのようだったので、出来ればそのどちらも阻止したく、せめて戸籍上の他人に戻れる母は是が非でも籍を抜いておきましょうというのが私と姉の目的でした。なので、母が父名義の車を所持したまま父が逝くなんてことがあったらば、という惨事を想像して私も姉もワーギャーとなったのでした。

車は帰国後に無事に届けてきたそうです。もちろん父との接触を避け、車泥棒ならぬ速攻の置き逃げだったようですが。なんでしょう、この珍家族。

 

今回の母の滞在で、私のなかで大きく変わったもののなかに「母への認識」というのがあります。離婚のショックがあるかどうかは定かではありませんが、そしてその影響の方が8割以上を占めていたのかもしれませんが、見事なまでの思考能力の完全停止と、見事なまでの幼児返りに、このままボケていく母の姿を見た気がしました。

母はもともと自発的な人ではないように思います。そしてこの40年強の暴君の支配下生活により「自分で選ぶ」や「自分で責任を取る」という感じの意思はことごとく叩かれ潰されてきたのだと思います。

私はこれまで、出来ることなら将来的には母の面倒をみたいとずっと思っていました。今は離れているので現実的ではないですが、願望としてずっと心にありました。

が、今回の滞在でそれはないなと思うに至りました。

母はずっと支配されていた暴君父の代わりに、「自分のことを全部決めてくれて、そしてやってくれる人」を求めており、近くに居てしまうと私がその役に適任なのであり、結果イライラして私がヒステリーを起こすという悲劇、、というかよもや惨劇になってしまい、本人は至って無邪気に気づいていないフリをし続けるという、私が予想していた「常人が離婚をしたらその後きっとこんな感じになるよね」という姿をはるかにブッチ切っておいでになりました。

そして心底思い知らされます。我が出生の家族に常人などおらんやないかい、ということを。

母は今回の滞在中、これまでで史上最悪の幼児返りぶりでした。70の婆さんスーパーでカートを暴走しめっちゃ危ない、とか、立ち止まるといつも距離が異常に近い、とか、なんならあれです、あの、幽霊とか亡霊とかそっちの類です。完全に憑依されてました、私が。

私は「幼児返り」と言っていますが、調べればいろんなところでこういう症状名というか診断名というかが出てくるような出てきたような。

結婚だけではないはずです、この母の生き様は。結婚して父が暴君になる前から、つまりは暴君の支配下におさまる前から、絶対母は「人に世話されたい」という星の元で生まれてきたと思います。なんせ70年前の「初孫」です。どんだけ世話されてきたんでしょう。(ちなみに「私は初孫だったから」が母の口癖です。恐怖しか覚えません)

そして恐ろしいことに、そのスーパーでの母の様子を姉に伝えると「それ、まったく孫と一緒」とのこと。もっと怖いわ。奇跡の63歳差の同キャラ?

わかりませんが。子供のいない私にとっては、この事実はホラーでしかありません。

 

私が日がなヒステリックになっていく姿をみて、旦那が言います。

「同居は無理だね」

同感です。

今回の滞在が史上最悪だったことには二つの理由があったと思っています。

1つは、母が離婚後のショックの過程だったこと。(多分)(本人は無自覚っぽい)

2つ目は、「母が無事にあの家を出れた」という「もうあの危険な場所に母を帰さなくて良い」という絶対的な安全感。

この2つ目が、私のこれまでの母への想いも一新させました。

今まで私は家族の中での私の役割として、「不遇な環境の母を、救ってあげたい。助けてあげたい」ということだけが頭と心の底にあり、「絶対的な危機感」がずっとそこにはありました。

でももうそこに帰らなくて良い。今回で母は本当に「いつキレるかわからない人」の呪いのない場所に安全に暮らしていられるようになった、この「日常生活が危険」という幼い頃からの呪いから私自身も解放されることになったというのが母への見方の変化になったと感じました。

そして、「私は母の命のガード。守らなきゃ」という自分の役目を終えたとしみじみ実感しました。

母と姉は、これで大丈夫。ここからはお互い自分達でやっていくだけ。

もう、母は大丈夫。

なので面倒はみません。母の件はこれで終わり。終了。

 だから離れているんだな、と本当に、思うことがあります。

 私は家族に全てを注いでしまうし、自分をすぐに殺してしまうから、私が私の人生を生きるならそれが出来る場所にいないといけない。

今回の件は、本当に、母も姉も私も、お互いの40年間にお疲れ様。よくやった。

 

