ゆるい生活
Q. あなたは映画の結末から先に知る方?
A. ①イエス ②ノー ③ありえない
ちなみに、私は①派です。断然知りたい、むしろ知る必要があります。
意味不明などんでん返しの結末とか見ると腹が立つ。予想可能、もしくは不可能な悲しい結末とか見るとしばらく本気で落ち込みます。
ということで、大概映画観る時は、前もって結末を知りたい派。
でも、池波正太郎の時代小説は別。ハラハラしながら読み進めるのが非常に面白い。
ということで、やっと3連休に。
私の仕事は、その日の予約状況で勤務時間と、勤務があるかどうかが決まります。そして勤務予定前日の夜に、翌日の勤務が確定するという仕組みを取っています。カナダも(もしくはカナダはいまだに、というべきでしょうか)年功序列制度(正確にはセニョリティーシステム)というのを採用しているので、超ベテラン先輩スタッフから予約も勤務時間数も確保されていきます。俗に言う管理職やホワイトカラーと言われる人たちは固定給のようですが、ほとんどの一般従業員はパートタイムです。日本的に言うと「アルバイト」という響きになってしまいますが、いうても周りもみんなこの「パートタイム」がほとんどですから、まったく気になりません。みーんな、良い歳したアルバイト。正規職員になると、「フルタイム」と呼ばれる人たちになり、そうすると福利厚生などの「ベネフィット」と呼ばれるものが付いてきます。ベネフィットは常に条件付きで「一週間に⚪️⚪️時間以上勤務を、⚪️週間以上」とかいう規定があります。それを満たすとベネフィットがもらえます。それに足りないと、ベネフィットが一時停止されます。パートタイムではいくら勤務時間を稼げても、ベネフィットはもらえません。
ベネフィットには眼鏡・眼科や歯医者の割引が含まれているので、これを得るためにみんな上司に掛け合ったり、転職したりして「フルタイム」のポジションを探したりします。
会社によってベネフィットの内容が異なるため、子供がいる家庭は夫婦どちらかの「良い方」のベネフィットを使って子供の眼鏡や歯の矯正とかの費用を削減しようと試みたりするようです。
うちは旦那がベネフィットを貰ってくれるので、ありがたいことに私は必死になってフルタイムになる必要がありません。二人とも眼鏡ですが、ベネフィットも毎年眼鏡代が出るわけではないので、2年に一度の新品眼鏡にベネフィットを活用する以外は(それでも全額はカバーされませんが)年に数回の歯医者のチェックアップが安くなるという感じ。
旦那はフルタイムですが、規定の勤務時間に足りているので週4で勤務しています。休みを3日にして、執筆活動をするためです。
私も基本は週4でスケジュールを組んでおり、休みの3日間のうち時々自宅でお客をとったりしています。
二人ともホスピタリティー業界で働いており、特にカナダは夏か冬しかありませんから、観光地なんて冬はとても暇になります。この業界では冬になると「レイオフ」という「冬だけ失業制度」があって、ホテルなどで働く従業員の多くはこのレイオフというのを受けて、数ヶ月間失業します。つまり、「一年間まるまる働けたらラッキー」という?スタンスです。
以前は私も旦那も週5できっちり働いていましたが、職種がかわり収入がほんのちょっと上がった途端にお給料から引かれる税金の額がありえないほど増えました。つまり手取りは似たようなものなのに、引かれる税金は3倍に。こうして社会は市民にお金を持たせないようにするのですね。
と、いうことで、週4にしました。
どうせ手取りが同じようなら、休みが多い方が良いですね。
カナダは?もしくはオンタリオは?とても従業員の権利が守られているように思います。いえ、本人たち次第なのですが。酷い会社はたくさんあると聞きますが、国民性が「黙ってない」が基本信条のような人たちなので、みんな権利を主張します。そしてすぐに転職します。就職先の会社や上司、同僚が「良くない」と判断されるやいなや、転職。転職先の会社や上司や同僚が、、、で、すぐにまた転職。まさに地をいく「ローリングストーンズ」ですね。
もちろん、無償残業なんてカナダ人は誰もしません。「仕事ができる固定給の上司」のような人以外に無償残業しているのをみたことがありません。
そしてなぜか「祝日は勤務しなくてもお給料が支払われる」という制度です。これ、年末年始だけとかじゃなく、毎回です。祝日の度に、勤務していなくても、その日の6時間分くらいのお給料が支払われます。では勤務するとどうなるか。勤務すれば、そのお給料とは別に、通常の時給の約1.5倍の金額で勤務した時間分のお給料が支払われます。これは私の同僚曰く、「お給料2.5倍の日」だそうです。勤務するとそうなるようです。
そして祝日に働くのが大嫌いな人たちを除き、お金が欲しい人たちはこの祝日に働けることを喜びます。
私は以前ハウスキーピングをやっていた時に、「二度と祝日には働きたくない」と思いました。勤務時間が削られる上に、会社は人員を思いっきり減らします。つまり、勤務している少人数に通常以上の業務が丸投げされるわけです。会社はそのために2.5倍払っているわけではないはずですが、結果、3倍払われないと割に合わないような事態になります。少なくとも、ハウスキーピングではそうでした。
今の職種は忙しくても暇でもトリートメントの時間ととれるお客の数は大体決まっているため、祝日に働いても得するだけですが、たとえ休みでもお給料は支払われるわけですから、よもや休みでも良いかな的な。
そして収入の最大の違いは、やはりチップ制度です。
この国ではレストランのウェィターは「高給取り」になります。時給は最低賃金で働くことが決まっていますが、その分チップで稼ぎます。例えばホテルなどの高給レストランで、2人で行ってちょっとお酒を飲んで3コースのディナーを食べると合計金額が150ドルくらいになるとして、チップが20から30ドルだとします。それが4人連れになるとその倍。ワインをボトルで開けたりすると、チップが60ドルなんていうこともよくあったりして。するとそのウェイターは一晩でチップが300ドルとかになったりするわけです。夏は毎晩そんな感じで、冬は暇。でもセニョリティー(長年勤続者)とかになると冬も勤務を保証されますから、暇なりにもチップ込みでしっかり稼げるわけです。これだけチップで稼ぐのに、プロ意識の高いウェイターじゃないと感じ悪かったりすることもありますが。
でもね、これって良いと思うんです。
他人のために食事を給仕するんです。それにたいして、「料理や飲み物をテーブルまで運んでくれて、ちょこまか水入れたり様子を見たりしてくれて、ありがと」ということでその『他人の労力』にたいして、感謝するお金がチップです。いや、仕事なんだけども。ウェイターなんだから、料理を運んできて当然なんだけども。
そう思うと、日本のファミレスで働く店員さんはあんなに頑張っているのに、お金として還元されていないではないですか。一品あたりの単価は違えど、あんなに良いサービスしてくれるのに、わがままな客の相手もしなきゃいけないのに、ちょっと料理が遅いとかで文句も言われるのに、感謝されないではないですか。
理不尽だ。 ここでは、同じ仕事をしたら3倍の収入になるのに。
場所が違うというだけで、その場所にある「当たり前のもの」の基準が違うというだけで。
とにかく。この国のチップ制度は「他人が手を煩わせてくれるもの」すべての職種にかかってくるわけですので、タクシーやベルボーイ、ヘアースタイリストやマッサージ師などもその類です。
