自分の居場所【続・仕事編】

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お腹が空いたので、煎餅食べながら。(ボリボリ)

先日のこと。旦那が働いているホテルで、一人の日本人女性が体調不良で倒れてしまって。

丁度その日はオンタリオの消防隊員たちがこぞってそのホテルで会議をしている最中で。その方は、その日丁度そこに居合わせた消防隊員たちに素早い処置を受け、ご無事に日本に帰られました。(お大事に)

そしてその数日後、ご丁寧にその方のお姉様よりとても高級な手作りお煎餅と思われるものが3箱も届けられました。日本の人って、本当に礼儀正しくて丁寧ですね。感動。

 

ということで、【自分の居場所 仕事編】の続き。

 

rainbowworld.hatenablog.comカナダのジャパレスで働くということが、どうしてもきつかった日々に思い始めたこと。「いつか絶対にカナダ社会に出てやる」

これ、もともと持ってろよって感じですが。みんながみんな「英語話せる・外人とやりあえる・だから私は外国に住む」という状態で海外に行ってるわけでもないのですよね。いろいろな論は置いておいて、私の場合はゼロからのスタートだったわけです。旅行でも、カナダに来るとは夢にも思ってなかった。

 

でもそんなものですよね。数年前の自分が、今の自分を事細かく想像できていたなんてこと、あるかしら。ないなー。

ちなみに、腰を痛めて前職の施設を辞めた後、私は実家に帰り約2年間の療養をさせてもらうのですが。いろんな意味でこれも地獄でしたが、その時は「二度と就職できないだろう。まっとうな仕事には就けないだろう。結婚も子供も無理だろう。親(生活に必要な食料と物と居場所を提供してくれる人)が死んだら、私もその時に死ぬしかないだろう」と本気で思ってました。あのまま自分が癒えなかったら、そうなっていたでしょう。

でも人は癒えるし、癒えるために人生をもって生まれてきたと思うのです。

 

場面をカナダに戻します。

とにかく、ジャパレスでも勤務がいよいよもってきつくなった時、転機も訪れます。

当時通っていたカレッジの1年コースの終わりに、「やらなきゃダメよ!やるぜ、無理やり就職活動!」という課題が出ます。そもそもこのプログラムは『英語が話せないから社会に出るのを怖がっている移民者の背中を押す』というプログラムだったので、私を含めた多くの移民者の悩みである【恐れ】を取り除くためにあらゆることを勉強させ、やらせるという画期的な内容でした。(ちなみに学費は無料です。移民者を応援するために、カナダ政府が援助してくれています。受講前に簡単な面接試験あり)

 

その時に、「いつか夢見ていたジャパン完全脱却」の予行練習をすることになるのですが。結局、私にとってはそれが「一発ぶっつけ本番!就職大作戦」になりました。ハウスキーピングを選んだのも、体力勝負でしょ?なんとかなるでしょと思い。どうせ夢なんだから、と家から車で20分ほどの距離にある小さくて可愛い町の有名な高級ホテル(夢は大きく見た方が良い)に絶対落ちるという確信をもってレジュメを送りました。

(このホテルを選んだ理由には、いつか書きたいと思っている「カナダで起こったシンクロニシティ」の一つになるある知人の一言がきっかけにあるのですが、それはまたいつか機会がある時に)

「絶対叶うわけがない」と思い切れる方が、実は叶うとわかっていることだったりしますよね。

 

レジュメを送って数日後、ものすごい速さで連絡をもらい面接に呼ばれ、2次面接に行き、入社が決定。その時の人事担当は中国出身の移民歴30年以上の方でした。「日本人で雇うのはあんたが初めてだ。日本人は綺麗好きだから、良い仕事してくれるでしょう。頼むわよ。でもあんたの体じゃ通常のハウスキーピングは無理だね!ロビーアテンダントってのがあるから、そっちに配属ね!ガッハッハ!」と、採用されました。このパワフルなオバチャマのおかげで、今の私があるわけです。この人が私の新しい人生の「引き上げ役」を演じてくれたのですね。もう定年されましたが。感謝。

 

さて、そこで初めて知ることになる「ロビーアテンダント」という職種。何それ?大丈夫?私出来る?英語使わないよね?????

どうにも受けた説明の限りでは、ロビー(公共のエリア)をうろうろして客と接すると言われた感じがするのだが。英語苦手だからハウスキーピングを希望したんだが。

が、この思いもしなかった配属のおかげで、人生がちょっと楽しくなる。

 

ロビーという仕事は、基本的にホテルの中のあらゆる「公」の場所を掃除する仕事で、ダイニングから会議室、披露宴をするボールルームにトイレにプールに玄関にその他もろもろ。このホテルは非常に綺麗なビクトリアンスタイルのホテルだったので、どこの会議室もおとぎ話のような美しさ。トイレは一体100万円を超えるという特殊な焼き物の可愛い便座やシンク。玄関エリアも歴史を感じる重厚な感じ。まぁ何を見ても美しい。

仕事内容はきついけど、決して難しいわけではないので、あとは自分の気持ち次第。お給料も悪くはないし、何よりここは外国だから、何をしたって特別な感じがして、楽しい。滅多にない経験、と感じられる。

 

そしてこの町、実は「お金持ちが住む町」だということを後で知る。なので町が上品。そしてそのホテルで働く人たちもその町出身だったりするので、従業員のみんながとても良い人達だった。

英語のつたない私が、髪抜けるんじゃないだろうかというほど緊張して出勤すると、勤続30年近いソムリエに一言「おい、お前のメガネ良いな。お前どこの国出身だ。日本か?じゃぁそのメガネは日本製か?クール」と声をかけられてから、あっという間に気に入ってもらうことになる。するとそのソムリエが次々と同僚を紹介してくれ、たちまちここでもウェルカムしてもらう。

(この感覚、どこかであったような、、。あ、以前居た町だ。)

以前の町とこの町は、人口も規模も経済レベルもとてもよく似ていることを後で知りました。どうりでウェルカムしてくれる良い人たちばかりだ。

そしてロビーという仕事はホテルのどこにでも顔を出す仕事ということで、本来ならハウスキーピングの人としか関わらない仕事のはずだったのが、フロントデスクからキッチン、バンケットやメンテナンスやレストランまでほぼ全ての従業員とやりとりをしながら知り合いになることに。

会う人会う人、とても笑顔で私を迎えてくれます。いつもあたたかく、声を掛け合う。私のする仕事は感謝され、私もいつも笑顔で過ごすことが出来ます。 (ここ、私の居場所みたい。仕事に行くのが、毎日嬉しい。)