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書類整理とシュレッダー

いよいよ12月です。

来週には母がやってくるので、ワクワク。

いつも遊べるお友達がいないので、友達のような母がやってくるのはとても楽しみなのです。どこへランチに行こう〜とか、何して遊ぼう〜とか、何買おう〜とか。

現在、カナダポストは部分的にストライキをしているとのことで、先日母に送った封書がなかなか届かずに非常に心配していたのですが、昨日ようやく到着したとのことで、一安心。

というのも、入国審査の際のやりとりは母にとってとてもストレスになるので、その際に審査官に提出する旦那からの英文レターはとても心強いのです。無事に届いて良かった。

 

さて、冬になると私の働く職場は暇になり、休みが増えたりします。私は休みになると何かしら家の中のものを捨てて片付けたいという気持ちになり、部屋ごとや引き出しごとに断捨離を敢行するのですが、先月末から取り組んだのはカナダに住み始めてから保管し続けていた「12年分の重要書類」です。

インターネットや携帯電話などの請求書や各種銀行からの明細なども全てとっておいたのですが、もう数年前に解約している会社のものも全てとってあったりと、まぁどうしても紙類は増えていき、専用のコンテナもいっぱいになってしまいますよね。

カナダは基本確定申告を個人でするようなので、その書類も一体何年とっておかなければならないのか?という感じで、申告時に会計士からもらう最終の書類と、そのために準備して持って行ったその年の我が家の収支の全ての書類とを一緒にまとめて保管していました。

なので、今回はその書類の中から、確定申告のために準備した中のもう捨てても大丈夫な書類と銀行口座等のもう必要ない書類を全てシュレッドすることにしました。

 

その中でも、以前の職場の給与明細が大量に出てきてちょっと面白かったです。今の職場のお給料は自動振り込みで、金額や労働時間等の明細はお給料管理会社のサイトにログインすれば確認出来るようになっていますが、以前は毎回紙で明細をもらっており、最初に働いた職場で「給与明細は確定申告に持っていく方が良い」と言われたので(実際にはT4という書類をもらうので、それを持っていくだけで大丈夫なのですが)それ以来ずっと最近の自動振り込みに変わるまでの分の明細書が手元にあったのですね。

我が家のシュレッダーは小型で一回の使用に4分間くらいしかパワーが持たず、全書類を処分するのに日数が要りましたが、本日ようやく完了しました。書類の置いてあった場所と私の心が、ようやくすっきりしました。

 

書類の中に7・8年前の私と旦那の給与明細を見つけて、あらためて自分たちの軌跡をしみじみと振り返りました。

移民する前後の日本食レストランでのお給料と、移民後にカナダの会社で働いた金額、それからカレッジに行った後で働き始めた今の職場でのお給料の金額の比は1:2:3。

冗談みたいに、ジャパレスは低いのです。

そしてこれは移民者や留学生などが働く「カナダ以外の国籍のレストランとビジネスのお給料&待遇あるある」であるように思います。

 

この時代に、治外法権かよ。

就労中は、「海外だし、自分たちは外国人労働者だし、肩身狭いし、英語わかんないし、カナダ政府が相手にしてくれるわけないし、てか外人怖いし」などと思って当時の清貧生活を送っていましたが、労働者の権利てか人権の重みをあらためて感じたのは、カナダの会社で働き始めてからでした。

カナダ人達の、権利の主張の仕方は本当にスゴイ。

慣れるまでは本当に、本当にカルチャーショックでした。

大きい声では言えない、いや言いたくありませんが、私たち日本人そしてアジア人達は「一生懸命働ク。文句言ワナイ。言ッタラダメヨ。最低賃金?当タリ前ヨ。最低賃金以下?当然ヨ。休憩?何ソレ?仕事アルダケ有難イデショ?チップ?マネジメント二献上デショ。当然デショ。」というのを押し付けられるというか、受け入れるというか。

カナダ以外の国籍というか、主にアジア人が経営する会社はどの国も同じような内容だとみな口を揃えて言います。オイタワシヤ。

田舎だからなのか。結局異国に来ても、田舎と都会の差なのか?