私の美容関係の仕事も例に漏れず、チップをいただきます。旦那はレストラン関係の部署で働いているので、ここでもチップが発生します。
ということで、チップを入れて週4勤務で、夫婦二人猫二匹の生活がなんとか賄われるわけです。
この収入で日本で生活したら即破産だと思いますが(苦笑)、幸いこの街には、おにぎりやスィーツの美味しいコンビニも、安くて美味しい洋食屋も定食屋もありませんし、こちらの値段に比べたらまだ安くて美味しい1箱350円とかのタバコもありません。近所をちょっといけば飲み放題歌い放題のようなカラオケもなく、ついつい衝動買いしたくなるようなオシャレなショッピングモールもありません。携帯電話も最新機種なんて持ってるのは20代前半の人達までだし、家以外でネットする必要もないから基本料金だけで良い。服も誰も気にしません。てゆーかWalmartでみんな同じような服買って着てるからみんな同じじゃん、的な。『周りの誰も気にしてない』というところに入ると、自分も気にするのが馬鹿らしくなります。いや、私はもともと気にしてないけど。
というゆるい生活。
生きる場所が変わると気にすることも変わる。いや、当たり前なんだけど、こちらに来て10年経った今でも時々驚いたり実感したりするわけです。
この国の人たち、ハンバーガーの食べ過ぎで死ぬことはあっても、過労死だけはないでしょう。いや、いるんだけども。でもそういう人たちは、また別の次元で働いている人達なのだろうと、思うのです。この街をみている限り、私の目には一般人はハッピーに映るのです。彼らは気づいていませんが。
続く。
神客とエネルギーバランス
Q. あなたのまわりには「化け物」の類の人が、、、
A. ①居る ②居ない ❸化け物だらけ ④天使だらけ ⑤何を言っているかわからない
いやー、あぶなかった。
私は時々、「今日はやばい」と感じる日には出勤前に腕立て伏せをする。(毎日しなさいという感じだが。)
筋トレというよりも、むしろ『厄除け』のためです。
疲れてくるとどうしても自分のバリアが弱まるというか、エネルギーレベルが下がりますね。するとちょっとした隙をみて、そこから他人のエネルギーを食い尽くそうとする人たちが寄ってきたり、付け入ってきたりしますねー。
今回はそんな化け物と神の采配の話し。
【エネルギーイーター】(Energy Eater)という言葉を聞いたことがありますか?
・その人と居るとなぜかとても疲れる
・その人に会うとなぜかいつも気持ちが沈む
・近くに居ると空気がどよんとしてくる
東洋的にいうと「(霊的な)気、が合わない」ということになるのかもしれませんが、私の言っているこの類の人逹は「合わない」どころじゃなく、こちらを蝕んできます。そんな感覚にさせられる人達のこと。
以前の記事
「結婚」も「子供」もすべて自分の意思な人達 - Rainbow Worldのブログ
で、素敵な同僚たちについて書きましたが、どこの職場にも【要注意人物】もいるものですね。
何か理由があってそういう人が自分の周りにいるのでしょうが、時々もの凄い荒技でこちらを襲ってくることがあります。ホントに時々ですが、顔面殴られたかのような衝撃。
私は自分の信念を貫く強さはちょっとは持ってますが、人からの直接的な攻撃や悪意には何しろ「打たれ弱い」。そんなものに対して強くもなりたくないのですが、繊細なうえにもの凄く真正面から受けてしまうというか。毎回、大型ダンプに跳ね飛ばされるような感覚です。
そして私は平和主義者です。なぜ面と向かって悪意や攻撃をしかけてくるのか、そういった人逹の感覚がまったく、理解できません。相手が思っていることをぶつけてくることが「意思の疎通」を図るためなのかどうなのかはわかる由もありませんが、私にとったらそういう人たちはみな戦争屋です。なぜあえて戦いを起こす?
自分がした間違いや失敗についての文句ならば受けますが、今回のはどうもそういうことではない。そもそもそういう「攻撃」をかましてくる人逹は、大概自分の中だけですでに激しい思い込みと偏見により「次に標的が動いたら殴る」気満々でスタンばっていたり。そしてこちらがそちらに近づくように巧妙に罠をしかけたりします。
どちらかというと今回私はその「怒れる同僚」の本ターゲットではなくそこに居合わせた「その他全ての敵」の一人に過ぎなかったのですが、なんせ当のターゲットの人達はそんなことをまったく気にせぬ「陽気組」の人逹だったため、まったく気付いてもいない。本当に幸せな人達組。
普段は私も極力いざこざに関わらないように立ち居振舞ってますが、今回はどうにも「お客さんの前」だったので、仕方ないので「怒れる同僚」をフォローしなければならず。(痛)
これがそもそもの罠?と大きな失敗でした。
怒りで荒れ狂う同僚は、ここ数週間の彼女の人生に存在した全ての鬱憤を私にぶちまけてくることに。とほほ。
すぐにそのことを知った上司に個人的に謝られるのですが、なんか腑に落ちない。全然腑に落ちない。私はこんなにも「問題を起こさないように」いつもやっているのに。
(後に私は彼女の面子を立てるため、謝りました。謝らなくても良かったんですが(そしてカナダ人は滅多に謝りませんが)、荒ぶる気持ちはさぞ痛かろうと思い、言葉をかけました。さらにその後で彼女から「話をしてきてくれてありがとう。そして話を聞いてくれて、どうもありがとう。吐きださないと今にも狂いそうだった」と言われましたが。いや、もう狂ってたけどね。)
そして翌日。これが危ない。
当の「怒れた同僚」はすっきりしたようで良いんですが、この話を比較的身近な同僚に話したところ、まったく理解されない。
私的には、何が理解されないのかまったくわからない。てゆーかむしろ、私の方がまったく理解できない。
つまりこれは【共感力】の話です。内容云々ではないんです。
私は同じ同僚として、今回(も)たまたま私だったけど、誰にでも起こりうるトバッチリ被害について、「痛かった。ビックリした。ちょっと怖かった。めっちゃ荒れ狂ってた、あの人。マジ暴走ダンプだった。」と伝えようとしたのに、まったく他人事。まるっきりこちらの「心」はお構いなしの無関心。
なんでそんなに人の話を聞かないのか。聞こうともしないのか。感じようともしないのか。
へたにちょっと身近なだけに、余計に凹みました。いや、わかっていたんだけど、通じないタイプの人達とわかっていたんだけど。わかっていたけど、久しぶりに凹みました。こんなに近くにいるのに、同じ仕事してるのに、同じ境遇なのに、無理解という無情。
みんなね、今は仕事が忙しくなくて、勤務時間も減って、トリートメント数も減って、つまりは収入も減って、ギスギスイライラしているんです。それは知ってますよ、知ってますけどね。
たったそれだけで、自分がちょっと辛いだけで、そんなにも人に無関心だったり優しくなれなかったりするのか?と、がっかりしたのです。
ここでうまく伝えられないのが苦しい。「私に対して」じゃなくて。それもあるけどそうじゃなくて。
そんなに無関心で、無感覚で生きてるなら、死んでいるのと同じじゃないか。
私は、人の話には耳を、心を、傾けます。その人の心が、気持ちが、一体本当はどうやって叫んでいるのか、泣いているのか。私は知りたいし、わかる努力をしたい。その人を目の前にしたら、私の感覚の全てでその人の状況を、心情を、魂を、気持ちを、愛情をわかりたい。それが生きてるってことじゃないのか?【生きて出会う】ってことじゃないのか?