人事のオバチャマは、本当に神の仕事をしてくれました。

この仕事じゃなかったら、こんなに多くの人にウェルカムされなかった。部屋を掃除しているだけじゃ、こんなに多くのカナダ人と会わなかった。件のジャパレスでは私はクソババァで、私もとっても居心地が悪くて、本当に嫌な毎日だったのに、『私』は同じ『私』なのに、ここにいるととても自然で、気持ちが良い。

あぁ、日本にまつわる全ての環境に、合わなかったんだな、私。

でも、だから国を出てるのでしょう。

とにかく今まで感じたことのない、愛されてる感。そして少しずつ、自分も自分が好きになる。準備ができてくる。

 

その後、日本人が数人この会社で働くようになったと聞かされます。この時点ではその日本人達に会うのがとても嫌で、恐ろしい。またあの悲劇がと思うと、とても会いたくない。

が、そんなある日、いつも通りにあらゆるところで仕事をしていたら、ついに一人の日本人に会います。その人が、後に私を彼女の部署に引き入れてくれるきっかけとなる次のキーパーソン。あんなにも避けてたのに、いざ会うととても好い人で。なんていうか、とても常識的な好い人。こういう人と話がしたかった。(涙)同じ巳年ということで?すぐに意気投合。そんなものですね。まさに、合う場所で、会うべきタイミングで、会うべき人に出会う。いつも最善のことが起こっています。ジャパの悲劇は、あれがあの時の最善だっただけのこと。おかげでビザ取れましたから。それが最高で最善のことでしたから。

 

 さて、そのキーパーソン。私の働きぶりと噂をいろんな人から耳にしていたとのことで、とても善意にしてくれます。私の仕事は彼女の仕事を助けることでもあったので、なおさら善意にしてくれます。そして私が美容系プログラムを出ていることを知り、とても熱く彼女の部署へ誘ってくれることに。

もちろんここでも私は臆病なので、何度も誘われては何度も断ります。

「無理無理。絶対無理。出来っこない。英語で接客、サービス、施術、対応、、、。怖くて吐きます。」

そのために学校行ったけど。自宅でお客さん取り始めたけど。仕事内容とても好きだけど。ホテルで働くには、もっと高い「技術、能力、知識、責任感、英語力、人間力」が求められると思うから。 私には出来ない。出来っこない。

 

来ましたここでも人生の壁。正念場です。闘うか、闘わないか。

またしても、ブルーハーツです。

 

 

後に始めて気づくことですが、私が勝手に想像して作り上げていた【もっと高い技術、能力、知識、責任感、英語力、人間力が求められると思う】というもの、これは完全なる日本社会からの呪縛でした。ずっとそう求められてきたから。そんな気がし続けてきたから。

だけどここはカナダでした。【ザ・イージーゴーイング】な国民性を持つ、素晴らしき国Ohカナダ。

そして私は、ありがたいことに、キングオブクォリティ、日本産なのです。

日本人は素晴らしいと思います。精巧に教育されているし、訓練されている。

私たち日本人が思う「責任感、詳細、能力、知識、技術」そういったもの全ては、日本の外では【ロボット基準】です。ただ、英語が話せないというだけ。日本語以外は話さない、という国で生まれただけです。

私たちが日本で受けた教育等の訓練は、世界基準で「高」もしくは「出来過ぎ」レベルだと本当に思う。私たちの責任感、それは「一国を背負う所存です」という宣誓のようなものです。 だから生き苦しいんです。いろんなもの背負わされ過ぎて。

美しい武士道です。でも私たちは侍じゃない。なんでいつも「切腹覚悟」みたいな心境で、仕事に行ったり学校に行ったりするのでしょう。

 

だから、そんなに気負う必要はなかったんですね。

 時は満ち、準備が整ったと自分で思う気になったので、思い切って今居る部署の門を叩きました。私は無宗教ですが、いつもこの言葉、本当に真実だと思う。

求めよさらば与えられん 叩けよさらば開かれん

 

ちなみに私が無宗教なのは、神の名を知らないからです。

いろんな国のいろんな宗派が、自分の国の(宗派の)神だけが唯一無二だと信じているから、私は今後も無宗教です。

私は神を信じますが、まだ会ったことがありません。自己紹介もしたことない。

だから相手の名前も知りません。知ってるのは一般名称の「神様」ということだけ。でもそれで十分かな、と。だってそこに存在されているのはわかります。

 

とにかく。今一緒に働いている人たちは自分の意思をはっきりともつ気持ちの良い人たちで、一緒に仕事していて楽しいです。不器用なところもあるけど、みんな一生懸命に生きている。ありのままで。

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会社は変わらずに部署移動しただけなので、今でも以前の職場の仲間とは時々会えるし話せます。ここが終着ではないけれど、今居る場所が一番幸せ。

人生の節目節目でいつも思う。【今が一番幸せ】

そう感じられる生き方をしているなら、大丈夫、私は私らしく生きている。

ずいぶん遠くまで来てしまったけれど。辛いところで立ち止まらなければ、きっとたどり着くと信じたい。

人生で一番暗い闇と思う時、その底を思い切り触ったら、ターニングポイントです。現状維持か、上がるかしかない。現状維持でも下がらない。そこから上がる光が必ず見つかると信じて。

今を精一杯生きるしかない。ね。

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 補足:いい大人なので人目を気にして補足させてもらいますと。海外に移民している日本人には大きく2パターンあり、「現地の人と結婚している嫁入り組」と私たちのように「自らの意思で日本を出た組」があるらしい。嫁入り組の大和撫子隊のみなさまは、いたって善良な日本人(が多い)と感じます。きっと気持ちが悪いのは私たちも所属する「自らの意思組」なのかと思われます。出ようとしてる時点で、変わり者だよね。ということで、現地に住む日本人がみな気持ちが悪いわけではなく(ここ重要)、あの時のジャパレスだけが私のカオス前線地だったと思われます。そこのところよろしく。

 

続く⭐︎

 

自分の居場所 【職場・仕事編】

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Q. あなたは『居場所』ありますか?