少なくとも私たちが住む街とその近隣では、残念ながらアジア人経営のお店や会社はあまり良い話を聞きません。うーん、、、。

結論:海外在住中の方は、せっかくですから勇気を出してその国の法律に則ったその国の会社に働いて、しっかりと人権と労働者の権利を得ましょう。

 

書類整理から話が逸れてしまいましたが、この移民者あるある、克服したほうが良いように感じます。

日本でスキルアップと転職を繰り返しながら希望の会社やお給料に近づいていくというのと同じことなのかと思うのですが、私も旦那も日本ではそれが出来ませんでした。

出来ないというか、興味がない。それをして、就きたい職種も仕事もない。

ですが、こちらでの生活ではそうも言ってられず。

移民でというか移住で最も驚いたのが、冗談ではなく「居場所がない」という感覚。

ワークビザではその期間が終わったらこの国に居られない(観光ビザへの延長は除く)し、移民しても外国で路頭に迷うわけには絶対にいかない、という感覚。

自分達の居場所を確保するために、居る権利を取得するためにビザが必要であり、今後の衣食住を守って生活を発展していけるだけの経済力がないといけない。

日本に居た頃には想像もしたことがなかった「ビザがないから居られないよ」という危機感。ビザが取れなきゃこの国に居られる資格なし。この恐怖が強すぎて、私の心は鍛え上げられたのです。

 

といっても、移民を言い出したのもカナダが好きだと言い出したのも全て旦那でしたので、当初は「あんた、気張りや」みたいな完全に他人事な姿勢で計画を立ててきたのですが、次第に気づくわけです。「やばい。この人任せだと、やばいで」と。

店員に何かを尋ねるときも、お金のことを聞くときも、お金のやり取りをするときも、銀行でやり取りするときも、「お金に関することと、各種制度は知っておかないと」と。

そして私はカナダに来てからというもの、ある医療検査に引っかかり続けてきましたので、「怖いけど検査に一人で行けるようにならないといけない」や、「医療も各種サービスも、旦那が留守でも自分でやれるようにならなければいけない」と思うようになりました。

イヤイヤですが必要に駆られて、英語に向かっていかなければならなくなりました。

カナダ一年目に滞在したストラットフォードで、何かの技術専門学校を見つけました。当時、旦那と自転車をキコキコしながら食料品の買い出しに行く途中で必ず目に入る学校でした。自分がカナダ社会で働く気などさらさらなく、働いている姿など想像さえ出来ませんでしたが、よく「今度人生やり直すなら、絶対技術職に就くべきだ」と旦那に言っていました。

言語が違う場所に来て初めて、自分の知ってる言語や経験じゃ何の役にも立たないと感じたからでした。いい歳した大人が、英語を話せないというだけで幼稚園児と同じてかそれ以下か、と。

その国の仕組みを何も知らず、医療や福祉や学校や保険など、職業や会社や、銀行で口座が作れるのかどうかさえも知らず。特に私は半年で帰るつもりだったので、まったく予想もしていなかった海外移住の道でした。

仮にあの時英語が話せても、私の日本での学歴や職歴はここではまったく使えず、完全に一からのやり直しをすることになったわけですが。

あの経験は、大事だったなと思います。

居場所のなさの不安と、実際生きていかなければならないこのサバイバルな現実は私をとても強くしてくれました。

今の町に引っ越しジャパレスで働きながらもう少し英語力を付けるためにと語学学校に2・3ヶ月行きました。でも学費が高く、永遠に上達する気がしない(少なくとも短期上達は見込めない)授業進行に、「これにかけるお金はない」と断念。

私はともかく旦那には確実にカナダの学歴をつけてもらわなければという計画から、ジャパレス清貧中に出来るだけのお金を貯め、移民権を取得後にまずは旦那をカレッジに送り込むことに成功します。カナダ人の生徒と海外からの留学生では学費が違うので、我が家は是が非でも移民をしてからの就学にしたかったので、これは大変良かったです。

さらに、カナダは素晴らしい国で移民者に向けた無料のカレッジプログラムがあることを知り、まったく想像もしていなかったですが、私もカレッジで英語と諸々を勉強出来ることになりました。たった一年間だからと、ビビりながらも何とか通いきり、修了。

でもそこで気付きます。自分が内向的である以上、英語力だけで就ける仕事は無理だぞ、と。なのでここであらためて、あの日のストラットフォードで感じたことが自分に返ってくるわけです。

 「技術職だ。英語力の欠如は、何かしらの技術力でまかなうべきだな」と。

無料の一般プログラムの授業の中で、カナダの仕事を調べるというのがあり、私は以前の仕事である介護職について調べたのですが、お金は良いけど仕事がキツイ。そして同じ仕事はしたくない。