人の気持ちにも触れずに、ただボーッとそこに居る。死んでるのと一緒じゃないか。何してんだよ。
(注:決して死者を冒涜しているのではありません。)
そんなことをまだまとまらない頭で悶々と考えていたその日、勤務の最後にトリートメントが入っていました。その日の最終の最終。他のトリートメントは全て終了しており、残っているのは私と、デスクの子と、そのお客さんだけ。
こういう時、神様という存在は必ずもの凄いことをやってのけます。
私はその人に会う直前まで、凹み悶々と悲しく怒ってました。でもなんとなく、そんな気がしていました。この最後のお客さんに、何か意味があるのではないかと。
エレベーターから降りてきたそのお客さんを見た瞬間に、一目でわかりました。
『わかる人』だと。挨拶に返してくるその目とその空気の全てが物語っていました。
この時点で、既に私は泣きそうです。ついさっきまで、世界で一人みたいな苦しみだった私の心と魂が、安全な優しい光に癒されるかのような感覚。
こういうこと、よくあります。自分が何か大事な「感覚」や「疑問」や「想い」を内側に持っているとき、その答えや共鳴や何かがふっと目の前に現れます。
場所も状況も関係ないけれど、最近よくこうして「お客」として現れてくれることがあります。お客さんとようやく雑談が出来るようになり、会話も弾むようになったためか、さらにその出会いの精巧さが感じられるようになりました。そしてお客さんのほとんどが一見さんの私の職場では、毎回カナダ国内外のあらゆるところから「たまたま」という完璧なタイミングで私の目の前に姿を見せてくれるのです。【縁】といえばそうなんですが、全ては最善のタイミングで導かれていると思う瞬間です。
さて、トリートメントが始まり、お客さんが話し始めたのが「エネルギーバランス」について。これはだいぶスピリチュアルな内容です。いろんなタイプのお客さんと同僚とがいますが、あるタイプはずっと「お金と生活の心配事」を話し、またあるタイプは「病気、ケガ、事故」について、「嫌な親戚と亭主、うるさい子供」のことばかりを話す人たちも。時々「神について」と話す人も居ますが、基本的に宗教の話はタブーとされている(はずの)文化なので、宗教理念みたいなことはごくごく稀に聞くことがあるだけ。そして数少ないお客さんではありますが、こうして「スピリチュアルや命の真理」みたいなことを知っている、そして話す人に出会います。私はこの「スピリチュアル」について話す人たちが大好きです。こういう人たちはみんな真実を探そうとしていたり、人生と向き合おうとしていたり、愛や幸せとは何かということを静かに探ろうとしているからです。そしてそういう人逹と話すと今回のように、時々心の底から『伝わる・通じる・浸透する』というような感覚になります。
私にも彼女の話すことがとても浸透しましたが、彼女にもそうだったよう。私の触れる手が、空気が、話す内容が、それら全てが彼女を癒していくのがわかります。
私の魂はそのお客さんとの出会いで喜び、だいぶ復活します。その後もこの記事を書くまでの間だいぶ憤りながら悶々としましたが、悲しい凹みは一気に解消しました。
初めて出会う、たった一人の「お客さん」という関係の人。トリートメントは50分ですが、彼女のエネルギ一はー目で通じたので、ほんの数秒のコンタクトで、こんなにもわかり合える存在に出会えるということが、人間に幻滅しがっつり凹んでいた私にまた愛を吹き込みました。
たった一人でも良い。わかってくれる人や、伝わるという感覚の相手。
たった一人でもそこに居てくれたら、私がこうしてこの「感覚」で生きていて良いと思える証になる。
そうそう。今回の件はまさに私にとって、「物理的に近い距離に存在する物体がすべてではない」と再度思わせるきっかけになりました。現実社会・物理的な社会で近くにある「目に見える」世界には、やっぱりこうして限界がある、というのをあらためて再度実感しました。そこに人が居るからって、その物体がわかってくれるとは限らない。触れるからって、口がきけるからって、伝わるとは限らない。
当たり前のことだけど、ついつい目に見える範囲のことしか認識しないようになってしまう。
そう思うと、インターネットって、実はすごいなとホントに思う。
今自分が立っている場所の目に見える範囲では決してありえない出会いが繋がれる。
縁が紡がれる、というのか。
私の記事を見つけてくれた縁ある方達と、ところどころにつながりがあり、また驚く。
いる場所基準の現実社会ではとても見つけられないものや繋がりが、ネットの中では巡り会うという奇跡。計り知れない数の情報とコードが入り混じっているのに、そこから出会う奇跡。こちらの方がよほど、真実味がクリアだ。有無を言わせず、の納得感。
あなたの身近にいる大切な人は、あなたの心を、気持ちを、感覚を、わかりあいたい人ですか?そしてわかってくれますか?どうかあなたがそういう人と繋がっていますように。
続く。
あの日の雪
昨日はつい、思いつくまま2つも記事を書いてしまった。トータル8時間。普通の勤務じゃないかい。
とにかく。こうやってその時思い浮かんでくることを、出来るだけ薄まらないように書きたい。
今日は、ある冬の話。
私には大学時代の親友が2人居る。どちらも男の子。元来女っ気が苦手な私は、話すのも連むのも男の人の方が気が楽だった。友人は数人居たけど、今もなお連絡が取れ、連絡したいと思い、それが年に一度の連絡でも魂の近さを感じる人は、この二人だけ。
そのうちの一人が、大学卒業前の冬のある日、私に一冊の本を持ってきてくれた。
よしもとばななの『キッチン』だった。
友人はこう言った。
「これ、お前に似てる。よしもとばななが似てるのか、作風が似てるのか。わからんけど、これ、お前に似てる。やるわ。」
本をもらったのは、彼が死んでしまってから数週間後だったろうか。
読み始めてからすぐに気づいた。よしもとばななは、生と死を扱う。彼女の作品を読むのはそれが初めてだったが、なんだかすぅっと引き込まれるように読んだ。読み進めば、何か答えが見つかる気がして。
どうせ毎日泣いている。毎晩夜中まで泣いて、いつの間にか眠りについている。だから夜中に、毎日読み進めた。
そして巻末に書かれていたもう一つの作品『ムーンライトシャドウ』に出会う。
友人が意図したのは、こちらだったのではないか。
読み始めてから、どんな結末になるのかとドキドキしていた気がする。決して嬉しいとかじゃない。私が見たくない結末「死んでいます、だからさようなら」、その結末だけは見たくない、今も、この先も。【死イコール永遠の別れ】ということだけは、今一番信じたくない・知りたくない。
その作中で、主人公が夜明け前の橋に死んだ人に会いに行くシーンがある。数年に一度現れるという、一瞬だけのチャンス。主人公は橋に向かい、、、、。