 

A. ①ある ②ない ③探してる ④ずっと探してる ⑤どこかにあると信じたい ⑥信じる気も失せた

 

私は限りなく⑥でした。

私はこれまでの人生でどこに居ても「自分の居場所がある」と思ったことがありません。これは自分の中にある核の問題で。だからスピリチュアルな本や精神世界の本を読むのですが。

小中学生の頃ジャイ子達にいじめられていた頃は「私が子供だからこんなことに合うんだ。高校に行ったら、きっと新しい仲間が待っていて、もっと素敵な人達がいるはずだ」と信じていました。

ジャイ女子高校に行き、それは叶わないと知り、「きっと田舎だからだ。もっと広い世界に出れば、きっと大人になれば、もっともっと素敵な仲間たちと分かり合える日が来る」と信じていました。

そして縁があり関東を出て、京都の大学に行きます。そこで出会う「西側」の人たちの明るさがとても心地よいと感じます。喋りも快活で、オチをつけるというのがわかりやすい。これってコミュニケーションのポイント押さえてるな、と。そこで初めて外の世界を知り「自分が生まれた場所」との違いが少しずつ認識されるわけですね。

大学は比較的快適。なぜなら「個人」であって良いから。みんなバラバラ、みんな好きなことしてそこで自分を確立させるわけです、4年間もしくはそれ以上を使って。私はまったく華のある大学生活は送りませんでしたが、それなりに子供と大人の境目の時間を「生まれた場所」から離れて過ごして快適です。でもそれは「大勢の中の一人」として埋もれられるから。誰も自分を気にしないし、それも気が楽だったから。

 

卒業間近、就職難と言われる時代に突入していましたが、私はあまり気になりませんでした。そもそもみんなが目指しているような企業や職種に就こうと思ってないからです。最終的には福祉一本と決めており、その頃は「福祉は人助け」だと思っていた私は、「自分の人間性と経験値を高めるため」と一応、一般企業への就職活動もしました。まったく興味のない【就職活動】なのだからせめて【興味のある業界】を選ぼうと思い、福祉と同じく人間生活に必要なものということで『教育と娯楽』を選びました。ということで回るのは「教育関連会社とパチンコ会社」。友人には意味がわからん組み合わせと言われましたが、非常に自分らしい選択でした。そして教育関連はまったく面白くもなく、一次審査・面接で落ちるわけですが、面接官の態度と質問内容が「何様デスカ?」という印象で。なんで人を育てようというはずの教育会社が優秀なロボットを採用する気満々の姿勢で採用試験をやっているのか?がどうにも解せなかったので、腹を立てつつもどうせ落ちてるので結局終了。

パチンコ会社は、逆に人事の人たちが素晴らしかったです。数社受けましたが、どこも最初の段階で合う人事の人たちは丁寧に接してくれました。業界が業界だけに、大卒を採用したいというのもあるのかもしれませんが、いずれにせよこれから社員になろうかという私たちに対して、会社側からは「どうせうち(パチンコ業界)には来てくれないんでしょ」という若干の寂しさみたいなものまで滲み出ていたものの、比較的どの会社もこちらへの対応は人間的で丁寧でした。

そして。内定をいただく旨のお電話をいただき、丁寧にお断りさせていただいたあるパチンコ会社の人事の方は、本当に感じが良くて。結局そういう人を見て、「あの人となら仕事がしてみたい」とか「あの人と同じ場所で働きたい」と思わせるような社員のいる会社に入るべきだと思うわけです。ちなみにその会社の入社試験で出会った他の大学生達も、やっぱり面白い人たちばかりでした。「気取ってなくて一生懸命」結局私はこういう人たちが好きだなと思うにいたるというか。そしてそう感じた同期受験組は、やっぱり最終選考まで一緒に残るわけです。合ってたんですね、会社とも、あの人達とも。

私は他にも「児童施設」「老人施設」そして「障害者施設」の全てを受けました。どれもとても面白そうで、子供かお婆ちゃんか障害かが選べなかったから。(結果的に就職へと導かれた場所はそれら全てが統合されている場所でしたが)なんせ私の頭には「福祉は人助け」しかなかったので、「なぜ助ける対象を選ぶのか?」が自分の中で腑に落ちないというか。みんな好きというか。やってみなければわからないというか。(この時点で普通じゃないな私、と気づくべきでした、、、。)

そして前述の障害者施設へ就職。

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職種が職種なだけに、ここでの同僚はとても素晴らしい人たちが多かったです。特にその施設の職員の半数を占めていた長年勤続している先輩方の人間味といったら本当に素晴らしくて、人に対する思いと愛情とが本当に深い人達でした。出会えて良かったと心から思える人たちに、出会えたわけです。

 

が。仕事内容と、勤務体制がきつい。そして業務方針にも疑問を抱いてしまう。

「これは本当に人助けなんだろうか?本当にこの人たちを助けているのだろうか?この人たちはこれを望んでいるのだろうか?」

などの感情もいろいろあって、ストレスになりました。そして退職。ここでも自分の居場所は見つからなかったけれど、素晴らしい人達に出会えて感謝。

 

 そしてまたいろいろあってカナダへ。

1年目の幼稚園ボランティアは、カナダ人の優しさに感動しました。あの人達は人を排除しよう」とか思ってない。それがすごい。まったく英語も話せなく、コミュニケーションも私が頷く以外はまったくとれないというのに、【超ウェルカム】してくれて、大事なお子さん達の面倒をみさせてくれたことに感謝。

「英語が話せない」ということ以外は、「自分である」ということを卑下しなくて良い。こんなにも不格好(見た目が全然ちがう)で現地の言葉も話せない私をそんなことまったく気にせずにウェルカム。 こんなこと、日本であったかな。

町のみなさんが、とても良い人達でした。日本と中国の違いも、その国がどこにあるのか何なのかさえも知らない町の住人さん達でしたが、それでもこちらをウェルカム。 どんな自分でも「居て良い場所」を初めて知った気がした場所でした。

 

ただ言葉を喋れないので自分がとても居心地が悪い。そして不安。

この居心地の悪さを解消すべく、匍匐前進で生活環境を改善していくことになります。

 

さらに縁あって今居る街へと引っ越します。

ここで数年間働くことになるジャパレスで、これまでの人生で最悪の職場体験をすることになり、のちに勇気を出して「カナダ社会へ出よう」と思うに至るのですが。

もしもあの場所で『居心地良い』と思えてしまっていたら、今居る本当の意味での快適な場所には辿り着いていないわけで。

ちなみに。ワーホリ等では、ジャパレスは最高だと思いますし、オススメの環境です。

(誤解のないようにと思って付け足しましたが、逆に誤解を生むかな、、)

ただ、もちろん会社や店によると思いますが、どうしたってジャパレスで働く日本人はカナダ人扱いされないわけです。(いや、当たり前なんだけど。そうじゃなくて)