ということで、化粧は嫌いだけど一念発起して美容科に行くことに決めました。

私はずっと「セラピスト」になりたかったので、人に触れ癒す手伝いをする今の仕事内容はとても気に入っています。

 でもいかんせん同僚がみな浮世離れした人たちばかりで、正直最近キツイ。

田舎のカナダ人なんてみんな欲の話しかしない。性欲、酒欲、ドラッグ欲、そしてまた性欲。あぁ、うんざりだ。

 

でもお金は最高に良い。今までやった仕事の中では格別に効率良くお金を稼げます。

なので今は模索中。お金を稼げる間に、次の道を探さなくては。

早めの脱サラを目指して、いろいろ試してみようと思います。

好きな数字の勉強もしたいし。

ブログももうちょっと力を入れたい。

そう思うとまだやってみたいことが残っているだけ楽しみで良いな、と。

 

 来年はさらに自分に投資して勉強する一年にしたいと思います。

ということで、溜まっていた書類を片付けたら次の習い事をするやる気が出た、という話でした。

 

 

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満月に2通の手紙

今月の初めに、母と姉が無事に実家を出ました。

母は無事に離婚届けも提出し、旧姓に戻りました。

この「無事に」というのを、私はとても心配していました。

引越し当日は、姉が子供達の住んでいるアパートの引越し作業も同時にしなければならずとてもバタついたようで、引越し完了の連絡が私のところに来なかったため、「あ、これは死んだ。修羅場だ。流血だったんだ。」と得意の完璧な妄想力で私自身の血の気を引かせて気が気ではありませんでしたが、翌日になって二人の無事を確認することが出来、なんだか一気に世界観が変わったかのような気分を味わいました。

その世界観とは、物心ついた時からずっと頭の片隅にあり続け、五感も六感も使っていつもいつも心配し続けてきた「いつか母親が殺されてしまうのではないか」という恐怖から、「もう母親が家の中で殺される心配がない」という安心とはまた違う「恐怖のない世界」という感覚です。

少なくとも家の中で母が父に殺される心配はなくなったというこの新しい状況が、あらためて「私は父が本当に怖かったんだな」ということを気づかせてくれました。

母が無事に離婚届けを提出し終わり、家を出て、離婚届けを出した旨を父に書き置きで伝えた一連の流れが終わり、「これで父と母は他人に戻ったのだ」というえも言われぬ解放感と、「もうこれで、良い歳した大人二人の面倒(心配)は一切要らないんだろう」というお役御免のような解放感で、このまま知らんぷりしても良いんじゃないかと思ったりしながら、ちょうど3週間が経ちました。

 

その間、姉に引越し祝いを贈ったり母の新しい部屋の収納の相談やらに乗ったり口を挟んだりしながら、あちらもようやく新しい生活に馴染んできたところで、もうすぐ母がカナダにやってくることになっています。

 母のカナダ入国にあたり、今回はパスポートを作り直して名前も変わったため新しくeTAの申請をし直したのですが、当人はパスポートの作り直しの申請までで既にキャパ超えだったので、代わりに旦那がこちらで母のeTAを申請してあげることになりました。

新しく作ったエアカナダのポイントカード、eTA承認のEメールのコピー、入国審査官に見せるための旦那からの手紙、この3点を送るため母宛の封書を用意しました。

住所は新居、名前は旧姓。新しい生活を送るこれまでとはまったく別の人のような母への宛先と宛名を書きながら、「これにも慣れていくんだろうな」と思ったり。

 

かたや、どんな風に過ごしているのかまったくわからない父へ、今後のことを相談したいという旨の手紙を書きました。

何度も何度も書き直し、結局、手書きではどうしても伝えるべきことが書けなかったので、最終的にワードで打ったものをプリントすることにしました。

手書きじゃないけど、娘の気持ちが伝わることを祈って。

父の対応次第では、これが最後になるやりとりです。何度もためらいながらも、やはり伝えるべきことは伝えておかなければと誠心誠意、心を込めて書きました。

宛先は私がこれまでずっと使ってきた住所、宛名は私が今まで見てきた「働いていた父」の名前。定年して酒で頭がやられてしまった方ではない、人の名前。私の中では、その名前。

 

郵便局の簡易オフィスが入っている近所のドラッグストアーに、母への手紙と父への手紙を出しに行きました。満月の夜に、2通の手紙。それぞれに違う宛先のついた、両親への手紙。

まさかこんな遠くの地へ来て、こんなに綺麗な満月の日に、ようやく無事に離婚した母親と父親への2通の手紙を送る日が来るとは。

満月はリリース、手放し、解放。

父よ母よ、出来るだけ幸せに生きてください。今までありがとうございました。

43年間の結婚生活、お疲れ様でした。

 

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