当時住んでいた京都のアパートの近くに、一つだけ思い当たる橋があった。その話を読んでから、なんだかとても気になっていた橋だった。だけど時間設定は夜明け前。いつもは泣き疲れて眠っている時間帯だった。
(なんか気になるけど、無理かもな。でもなんか、行ってみたいな。)
そんなある日、突然朝の6時に目が覚めた。外は寒いし曇っている。
(なんかバカみたいだけど、あの話がとても気になる。あの橋に行けば、何か見えるのだろうか。)
彼にまつわるものは全てかき集めたい。そこに意味があるなら、全て受け止めたい。
たとえそれが、さらに悲しい結末であっても。
だから目が覚めたのだろう、普段なら起きることのないこんな時間に。
出来るだけ暖かい格好をして、原付に乗ってその橋へ向かう。その川も、橋も、好きな場所だった。
もう夜はすっかり開けているけど、そんなことはどうでも良かった。
ただ会いたい。そこにある何かに、そのメッセージに、会いたい。
(どうせ何もすることがないんだ。どこで泣いても一緒だから。気がすむまで、しばらく川沿いにいよう。)
川沿いに降りて、石のベンチで何かを待つ。待つのは嫌いじゃない。希望がある。失うのは嫌いだ。あるのは悲しみだけ。
しばらくして、なんだか寒くて、そして悲しくて涙が出た。
ふつふつと涙がこみ上げてきた。どこに行っちゃったんだよ。
「いつでも来るって言ったじゃん。今来てよ。約束守るって言ったじゃん。今寂しいよ。ここに居るなら【証拠】を見せてよ。」
私がぐずり始めるやいなや、空から 【雪】が降ってきた。
あまりのタイミングに、泣くよりも笑えてきた。
(いやいやいやいや、ないない。でもすごいタイミング。さすが。)
その雪は数分で止み、あのタイミングは何だったんだろうとまた試してみたくなる。
「あのね、本当にここに居るなら、もう一回雪降らせてみてよ。そしたら今度は信じるから。」
そしてまた、【雪】が降る。そしてすぐに、雪はやむ。
(いやいや、これはたまたま雪が降るタイミングの時に、私がこんなことを都合よく唱えているだけのことかもしれない、、。)
泣くのを忘れて、しばらく考えてみた。でも結局、答えなんてないのだ。
私が信じれば、これは何かのメッセージであり、信じなければ、、。
信じない道なんてなかった。
そもそも私は理由もなくこんな時間に起きて、こんな時間にこの冬空の下、原付でわざわざ寒い川沿いに来て、1時間も過ごすようなタイプじゃない。
(きっと何かに呼ばれて来たんだ。それが彼でも、何か他の大いなる力だったとしても。)
わかっていることは、こんなにも泣き続ける私を、彼が嬉しく思っているはずがないということ。何とかして、どうにかして、涙を止めなければ。優しい彼のこと、そう思っていることは間違いなかった。
【雪】まで降らせる君の愛情、しっかり受け取りましたよ。
ありがとう。
ある冬の日でした。
自分の居場所【続・仕事編】
お腹が空いたので、煎餅食べながら。(ボリボリ)
先日のこと。旦那が働いているホテルで、一人の日本人女性が体調不良で倒れてしまって。
丁度その日はオンタリオの消防隊員たちがこぞってそのホテルで会議をしている最中で。その方は、その日丁度そこに居合わせた消防隊員たちに素早い処置を受け、ご無事に日本に帰られました。(お大事に)
そしてその数日後、ご丁寧にその方のお姉様よりとても高級な手作りお煎餅と思われるものが3箱も届けられました。日本の人って、本当に礼儀正しくて丁寧ですね。感動。
ということで、【自分の居場所 仕事編】の続き。
rainbowworld.hatenablog.comカナダのジャパレスで働くということが、どうしてもきつかった日々に思い始めたこと。「いつか絶対にカナダ社会に出てやる」
これ、もともと持ってろよって感じですが。みんながみんな「英語話せる・外人とやりあえる・だから私は外国に住む」という状態で海外に行ってるわけでもないのですよね。いろいろな論は置いておいて、私の場合はゼロからのスタートだったわけです。旅行でも、カナダに来るとは夢にも思ってなかった。
でもそんなものですよね。数年前の自分が、今の自分を事細かく想像できていたなんてこと、あるかしら。ないなー。
ちなみに、腰を痛めて前職の施設を辞めた後、私は実家に帰り約2年間の療養をさせてもらうのですが。いろんな意味でこれも地獄でしたが、その時は「二度と就職できないだろう。まっとうな仕事には就けないだろう。結婚も子供も無理だろう。親(生活に必要な食料と物と居場所を提供してくれる人)が死んだら、私もその時に死ぬしかないだろう」と本気で思ってました。あのまま自分が癒えなかったら、そうなっていたでしょう。
でも人は癒えるし、癒えるために人生をもって生まれてきたと思うのです。
場面をカナダに戻します。
とにかく、ジャパレスでも勤務がいよいよもってきつくなった時、転機も訪れます。
当時通っていたカレッジの1年コースの終わりに、「やらなきゃダメよ!やるぜ、無理やり就職活動!」という課題が出ます。そもそもこのプログラムは『英語が話せないから社会に出るのを怖がっている移民者の背中を押す』というプログラムだったので、私を含めた多くの移民者の悩みである【恐れ】を取り除くためにあらゆることを勉強させ、やらせるという画期的な内容でした。(ちなみに学費は無料です。移民者を応援するために、カナダ政府が援助してくれています。受講前に簡単な面接試験あり)
その時に、「いつか夢見ていたジャパン完全脱却」の予行練習をすることになるのですが。結局、私にとってはそれが「一発ぶっつけ本番!就職大作戦」になりました。ハウスキーピングを選んだのも、体力勝負でしょ?なんとかなるでしょと思い。どうせ夢なんだから、と家から車で20分ほどの距離にある小さくて可愛い町の有名な高級ホテル(夢は大きく見た方が良い)に絶対落ちるという確信をもってレジュメを送りました。
(このホテルを選んだ理由には、いつか書きたいと思っている「カナダで起こったシンクロニシティ」の一つになるある知人の一言がきっかけにあるのですが、それはまたいつか機会がある時に)
「絶対叶うわけがない」と思い切れる方が、実は叶うとわかっていることだったりしますよね。
レジュメを送って数日後、ものすごい速さで連絡をもらい面接に呼ばれ、2次面接に行き、入社が決定。その時の人事担当は中国出身の移民歴30年以上の方でした。「日本人で雇うのはあんたが初めてだ。日本人は綺麗好きだから、良い仕事してくれるでしょう。頼むわよ。でもあんたの体じゃ通常のハウスキーピングは無理だね!ロビーアテンダントってのがあるから、そっちに配属ね!ガッハッハ!」と、採用されました。このパワフルなオバチャマのおかげで、今の私があるわけです。この人が私の新しい人生の「引き上げ役」を演じてくれたのですね。もう定年されましたが。感謝。
さて、そこで初めて知ることになる「ロビーアテンダント」という職種。何それ?大丈夫?私出来る?英語使わないよね?????