どこの他国籍料理屋でも同じようなことが問題になるわけですが、外国人労働者である私達にはカナダ社会にいながらもカナダ人と同等の人権が与えられない風潮があるわけです。(まぁ治外法権でしょうか)労働時間や労働体制や給料形態や、その他もろもろ。そういったことを何も知らずに働かせてもらったわけですが。知らなくてよかった!(叫叫叫)

知ってたら、ビザ取得を諦めていたかも知れませんから。

 

1年間限定と割り切って外国に滞在する方達には、ジャパレスはとても良い情報交換の場所だと思います。カナダ人に関わる機会も、英語でオーダーを取ったり仕事のやりとりしたりする機会もあったりします。期間限定の出会いや同じような境遇の日本人とのふれあいもあります。

 

ただ私はその全てがアウトでした。ホントは書きたくないけど。でも自分の黒歴史を「終わり」にするために、書くっきゃない。

そこで出会った日本人はみんな気持ちが悪かった。そして他の日本食屋の日本人も、みんな気持ちが悪かった。結構な人数に出会いました。ほとんど全員気持ち悪かった。

なぜでしょう?理由はいろいろありますが。そしてもちろん、あちらから見ても私は典型的な「カナダで会うクソばばぁ」だったことは間違いないのですが。

あの場所で過ごした時間は本当に「刑務所ってこんな感じかな」というくらいきつかった。そもそも「ビザ」という問題があるので、自分の精神状態も生活状況も本当に落ち着かないので、そのせいかとは思いますが。なんか「戦場のテロリスト」状態。戦地なのに、どこをテロるのかはわかりませんが。どこもかしこも爆弾だらけじゃん。

自分がこの地で生きてく自信(ここでは「期間限定のビザ」しか持ってないという意味)がない頃だからか、出会う人もみな自信がなかったのでしょうか。「自信がないのにあるふりをして、その隙間を他者を笑って埋めようとする」みたいな人達と出会う。

そしてこの時の環境はビザ取得のため、「自分は決して頑張らないけど他人を引きずり降ろそう」という詐欺師みたいな人達が周りにいたりしました。そんな人達、私は今まで見てきたことがない。

ジャイ子時代からもそうですが、私は『人を笑う人』が嫌いです。笑う人は大抵、自分が頑張ってない。ひがむなら良いけど、笑うのはクソだと思います。

 

人は弱く、みんな弱い。だから辛い。苦しい。でもそれさえも受け入れようとしない奴に笑われる筋合いはない。私は『必死に生きてる必死なババァ』に見えたかもしれないけど、何を成し遂げたわけでもないのに他人を笑う奴らよりはましじゃ。

上部だけ繕って「私、上です」みたいな振る舞いしてる気持ちの悪い人をたくさん見てきました。あぁ、気持ち悪かった。日本では決して見たことのない種類の人達でした。ここだから、日本の外だから見る、異様な光景の一つだったのでしょう。

「外国にいるから、そこで出会う日本人はみな良い仲間」?クソですか。逆に気色悪いわ。

日本を出てわかったことは、「日本人だから」「同じだから」が友達や仲間や「快適な関係」になる理由ではないということ。当たり前だけど、これって案外気づかない。日本に居たら、気づけなかった巧妙な罠の一種だったと私は思う。とにかく、そういうことに「合えない」私たちだからこそ、外に出ているのだと思う。そしてわかってしまったこと。一度出たら、もう二度と帰れない。自分がその中にそぐわないと気づいたので。

そりゃぁ生きづらいはずです。だって生まれた場所が自分に合わないなんて。「合う場所」を探すまでは、決して快適な道ではありません。

 

長くなりすぎたので、一旦終了。

続く⭐︎

 

 

 

臆病者の勇気 人生の流れ【学業編】

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またしても、勤務にて間があいてしまった。

写真は職場からの帰り道をパシャり。このあたりは今が紅葉のピーク。

 

さて、

 

Q. あなたは今の(今までの)仕事が(職場が)、、、

 

A. ①好き ②好きじゃない ③ありえない ④どこも一緒 ⑤未だ見ぬ聖地を探してるところ ⑥その旅はもう終えた

 

勤務が続くと、そちらにばかり気を注いでしまい、こちらが書けない。

というか、勤務に専念せざるを得ない。なぜならば。

 

私は英語が得意ではない。 orz

 

カナダだけなのか、英語圏の外国はみんなそうなのかは知らないけれど、外国に行った日本人あるあるの一つと思うが、一番最初に住み始めた(もしくはその地を訪ねた)時に、「コーヒーの一つも頼めない」という現実が待っている。

これって結構凹みます。

私は一応、日本の大学を出ていて。英語は10年間文法等をみっちり勉強させられてきたはずで。バリバリ文法は頭に入ってると自負していたはずが。

カナダに来て最初の一言だった「センキュー」が通じなかったあの衝撃は今でも忘れていない。いや、忘れてなるものか。トラウマよ。

 

その後英語を話せないまま半年ほど、旦那が当時ボランティアで日本語教師をしていた小学校に隣接する幼稚園で私もボランティアをすることになるのですが、「子供だから」となめていた私にクラスの中でも生意気そうなお子ちゃまが一言、

 

「ドウシテフランス語話シテルノ?」

 

確かにボショボショ言ってるけどね。。。orz   英語じゃ!!(叫)

 

 

そんなこんなでその町を後にし、現在住んでいる場所に引っ越すわけですが。(注:任期が完了したためです。決して英語の問題ではありません。)

現在住んでいる場所は観光地ということもあり、カナダ国内外からもたくさん観光客が訪れる街なので、コーヒーの注文も問題なく出来、ちょっと一安心。ホッ。

(この街では、コーヒーショップの店員さんの耳が英語が第2言語の人達の英語に慣れているため、大概のオーダーが通じるわけです。もちろん店員さんも、いろんな国から来ている人達だったりしますので、なおさら通じます。)

 

でもこのままではマズイ。コーヒーが注文出来ても、カナダのことも英語も何も知らない。カナダで生き残るためには何をするべきか?