どうにも受けた説明の限りでは、ロビー(公共のエリア)をうろうろして客と接すると言われた感じがするのだが。英語苦手だからハウスキーピングを希望したんだが。
が、この思いもしなかった配属のおかげで、人生がちょっと楽しくなる。
ロビーという仕事は、基本的にホテルの中のあらゆる「公」の場所を掃除する仕事で、ダイニングから会議室、披露宴をするボールルームにトイレにプールに玄関にその他もろもろ。このホテルは非常に綺麗なビクトリアンスタイルのホテルだったので、どこの会議室もおとぎ話のような美しさ。トイレは一体100万円を超えるという特殊な焼き物の可愛い便座やシンク。玄関エリアも歴史を感じる重厚な感じ。まぁ何を見ても美しい。
仕事内容はきついけど、決して難しいわけではないので、あとは自分の気持ち次第。お給料も悪くはないし、何よりここは外国だから、何をしたって特別な感じがして、楽しい。滅多にない経験、と感じられる。
そしてこの町、実は「お金持ちが住む町」だということを後で知る。なので町が上品。そしてそのホテルで働く人たちもその町出身だったりするので、従業員のみんながとても良い人達だった。
英語のつたない私が、髪抜けるんじゃないだろうかというほど緊張して出勤すると、勤続30年近いソムリエに一言「おい、お前のメガネ良いな。お前どこの国出身だ。日本か?じゃぁそのメガネは日本製か?クール」と声をかけられてから、あっという間に気に入ってもらうことになる。するとそのソムリエが次々と同僚を紹介してくれ、たちまちここでもウェルカムしてもらう。
(この感覚、どこかであったような、、。あ、以前居た町だ。)
以前の町とこの町は、人口も規模も経済レベルもとてもよく似ていることを後で知りました。どうりでウェルカムしてくれる良い人たちばかりだ。
そしてロビーという仕事はホテルのどこにでも顔を出す仕事ということで、本来ならハウスキーピングの人としか関わらない仕事のはずだったのが、フロントデスクからキッチン、バンケットやメンテナンスやレストランまでほぼ全ての従業員とやりとりをしながら知り合いになることに。
会う人会う人、とても笑顔で私を迎えてくれます。いつもあたたかく、声を掛け合う。私のする仕事は感謝され、私もいつも笑顔で過ごすことが出来ます。 (ここ、私の居場所みたい。仕事に行くのが、毎日嬉しい。)
人事のオバチャマは、本当に神の仕事をしてくれました。
この仕事じゃなかったら、こんなに多くの人にウェルカムされなかった。部屋を掃除しているだけじゃ、こんなに多くのカナダ人と会わなかった。件のジャパレスでは私はクソババァで、私もとっても居心地が悪くて、本当に嫌な毎日だったのに、『私』は同じ『私』なのに、ここにいるととても自然で、気持ちが良い。
あぁ、日本にまつわる全ての環境に、合わなかったんだな、私。
でも、だから国を出てるのでしょう。
とにかく今まで感じたことのない、愛されてる感。そして少しずつ、自分も自分が好きになる。準備ができてくる。
その後、日本人が数人この会社で働くようになったと聞かされます。この時点ではその日本人達に会うのがとても嫌で、恐ろしい。またあの悲劇がと思うと、とても会いたくない。
が、そんなある日、いつも通りにあらゆるところで仕事をしていたら、ついに一人の日本人に会います。その人が、後に私を彼女の部署に引き入れてくれるきっかけとなる次のキーパーソン。あんなにも避けてたのに、いざ会うととても好い人で。なんていうか、とても常識的な好い人。こういう人と話がしたかった。(涙)同じ巳年ということで?すぐに意気投合。そんなものですね。まさに、合う場所で、会うべきタイミングで、会うべき人に出会う。いつも最善のことが起こっています。ジャパの悲劇は、あれがあの時の最善だっただけのこと。おかげでビザ取れましたから。それが最高で最善のことでしたから。
さて、そのキーパーソン。私の働きぶりと噂をいろんな人から耳にしていたとのことで、とても善意にしてくれます。私の仕事は彼女の仕事を助けることでもあったので、なおさら善意にしてくれます。そして私が美容系プログラムを出ていることを知り、とても熱く彼女の部署へ誘ってくれることに。
もちろんここでも私は臆病なので、何度も誘われては何度も断ります。
「無理無理。絶対無理。出来っこない。英語で接客、サービス、施術、対応、、、。怖くて吐きます。」
そのために学校行ったけど。自宅でお客さん取り始めたけど。仕事内容とても好きだけど。ホテルで働くには、もっと高い「技術、能力、知識、責任感、英語力、人間力」が求められると思うから。 私には出来ない。出来っこない。
来ましたここでも人生の壁。正念場です。闘うか、闘わないか。
またしても、ブルーハーツです。
後に始めて気づくことですが、私が勝手に想像して作り上げていた【もっと高い技術、能力、知識、責任感、英語力、人間力が求められると思う】というもの、これは完全なる日本社会からの呪縛でした。ずっとそう求められてきたから。そんな気がし続けてきたから。
だけどここはカナダでした。【ザ・イージーゴーイング】な国民性を持つ、素晴らしき国Ohカナダ。
そして私は、ありがたいことに、キングオブクォリティ、日本産なのです。
日本人は素晴らしいと思います。精巧に教育されているし、訓練されている。
私たち日本人が思う「責任感、詳細、能力、知識、技術」そういったもの全ては、日本の外では【ロボット基準】です。ただ、英語が話せないというだけ。日本語以外は話さない、という国で生まれただけです。
私たちが日本で受けた教育等の訓練は、世界基準で「高」もしくは「出来過ぎ」レベルだと本当に思う。私たちの責任感、それは「一国を背負う所存です」という宣誓のようなものです。 だから生き苦しいんです。いろんなもの背負わされ過ぎて。
美しい武士道です。でも私たちは侍じゃない。なんでいつも「切腹覚悟」みたいな心境で、仕事に行ったり学校に行ったりするのでしょう。
だから、そんなに気負う必要はなかったんですね。
時は満ち、準備が整ったと自分で思う気になったので、思い切って今居る部署の門を叩きました。私は無宗教ですが、いつもこの言葉、本当に真実だと思う。
求めよさらば与えられん 叩けよさらば開かれん
ちなみに私が無宗教なのは、神の名を知らないからです。
いろんな国のいろんな宗派が、自分の国の(宗派の)神だけが唯一無二だと信じているから、私は今後も無宗教です。
私は神を信じますが、まだ会ったことがありません。自己紹介もしたことない。
だから相手の名前も知りません。知ってるのは一般名称の「神様」ということだけ。でもそれで十分かな、と。だってそこに存在されているのはわかります。
とにかく。今一緒に働いている人たちは自分の意思をはっきりともつ気持ちの良い人たちで、一緒に仕事していて楽しいです。不器用なところもあるけど、みんな一生懸命に生きている。ありのままで。
会社は変わらずに部署移動しただけなので、今でも以前の職場の仲間とは時々会えるし話せます。ここが終着ではないけれど、今居る場所が一番幸せ。
人生の節目節目でいつも思う。【今が一番幸せ】
そう感じられる生き方をしているなら、大丈夫、私は私らしく生きている。
ずいぶん遠くまで来てしまったけれど。辛いところで立ち止まらなければ、きっとたどり着くと信じたい。
人生で一番暗い闇と思う時、その底を思い切り触ったら、ターニングポイントです。現状維持か、上がるかしかない。現状維持でも下がらない。そこから上がる光が必ず見つかると信じて。
今を精一杯生きるしかない。ね。
補足:いい大人なので人目を気にして補足させてもらいますと。海外に移民している日本人には大きく2パターンあり、「現地の人と結婚している嫁入り組」と私たちのように「自らの意思で日本を出た組」があるらしい。嫁入り組の大和撫子隊のみなさまは、いたって善良な日本人(が多い)と感じます。きっと気持ちが悪いのは私たちも所属する「自らの意思組」なのかと思われます。出ようとしてる時点で、変わり者だよね。ということで、現地に住む日本人がみな気持ちが悪いわけではなく(ここ重要)、あの時のジャパレスだけが私のカオス前線地だったと思われます。そこのところよろしく。
続く⭐︎
自分の居場所 【職場・仕事編】
Q. あなたは『居場所』ありますか?
A. ①ある ②ない ③探してる ④ずっと探してる ⑤どこかにあると信じたい ⑥信じる気も失せた
私は限りなく⑥でした。
私はこれまでの人生でどこに居ても「自分の居場所がある」と思ったことがありません。これは自分の中にある核の問題で。だからスピリチュアルな本や精神世界の本を読むのですが。
小中学生の頃ジャイ子達にいじめられていた頃は「私が子供だからこんなことに合うんだ。高校に行ったら、きっと新しい仲間が待っていて、もっと素敵な人達がいるはずだ」と信じていました。
ジャイ女子高校に行き、それは叶わないと知り、「きっと田舎だからだ。もっと広い世界に出れば、きっと大人になれば、もっともっと素敵な仲間たちと分かり合える日が来る」と信じていました。
そして縁があり関東を出て、京都の大学に行きます。そこで出会う「西側」の人たちの明るさがとても心地よいと感じます。喋りも快活で、オチをつけるというのがわかりやすい。これってコミュニケーションのポイント押さえてるな、と。そこで初めて外の世界を知り「自分が生まれた場所」との違いが少しずつ認識されるわけですね。
大学は比較的快適。なぜなら「個人」であって良いから。みんなバラバラ、みんな好きなことしてそこで自分を確立させるわけです、4年間もしくはそれ以上を使って。私はまったく華のある大学生活は送りませんでしたが、それなりに子供と大人の境目の時間を「生まれた場所」から離れて過ごして快適です。でもそれは「大勢の中の一人」として埋もれられるから。誰も自分を気にしないし、それも気が楽だったから。
卒業間近、就職難と言われる時代に突入していましたが、私はあまり気になりませんでした。そもそもみんなが目指しているような企業や職種に就こうと思ってないからです。最終的には福祉一本と決めており、その頃は「福祉は人助け」だと思っていた私は、「自分の人間性と経験値を高めるため」と一応、一般企業への就職活動もしました。まったく興味のない【就職活動】なのだからせめて【興味のある業界】を選ぼうと思い、福祉と同じく人間生活に必要なものということで『教育と娯楽』を選びました。ということで回るのは「教育関連会社とパチンコ会社」。友人には意味がわからん組み合わせと言われましたが、非常に自分らしい選択でした。そして教育関連はまったく面白くもなく、一次審査・面接で落ちるわけですが、面接官の態度と質問内容が「何様デスカ?」という印象で。なんで人を育てようというはずの教育会社が優秀なロボットを採用する気満々の姿勢で採用試験をやっているのか?がどうにも解せなかったので、腹を立てつつもどうせ落ちてるので結局終了。
パチンコ会社は、逆に人事の人たちが素晴らしかったです。数社受けましたが、どこも最初の段階で合う人事の人たちは丁寧に接してくれました。業界が業界だけに、大卒を採用したいというのもあるのかもしれませんが、いずれにせよこれから社員になろうかという私たちに対して、会社側からは「どうせうち(パチンコ業界)には来てくれないんでしょ」という若干の寂しさみたいなものまで滲み出ていたものの、比較的どの会社もこちらへの対応は人間的で丁寧でした。
そして。内定をいただく旨のお電話をいただき、丁寧にお断りさせていただいたあるパチンコ会社の人事の方は、本当に感じが良くて。結局そういう人を見て、「あの人となら仕事がしてみたい」とか「あの人と同じ場所で働きたい」と思わせるような社員のいる会社に入るべきだと思うわけです。ちなみにその会社の入社試験で出会った他の大学生達も、やっぱり面白い人たちばかりでした。「気取ってなくて一生懸命」結局私はこういう人たちが好きだなと思うにいたるというか。そしてそう感じた同期受験組は、やっぱり最終選考まで一緒に残るわけです。合ってたんですね、会社とも、あの人達とも。
私は他にも「児童施設」「老人施設」そして「障害者施設」の全てを受けました。どれもとても面白そうで、子供かお婆ちゃんか障害かが選べなかったから。(結果的に就職へと導かれた場所はそれら全てが統合されている場所でしたが)なんせ私の頭には「福祉は人助け」しかなかったので、「なぜ助ける対象を選ぶのか?」が自分の中で腑に落ちないというか。みんな好きというか。やってみなければわからないというか。(この時点で普通じゃないな私、と気づくべきでした、、、。)
そして前述の障害者施設へ就職。
職種が職種なだけに、ここでの同僚はとても素晴らしい人たちが多かったです。特にその施設の職員の半数を占めていた長年勤続している先輩方の人間味といったら本当に素晴らしくて、人に対する思いと愛情とが本当に深い人達でした。出会えて良かったと心から思える人たちに、出会えたわけです。
が。仕事内容と、勤務体制がきつい。そして業務方針にも疑問を抱いてしまう。
「これは本当に人助けなんだろうか?本当にこの人たちを助けているのだろうか?この人たちはこれを望んでいるのだろうか?」
などの感情もいろいろあって、ストレスになりました。そして退職。ここでも自分の居場所は見つからなかったけれど、素晴らしい人達に出会えて感謝。
そしてまたいろいろあってカナダへ。
1年目の幼稚園ボランティアは、カナダ人の優しさに感動しました。あの人達は「人を排除しよう」とか思ってない。それがすごい。まったく英語も話せなく、コミュニケーションも私が頷く以外はまったくとれないというのに、【超ウェルカム】してくれて、大事なお子さん達の面倒をみさせてくれたことに感謝。
「英語が話せない」ということ以外は、「自分である」ということを卑下しなくて良い。こんなにも不格好(見た目が全然ちがう)で現地の言葉も話せない私をそんなことまったく気にせずにウェルカム。 こんなこと、日本であったかな。