 

ということで、一番近くの職業訓練系のカレッジへ入学するのですが。確か最初に英語だけのコースを1年間とったのが35才の時、それを卒業してからいよいよ美容系の専門コースを2年間とったのが36から37才。 きつい。

何がきついって、案外と脳ミソはまだまだバリバリ働くギリギリの年齢だったのですが、【怖い】。 新しい環境に入っていくのも、ましてそれが白人だらけの19や20才の若いお姉ちゃん集団の中であるというのも、彼女達の若者英語が早くてついていけないという不安があるのも、インターナショナルスチューデントに比べて半額以下といっても2年間で100万円分の学費が英語力の足りなさにより途中で落第してそのお金を全部無駄にするかもしれないことも。とにかく【怖い】『失敗するかも知れないこと』が、この年になって本当に怖かったわけです。

ということで入学前にはやはりブルーハーツ

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を聴いて、大泣きしながら自分を奮い起こすわけです。

ホントの瞬間は、マジで怖いんです。

 

で、入学して今までの人生の中でも最強なほどに必死で勉強して、なんとか無事に結構良い成績をとって卒業。 私、頑張りました。

が。その頃はまだ、今のホテルでハウスキーピングの仕事をやっていました。美容系のプログラムに入学する前に、それまで働いていたジャパレスを出て、ここでも勇気を振り絞って「いざカナダ社会へ!」と、職探しをしたところ、夏の間だけでも集中して働いて学費分を貯めようと思ってレジュメを送ったら、今の会社が雇ってくれました。

何社も送ってみましたが、この時は後にも先にもこのホテルだけが唯一そしてすぐに返事をくれました。

カレッジを卒業しても、それでも英語を「話す」のがとても苦手な私は、お客と直接対決しなくてはいけない今の職業には怖くて到底つけないと思っていました。

「あ、無理無理。絶対無理。」

 

こうなることがわかっていたので、旦那には入学する前からあらかじめこう伝えてありました。

「もしも私が無事に卒業出来ても、その後この仕事に就かなくても、学費は自分で払うから『絶対に』かけたお金のことは言わないでください。」と。

そもそも「自宅で細々とサイドビジネスとして出来ること」が最低限の、そして当時かろうじて目指せそうだった自分への最高の目標でした。

 

私が臆病者の内弁慶だからなのか、それとも単に年をとって少し知恵がついたからなのか。新しいことをするのも怖いですが、出来るかどうかもわからないことに挑戦する時に「絶対やります! やってみせます!」なんて、もう言えない。 そんなポジティブさ微塵も出てこない。

 

でも良いんです!それで良いし、それもとても健全だ!

 

どっちにしたって、やるんです。

いじめと一緒。絶対に諦めたくないんです、自分を。

怖いに決まってる、だって傷つくかもしれない。

怖いに決まってる、だって失敗するかもしれない。

怖いよ、だって格好悪いかもしれない。

それでも良いんです。やるっきゃないんです。

 

失敗したらお金はパーですが、そこでやらなきゃもう次の機会はないと思った。

年齢を考えたら、ここで2年を学業に費やすということは「子供」という万が一にあるかもしれないチャンスを失うかもしれない、とも考えました、が。

ではこの2年間、欲しいか欲しくないかもわからない、そして出来るかどうかもわからない「赤ちゃん」という未だ見ぬ神のギフトのために、「年齢的に、子供を持たないといけない」という重たい義務感だけで、自分の人生のチャンスを見送るのか。

年齢がすすめば、それだけ自分の中の勇気もさらに必要になってくる。今年行くのが怖いカレッジに、来年や再来年に行こうと思う日がくるのか。

周囲や家族は「あっちに子供、こっちに子供」と騒いでいる(ように聞こえる)が、今の自分達に子供ができたとして、この先この国でどうなるんだ。どうするんだ。

 

いろんなことを考えてみても、まったく「赤ちゃん」が入ってこられるタイミングではない。てゆーか、この国でちゃんと生きていけるための基盤を築かなければ。

まずは自分と旦那の「生活力」ありき。でないととても子供のことなど考えられるはずがない。私はどうしても、旦那の好きな、そして自分もすっかり好きになってしまった『この国』で、「万が一」のことが起きたとしても私の力で家計を支えられるような仕事力を身につけたかったのです。それが最優先であり、絶対目標。生きねば、この国で。まずは自分達が、生き残らねば。

 

それに。【怖い】時ほど自分に向き合わなければいけない時だと、知っているのです。 泣けるほど怖くて仕方がないこの【挑戦】も、私が私を諦めないための、越えねばならぬ壁なのです。私の人生の、壁。

自分の未来の可能性を、諦めるだけは出来なかった。ならば挑戦するしかないですね。泣きながらでも。

 

決断をするために、想像してみました。

今の自分で

①「赤ちゃんを抱きながらあやす自分。英語力、生活力ともに今のまま。将来は、さらにきついか、現状維持が最高点。」

②もしかしたら新しい自分になって、なりたい自分になって、今は想像すら出来ない世界で生きているかもしれない自分。失敗してるかもしれない、でも何も失わない。挑戦した後の、今と同じ現状か、未だ見ぬさらに素晴らしい未来。想像できないから、無限。」

 

①はなかった。

だって、失敗しても現場維持出来るんだから、挑戦しちゃった方が良いよね。

ということで、挑戦しました。その結果。

 

今ハッピー。あの頃よりも、超ハッピー。

 

めでたし。学業編。

続く⭐︎

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生きる道 

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今回は、前回の記事「シンクロニシティ」の続き。

Q.  あなたにはどうしても会いたい人が、、、

 

A. ①居る ②居ない ③来世でよろしく

 

私がシンクロニシティに魅了されていく前に、読み始めた本があります。

ブライアン・L・ワイス博士の『前世療法』と『魂の伴侶』でした。

 

 

当時私は、重症心身障害児者施設(入所施設)というところで指導員(介護と活動のサポート)をしていました。そして人生の全てのシワがそこに凝縮されたような過酷な日々を過ごしていました。はっきりいって、とてもストレスフルでした。

「仕事内容」が辛かったわけではないと思います。ただちょっと、当時の私には『無理』でした。そしてその無理は完璧なタイミングと方法で私を動かすわけです。

 

今こうして当時よりも少し知恵をつけ、人生に起こる出来事の意味合いが自分なりに少しは理解できるようになってから振り返ると、当時の私はなんていうか、、、『軽装備でチョモランマ向かってる』みたいな危うさ。

生きづらいを通り越して、よもや苦行でしかない日々でした。

 

これは決して「仕事がきつい」ではないのです。その時の仕事は私に気づきをもたらすのに完璧な役割を果たしただけでした。ワイス博士の本に出会った時、私は25歳になっていました。障害者施設に就職してから3年目、腰にくっついている小さな骨に亀裂がみつかり、腰痛で立てなくなりました。結果、休業を強いられリハビリ入院することに。

でもこの亀裂、実は私がその昔「ジャイ子軍団」(詳しくはいじめの記事を)と闘っていた日々についたであろう、「成長期の過酷な運動による軟骨骨折」だそうで。その時は軟骨なので、痛みを感じないのだそう。人によっては、70歳になるまでまったく気づかず高齢者特有の腰痛や持病のオマケで撮ったレントゲンでたまたまその軟骨の亀裂を発覚することもあるほど、それが原因で歩けなくなることはないという程度のもの。でも私はそれをはるか後の25歳で発見することになり、さらに「スーパーで30分の買い物が出来ない」ほどの腰痛に出会うわけです。

 

身体的な原因は、不規則な勤務体制と生活により体に過度の負荷がかかったことですが、人生のタイミングでいうならば「スピリチュアルに突入せよ」という時期だったのでしょう。「悲しい」や「苦しい」だけでは到底その後をやり過ごせない時期に来ていたからです。

 

その施設に就職を決めたのは、当時19歳だった彼が突然死んでしまったからでした。

私が彼に出会ったのは私が21歳の冬の終わり、彼はまだ18歳でした。二輪と同時に受講していた四輪免許の教習で、私の教習所友達である子の付き添いとして遊びに来ていた彼に出会ったのが初めでした。それからずっと良き弟分のように仲良くしていたその彼と付き合い始めた1週間後、私の住んでいたアパートからの帰り道に、彼は帰らぬ人になりました。

 

衝撃。その一言。

 

最後に会っていた日の夜中じゅう、彼は人生の話をしてました。これからどこか遠くに行くのがわかっているような、手を伸ばしても掴めないような。隣で話を聞きながら、どうにも出来ない寂しさを覚えました。虫の知らせ、というか空気は全てを知っている、というか。私は何も言えない、言えないけど言いたい、止められないけどどうしても止めたい、でも出来ない、そんな感覚でした。

「次に会うのはクリスマスだね。」「俺めっちゃ楽しみやわ。」という約束をして、彼は帰っていきました。そしてその日はいつも来ていた二輪ではなく、車でした。車なのに、事故で死んでしまいました。

 

彼の事故や死を通して私はたくさんの「目には見えない何かの力」と、この件から始まるものすごい数の『奇跡』を見ることになります。

見るのだけども、当時の私はまだ、何がなんだかわからない。

わかるのは、「どうにもならない大きな力」があるということだけ。

 

(彼の名誉のために補足しますと、自殺ではありません。私はこの件で「最後に会っていた参考人」として高槻警察署に呼ばれ、事情聴取を受けました。とても穏やかでまっすぐな対応で接してくださったその道のベテラン刑事さんといろんな可能性を検証しましたが、自殺ではないと断定されました。刑事さんにも掴めない「そこにありそうで見えない何か」にお互い首を傾げながら、その件は「若く悲しい事故」ということで収められました。)

 

当時のすべての場面場面が、掛け違えることのできない精巧なパズルのように、すべての現象をつくっていました。何も言えない、手も出せない。私はただそこに関わり、登場して、一緒に時間を過ごしたけれども、その時確かにそこに居て存在していた彼は、霧のように消えてしまいました。

 

臨死体験(NDE-Near Deth Experience)などで言われるような「本人の体験」ではありませんが、私がその時体験したすべてがものすごい感覚でした。

その日から毎日、1年間は毎日泣きました。悲しみの中にあるのだけど、悲しみだけではないいろんなことがわかってきました。

 

その彼が生きている間に、私をバイト先まで迎えに来てくれたことがありました。その時のバイト先が、この障害者施設でした。彼は大阪に住んでおり、私は京都。施設は滋賀にあり、宿泊施設が完備されていたので、大量の荷物を持ち込んで寮生活をしていました。

その最終日、荷物を全て引き上げなければならないので誰か車を持っている人の助けを、、と考えた時に真っ先に思いついたのが、もう免許もあり実家に住んでいて車もある、その時には19歳になっていた弟分の彼でした。(当時の私は大学生で、周りの友達は誰も車なんて持ってなかったので大変助かったわけですね。)

 

その数ヶ月後、彼は亡くなります。亡くなってしまった後で、私はどうにか自分の記憶にある彼の断片を全て集めたくなるわけです。「失った」ということを理解するためなのか、したくないからなのか。私の記憶だけが頼りです。

『この脳に刻まれた彼の形跡の全てを、生きていた証を、全てかき集めなければ。そしてそれが消えてしまう前に、安全な場所に保管しなくては。』

 

そこから「彼の生きた思い出」の全てと、亡くなってからもなお感じられることの出来た「彼の愛」つまり私が見はじめる『奇跡の数々』を探すのが当たり前になる日々が始まっていくのです。

 

 

 さて、25歳の腰痛の私に戻ります。

しばらく我慢していましたが、腰が痛くて痛くて、日常生活にいよいよ支障が出はじめました。そのため整形外科を受診。すると1件目の医者は恐ろしくふざけた医者で、2枚しか撮らないレントゲン写真を見て笑いながら一言「治らないね。かわいそうに、もう子供も産めないでしょうね」

 

 マジか。 YOU、それマジか。

 

何がマジかって、診断ではなく、その態度がマジか。え、なになに?ちょっと茶髪で若い女が腰痛で受診したら、何を想像してるかわからんがニヤついたふざけた顔して己は婦人科の知識など到底ないであろうにもかかわらず「子供ができない」まで言及するんか? しかも言い切ったよね?今、言い切ったよね?

 

今でこそこの医者をうっかり小型ナイフで刺せそうですが、当時はもうショックでショックで。そこで、今度はちゃんとした病院を調べて、スポーツ選手などがこぞって受診しに来ているという京都の病院を訪ねることに。

すると本当のお医者さんがここで私を待っていてくれて、あっさりと「子供無理説」を根拠ある自信と説明で否定してくれます。

そして私は「リハビリ入院」をすることに。

 

その時に、当時まったく仲が良かったわけでもない同僚から、その人からは思いもよらない本『前世療法』をもらうことになるのです。「これもう読まないからあげるよー」みたいな軽いノリで。

 

まさかそんな形で回ってきた本で、自分の人生が開けていくとは。

でもそんなものです。いつも大切な誰かが、必ずしも大切なメッセージを運んでくるとは限らない。

人生の節目節目に、こういう「その時限定の名キャスト」みたいな出会いがあるものです。

 

そうして私は、検査と痛み止めを継続的にあびながら、筋肉痛と闘う「退屈だが体力的にきついリハビリ入院」のベッドの上でワイス博士の『前世療法』と『魂の伴侶』という本を読み始めるわけです。

 

 

追記:このワイス博士の本は、「懐疑的だが前世や輪廻転生のことがちょっと知りたい」「スピリチュアル風の強いフワフワしたものは苦手」な人にとてもオススメの本格派スピリチュアル入門書です。博士はご自身が精神科医というバリバリの科学畑で生きてきた方なので、初めて患者が過去生退行した時にはとても驚かれています。そんな博士の数々の実体験を、とても穏やかにそして冷静に書かれた本です。「ありえない」ことではなくて、「実際にフツーにあること」とわかる面白い本です。「苦し過ぎてどうしていいかわからない」「何でこんなに苦しいのかがわからない」「原因不明の痛みがある」「ダメだとわかっていながらもどうしても抵抗できない引力で惹かれてしまう人がいる」「自分の中にはっきりと今世とは別の記憶がある」などがある人にも、何か答えがみつかるかもしれないオススメの作品です。

 

続く⭐︎

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シンクロニシティ あなたは気付きますか?