町のみなさんが、とても良い人達でした。日本と中国の違いも、その国がどこにあるのか何なのかさえも知らない町の住人さん達でしたが、それでもこちらをウェルカム。 どんな自分でも「居て良い場所」を初めて知った気がした場所でした。
ただ言葉を喋れないので自分がとても居心地が悪い。そして不安。
この居心地の悪さを解消すべく、匍匐前進で生活環境を改善していくことになります。
さらに縁あって今居る街へと引っ越します。
ここで数年間働くことになるジャパレスで、これまでの人生で最悪の職場体験をすることになり、のちに勇気を出して「カナダ社会へ出よう」と思うに至るのですが。
もしもあの場所で『居心地良い』と思えてしまっていたら、今居る本当の意味での快適な場所には辿り着いていないわけで。
ちなみに。ワーホリ等では、ジャパレスは最高だと思いますし、オススメの環境です。
(誤解のないようにと思って付け足しましたが、逆に誤解を生むかな、、)
ただ、もちろん会社や店によると思いますが、どうしたってジャパレスで働く日本人はカナダ人扱いされないわけです。(いや、当たり前なんだけど。そうじゃなくて)
どこの他国籍料理屋でも同じようなことが問題になるわけですが、外国人労働者である私達にはカナダ社会にいながらもカナダ人と同等の人権が与えられない風潮があるわけです。(まぁ治外法権でしょうか)労働時間や労働体制や給料形態や、その他もろもろ。そういったことを何も知らずに働かせてもらったわけですが。知らなくてよかった!(叫叫叫)
知ってたら、ビザ取得を諦めていたかも知れませんから。
1年間限定と割り切って外国に滞在する方達には、ジャパレスはとても良い情報交換の場所だと思います。カナダ人に関わる機会も、英語でオーダーを取ったり仕事のやりとりしたりする機会もあったりします。期間限定の出会いや同じような境遇の日本人とのふれあいもあります。
ただ私はその全てがアウトでした。ホントは書きたくないけど。でも自分の黒歴史を「終わり」にするために、書くっきゃない。
そこで出会った日本人はみんな気持ちが悪かった。そして他の日本食屋の日本人も、みんな気持ちが悪かった。結構な人数に出会いました。ほとんど全員気持ち悪かった。
なぜでしょう?理由はいろいろありますが。そしてもちろん、あちらから見ても私は典型的な「カナダで会うクソばばぁ」だったことは間違いないのですが。
あの場所で過ごした時間は本当に「刑務所ってこんな感じかな」というくらいきつかった。そもそも「ビザ」という問題があるので、自分の精神状態も生活状況も本当に落ち着かないので、そのせいかとは思いますが。なんか「戦場のテロリスト」状態。戦地なのに、どこをテロるのかはわかりませんが。どこもかしこも爆弾だらけじゃん。
自分がこの地で生きてく自信(ここでは「期間限定のビザ」しか持ってないという意味)がない頃だからか、出会う人もみな自信がなかったのでしょうか。「自信がないのにあるふりをして、その隙間を他者を笑って埋めようとする」みたいな人達と出会う。
そしてこの時の環境はビザ取得のため、「自分は決して頑張らないけど他人を引きずり降ろそう」という詐欺師みたいな人達が周りにいたりしました。そんな人達、私は今まで見てきたことがない。
ジャイ子時代からもそうですが、私は『人を笑う人』が嫌いです。笑う人は大抵、自分が頑張ってない。ひがむなら良いけど、笑うのはクソだと思います。
人は弱く、みんな弱い。だから辛い。苦しい。でもそれさえも受け入れようとしない奴に笑われる筋合いはない。私は『必死に生きてる必死なババァ』に見えたかもしれないけど、何を成し遂げたわけでもないのに他人を笑う奴らよりはましじゃ。
上部だけ繕って「私、上です」みたいな振る舞いしてる気持ちの悪い人をたくさん見てきました。あぁ、気持ち悪かった。日本では決して見たことのない種類の人達でした。ここだから、日本の外だから見る、異様な光景の一つだったのでしょう。
「外国にいるから、そこで出会う日本人はみな良い仲間」?クソですか。逆に気色悪いわ。
日本を出てわかったことは、「日本人だから」「同じだから」が友達や仲間や「快適な関係」になる理由ではないということ。当たり前だけど、これって案外気づかない。日本に居たら、気づけなかった巧妙な罠の一種だったと私は思う。とにかく、そういうことに「合えない」私たちだからこそ、外に出ているのだと思う。そしてわかってしまったこと。一度出たら、もう二度と帰れない。自分がその中にそぐわないと気づいたので。
そりゃぁ生きづらいはずです。だって生まれた場所が自分に合わないなんて。「合う場所」を探すまでは、決して快適な道ではありません。
長くなりすぎたので、一旦終了。
続く⭐︎
臆病者の勇気 人生の流れ【学業編】
またしても、勤務にて間があいてしまった。
写真は職場からの帰り道をパシャり。このあたりは今が紅葉のピーク。
さて、
Q. あなたは今の(今までの)仕事が(職場が)、、、
A. ①好き ②好きじゃない ③ありえない ④どこも一緒 ⑤未だ見ぬ聖地を探してるところ ⑥その旅はもう終えた
勤務が続くと、そちらにばかり気を注いでしまい、こちらが書けない。
というか、勤務に専念せざるを得ない。なぜならば。
私は英語が得意ではない。 orz
カナダだけなのか、英語圏の外国はみんなそうなのかは知らないけれど、外国に行った日本人あるあるの一つと思うが、一番最初に住み始めた(もしくはその地を訪ねた)時に、「コーヒーの一つも頼めない」という現実が待っている。
これって結構凹みます。
私は一応、日本の大学を出ていて。英語は10年間文法等をみっちり勉強させられてきたはずで。バリバリ文法は頭に入ってると自負していたはずが。
カナダに来て最初の一言だった「センキュー」が通じなかったあの衝撃は今でも忘れていない。いや、忘れてなるものか。トラウマよ。
その後英語を話せないまま半年ほど、旦那が当時ボランティアで日本語教師をしていた小学校に隣接する幼稚園で私もボランティアをすることになるのですが、「子供だから」となめていた私にクラスの中でも生意気そうなお子ちゃまが一言、
「ドウシテフランス語話シテルノ?」
確かにボショボショ言ってるけどね。。。orz 英語じゃ!!(叫)
そんなこんなでその町を後にし、現在住んでいる場所に引っ越すわけですが。(注:任期が完了したためです。決して英語の問題ではありません。)
現在住んでいる場所は観光地ということもあり、カナダ国内外からもたくさん観光客が訪れる街なので、コーヒーの注文も問題なく出来、ちょっと一安心。ホッ。
(この街では、コーヒーショップの店員さんの耳が英語が第2言語の人達の英語に慣れているため、大概のオーダーが通じるわけです。もちろん店員さんも、いろんな国から来ている人達だったりしますので、なおさら通じます。)
でもこのままではマズイ。コーヒーが注文出来ても、カナダのことも英語も何も知らない。カナダで生き残るためには何をするべきか?