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 今回は、シンクロについて。(遊びようがないので、ちょっと真面目に書きます。)

 

 

Q. 「偶然の一致」が起こった時あなたは、、、

 

A. ①やり過ごす ②気にする ③気がつかない ④そんなものは起こらない ⑤鳥肌が立つ ⑥ガッツポーズしちゃう

 

「1970年代後半に生まれた人達は、目に見えないものを信じる傾向にある人が多い」と以前何かの本で読みました。タイトルは何だったかな?思い出せませんが。

 私はもちろん、信じます。中学2年の時、なぜか突然「この世界が目に見えているものだけで成り立っているはずがない」と確信しました。なぜかしら。

 

さて。シンクロニシティについて。

初めて「シンクロニシティ」という言葉と意味を知ったのは、いつもは立ち寄らない本屋に無性に行きたくなったある日のこと。その日は勤務中からなぜかその本屋のことが何度も頭に出てきて仕方がないので、帰り道に寄ることにしました。

いざ本屋に入る直前まで「何で私は今日この本屋に寄ってるのかなー?」と訝しがっていましたが、パッと見るとそこには妙に私を呼んでいる(気がする)1冊の本があり。

( ↓↓ この本でした)

 

 

ずいぶん昔のことなのでうろ覚えですが、シンクロニシティという事象をいくつかの事例をあげて具体的に書いてあるのと、それらに対する著者の見解が書かかれていたと思います。

 

例えば。運転中に突然頭の中に浮かんできた曲がその直後に車のラジオから流れてくる、着信が鳴っただけで電話をかけてきた相手がわかる、相手のことを考えていたらその人から電話がかかってくる、など。中でも私が最も印象に残っているのが「車のナンバー」にまつわる話で、英語圏では車のナンバーを自分の好きな言葉などにできるため、横を通った車のナンバープレートにまさにその時の著者に必要なメッセージが書かれていた、というもの。(ちなみに今日私が目にした車のナンバーは「JOYFUL」と「JOY」でした。つまり私の今日のテーマは「喜び」「成功」。。。まさにそんな意味合いの深い1日でしたよ)

私は数秘学などにも興味があるので、いつでもどこでも数字を目で追ってしまいます。特に対向車や横を通る車のナンバーはもちろん、駐車場にある車のナンバーもいつもチェックしてしまいます。やったことのない人は是非、試しに気にして見てください。自分の目に入ってくるナンバーに、ある規則性があることに気づくはずです。

 

シンクロニシティは他にも、「いつも同じ時間に時計を見ることが多い」「デジタル時計を見るといつも同じ数字が並んでいるのを目にする(11:11や2:22など)」「何度も同じ言葉や特定のメッセージを目にする・耳にする」というのがよく言われています。

 

重要なのは、これらのサインに『気づく』ということなのでしょう。

1度や2度なら「たまたまの偶然」と思えるかも知れませんが、1週間のうちに4回も5回もあると、「何かある」と思いはじめるものですよね。

いろんな書籍を読みましたが、ようするにシンクロニシティには様々なサインが隠されていて、その時の自分に必要なメッセージが見えない存在から自分へと送られているということですね。

 

自分の決断に確信が持てない時や物事のタイミングをうまく測れない時などに意識して周りを見渡すと、案外あらゆるところにメッセージやヒントが隠れているものです。

気づくか気づかないか、というだけで。気づくといろんなものがクリアになってきます。これは決して、自分の外側に答えを見つけるということではないと思います。答えはいつも自分の中にあると思いますが、不安や心配やその他の雑念がその答えから自分の決断を遠ざけることもしばしばありますよね?そんな時に、「あ、私大丈夫だ。」と思わせてくれる何かがシンクロニシティにはあります。

 

何より、シンクロニシティを探し始めると、自分の感度が高まります。単なる「偶然」だけでは済ませられない何かが自分の周りで起こっていると感じ始めたら、自分の直感も冴えてきますし、自分の思考もクリアになります。すると自ずと何かを決断する時も迷わなくなる。つまり、「自分の人生がより自分らしくなる」わけです。人生がシンプルでクリアになると、生きやすくなると思います。

 

ちなみに、この本を読んだ当時の私は感性キレッキレで、着信が先か気づくのが先か、結構な頻度で電話の相手が誰かがわかりました。というのも自分にとって「いつも身近にあって欲しいサイン」が強くあったので、そういうものをいつも探していたからですね。

探し続けていたらいつの間にか多くの書籍を読んでいて、いろんな真理のドアが開けてきました。(私は無宗教です)

自分の人生でいうなら、シンクロニシティの絶妙なアシストもあり旦那との結婚を確信したり、カナダに来てからのたくさんの奇跡とシンクロニシティで移民まで導かれたりと、『今』の自分を作っているそしてこの先も作り続けていく大切なヒントがシンクロニシティでありスピリチュアリティであり。

 

シンクロニシティを意識されたことのない方は、ぜひ探してみてください。面白いと思います。

では。

 

続く⭐︎

 

追記:この本  が読みやすいか?と聞かれるとわかりませんが、「スピリチュアルという言葉に抵抗がある」「こういったことを初めて知る」という方にはオススメです。

 

「結婚」も「子供」もすべて自分の意志な人達 

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ここ数日勤務だったので、ちょっと日があいてしまった。

自分の思いを外に出すって、魂注ぐよね。慣れてないから一呼吸入れて、いざ。

 

Q.あなたは結婚を、、、

 

A. ①したい ②したくない ③したくなかったがした ④したが違った ⑤法が認めてないのでとりあえず出来ない ⑥来世でよろしく

 

 

私は、カナダはオンタリオ州のとある街のとあるホテルで美容系技術職として働いている。

この職場は独身率が高く、「子、要らない」派が多い。

「カナダ人だから」ということは往々にしてあると思うが、そうやって『自分の意思』をきっぱりと言い切るあたりがとても好き。「攻めてます」みたいな。

カナダの人たちはとても自分が強い。ほとんどの人が移民のルーツをもつ人達だから、カナダ文化と家族や祖先の文化が混じってる。だからなのか?もの凄く自己主張するし、「自分の人生の中心は自分だ!」「私が主役だ!」と全身全霊で語ってくる。

慣れるまではとても鬱陶しいし、日本との真逆っぷりにみんな戸惑うと思う。

そもそも確かにその人達から見れば「人生の主役は自分」でしょうけど、その人生にたーくさん他の人も出演してるんだけどね。主役も脇役も、キャストは自分のみ。強い。

 

さて。

そんな感じの「強く美しき独身女性」な私の同僚の方々は、はっきりと「結婚?クソくらえ。子供?絶対要らない」と言います。

よもや何だか、カッコイイよね。そこまで言い切ってくれるとね。

だいたいみんな40代。今子供が出来るかどうかではなく、「自分の人生には、それらは要らない」と生きてきて今があるだけ。そんな彼女達にもちゃんと定職に付いてるまともな彼氏が居ます。でも結婚しない。

 

彼女達は結婚に伴う「問題」を人生に入れたくないらしく。

「旦那の面倒みたくない」「自分の飯だけ作ってればいい」「好きな時に好きなだけお金を使いたい」「他人に干渉されたくない」「旦那に付属する家族親戚問題に関わりたくない(旦那にも関わって欲しくない)」「毎日顔みたくない」「自分の聖域に入られると邪魔」などなどが理由。

それらが嫌なら、結婚しないのもごもっともです。

そしてもちろん、子供に対する理由もそんな感じ。

「手がかかる」「お金がかかる」「自分の時間を失う」「子供の問題に頭を悩ませたくない」「子供にまつわる行事や親戚との関わりは面倒くさい」「24時間一緒にいるなんてありえない」

 

よもや子供も旦那も、商品かって感じです。「それ要る、要らない」的な。

 

賛否両論あると思いますが。私は大賛成です。

健全だと思う。これ全部、言っているのは『女性』であるということが。

この独身女性達、みんなしっかり稼いでいて、家持ち車持ち。家を複数持ってる人も居る。若い頃から働いて、自分で買ったもので、決して親が与えたとかではない。毎年旅行もがっつり行くし、夜遊びもそこそこする。

「独身だから、身軽だよね」とかではないと思う。

結婚して子供がいる人達ならなおさらわかるんじゃないかと思うが、一人の収入でそこまで生活を充実させるのって、すごい『自分力』だなと思う。

 

論点ありすぎて異論の余地はものすごくあるのは承知のうえで、やっぱり健全だと思う。

①本人達が納得して自分の人生を選んで生きている。

②社会の中の自分の立場や観念にとらわれる必要がないことを知っている。

③流されてないし、悔やんでない。

 

まるで人生の成功者ではないか。

私は日本出身なので、どうしても日本としか比較できないけども。これらの結婚したくない理由や子供を欲しくない理由って、女性は常に「言われる、聞かされる」側にある気がする。

何より「子供が欲しくない」なんて、思ってても口に出せるような社会ではなかったような。(注:10年前の日本国です)「いつ結婚するのか?」「いつ子供を産むのか?」「結婚できるのか?」「子供が作れないのか?」

 

「出来るか出来ないか」で判断される威圧感。

 

個がどうしたいかの意思ではなく、いつも親や近所や誰かからの「余計な期待」からのプレッシャー。

こころない人達の不躾な発言に「どうして私の人生に口を挟んでくるんだ?」といつもブチ切れしていた若かりし頃の私。

(よもや「子供がかわいいと思ったことがない」なんて言ったら、私には何か深刻な欠陥があるんじゃないかと、、、いや、あるのか。これはあるんだろう。うむ。)

でもその欠陥も全部ひっくるめて、「私がどうしたいか」ということが本当はとても大事なわけで。

 

でもね、日本ではそれが出来ないよね。いや、出来るのかもしれないけども、もの凄くやりづらいよね。

どこを見てもほぼ日本人という同民族で、見た目もほぼ一緒。人が近くに居すぎて、どうしても他人やその集団からのエネルギーとかで揉みくちゃにされてしまう。まして日本社会は「みな同じようであれ」という呪いさえかけてくる。

 

(日本のみなさん、疲れたら是非、カナダに遊びに来てね。都市部以外はまだまだ本当にだだっ広いからね。)

 

追記:もちろんカナダ人がみんなこんなに攻め攻めな人達ばかりではないし、どこの国でもあるであろう出来婚とか、出来ても未婚でシングルとかもたくさんいる。最も多いのは再婚と連れ子再婚かと思われる。この記事はあくまでも、私の職場の話。

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いじめをぶっ飛ばせ 傷ついた心に

 

 いじめ記事のとりあえずの締めとして、オススメを紹介。

 くれぐれも、前回の記事読んでからこの意味を噛み締めて欲しい。(願)

 

 中学生時代は、ちょうど斉藤由貴が教師役で萩原聖人が不良高校生役で主演の「学校へ行こう」というドラマがやっていて。学ランの萩原聖人に激惚れ。主題歌がブルーハーツだった。それでブルーハーツを知り、中学はブルーハーツで生き抜く。

ヒロトの純朴な声と時にぶっきらぼうな?歌い方がとってもカッコイイ。

「終わらない歌・リンダリンダ・君のため」今もなお、人生の応援歌です。

リアルタイムで知れて良かったアーティスト。最高

自身のいじめの経験とその経緯を、一緒に闘う友人や家族とのやりとりなども含めて暗くも重くもなり過ぎずにうまく描かれている作品。自分をいじめていた「立場上大きな相手」に、親友と立ち向かう場面はとても素晴らしい。いじめと一人で立ち向かうしかなかった私と、そうするしかなかった大勢の同志へ。これを読んで「こんな友達が居たら、一緒に泣けただろう」と安心して欲しい一品。

今は大分人気なのでしょうか?マキシマムザホルモン。初めて知ったのは数年前。私に彼らの存在を教えてくれた人の弟は10年も前から彼らの音楽を聴いて励まされていたらしい。初めて見た時、衝撃でした。でも、ホント良い曲ばかり。生き様も好き。不器用に一生懸命に生きてきたところがとても好き。リアルな人間の歌う、リアルな生きる曲。リズムも曲調も好きですが、特に「予習復習」はいじめられっ子には絶対オススメ。聴いて、励まされて、戦え。強くなって良い、君が強くなっても、誰も傷つけないよ。