ということで、一番近くの職業訓練系のカレッジへ入学するのですが。確か最初に英語だけのコースを1年間とったのが35才の時、それを卒業してからいよいよ美容系の専門コースを2年間とったのが36から37才。 きつい。
何がきついって、案外と脳ミソはまだまだバリバリ働くギリギリの年齢だったのですが、【怖い】。 新しい環境に入っていくのも、ましてそれが白人だらけの19や20才の若いお姉ちゃん集団の中であるというのも、彼女達の若者英語が早くてついていけないという不安があるのも、インターナショナルスチューデントに比べて半額以下といっても2年間で100万円分の学費が英語力の足りなさにより途中で落第してそのお金を全部無駄にするかもしれないことも。とにかく【怖い】。『失敗するかも知れないこと』が、この年になって本当に怖かったわけです。
ということで入学前にはやはりブルーハーツ
を聴いて、大泣きしながら自分を奮い起こすわけです。
ホントの瞬間は、マジで怖いんです。
で、入学して今までの人生の中でも最強なほどに必死で勉強して、なんとか無事に結構良い成績をとって卒業。 私、頑張りました。
が。その頃はまだ、今のホテルでハウスキーピングの仕事をやっていました。美容系のプログラムに入学する前に、それまで働いていたジャパレスを出て、ここでも勇気を振り絞って「いざカナダ社会へ!」と、職探しをしたところ、夏の間だけでも集中して働いて学費分を貯めようと思ってレジュメを送ったら、今の会社が雇ってくれました。
何社も送ってみましたが、この時は後にも先にもこのホテルだけが唯一そしてすぐに返事をくれました。
カレッジを卒業しても、それでも英語を「話す」のがとても苦手な私は、お客と直接対決しなくてはいけない今の職業には怖くて到底つけないと思っていました。
「あ、無理無理。絶対無理。」
こうなることがわかっていたので、旦那には入学する前からあらかじめこう伝えてありました。
「もしも私が無事に卒業出来ても、その後この仕事に就かなくても、学費は自分で払うから『絶対に』かけたお金のことは言わないでください。」と。
そもそも「自宅で細々とサイドビジネスとして出来ること」が最低限の、そして当時かろうじて目指せそうだった自分への最高の目標でした。
私が臆病者の内弁慶だからなのか、それとも単に年をとって少し知恵がついたからなのか。新しいことをするのも怖いですが、出来るかどうかもわからないことに挑戦する時に「絶対やります! やってみせます!」なんて、もう言えない。 そんなポジティブさ微塵も出てこない。
でも良いんです!それで良いし、それもとても健全だ!
どっちにしたって、やるんです。
いじめと一緒。絶対に諦めたくないんです、自分を。
怖いに決まってる、だって傷つくかもしれない。
怖いに決まってる、だって失敗するかもしれない。
怖いよ、だって格好悪いかもしれない。
それでも良いんです。やるっきゃないんです。
失敗したらお金はパーですが、そこでやらなきゃもう次の機会はないと思った。
年齢を考えたら、ここで2年を学業に費やすということは「子供」という万が一にあるかもしれないチャンスを失うかもしれない、とも考えました、が。
ではこの2年間、欲しいか欲しくないかもわからない、そして出来るかどうかもわからない「赤ちゃん」という未だ見ぬ神のギフトのために、「年齢的に、子供を持たないといけない」という重たい義務感だけで、自分の人生のチャンスを見送るのか。
年齢がすすめば、それだけ自分の中の勇気もさらに必要になってくる。今年行くのが怖いカレッジに、来年や再来年に行こうと思う日がくるのか。
周囲や家族は「あっちに子供、こっちに子供」と騒いでいる(ように聞こえる)が、今の自分達に子供ができたとして、この先この国でどうなるんだ。どうするんだ。
いろんなことを考えてみても、まったく「赤ちゃん」が入ってこられるタイミングではない。てゆーか、この国でちゃんと生きていけるための基盤を築かなければ。
まずは自分と旦那の「生活力」ありき。でないととても子供のことなど考えられるはずがない。私はどうしても、旦那の好きな、そして自分もすっかり好きになってしまった『この国』で、「万が一」のことが起きたとしても私の力で家計を支えられるような仕事力を身につけたかったのです。それが最優先であり、絶対目標。生きねば、この国で。まずは自分達が、生き残らねば。
それに。【怖い】時ほど自分に向き合わなければいけない時だと、知っているのです。 泣けるほど怖くて仕方がないこの【挑戦】も、私が私を諦めないための、越えねばならぬ壁なのです。私の人生の、壁。
自分の未来の可能性を、諦めるだけは出来なかった。ならば挑戦するしかないですね。泣きながらでも。
決断をするために、想像してみました。
今の自分で
①「赤ちゃんを抱きながらあやす自分。英語力、生活力ともに今のまま。将来は、さらにきついか、現状維持が最高点。」
②もしかしたら新しい自分になって、なりたい自分になって、今は想像すら出来ない世界で生きているかもしれない自分。失敗してるかもしれない、でも何も失わない。挑戦した後の、今と同じ現状か、未だ見ぬさらに素晴らしい未来。想像できないから、無限。」
①はなかった。
だって、失敗しても現場維持出来るんだから、挑戦しちゃった方が良いよね。
ということで、挑戦しました。その結果。
今ハッピー。あの頃よりも、超ハッピー。
めでたし。学業編。
続く⭐︎
生きる道
今回は、前回の記事「シンクロニシティ」の続き。
Q. あなたにはどうしても会いたい人が、、、
A. ①居る ②居ない ③来世でよろしく
私がシンクロニシティに魅了されていく前に、読み始めた本があります。
ブライアン・L・ワイス博士の『前世療法』と『魂の伴侶』でした。
当時私は、重症心身障害児者施設(入所施設)というところで指導員(介護と活動のサポート)をしていました。そして人生の全てのシワがそこに凝縮されたような過酷な日々を過ごしていました。はっきりいって、とてもストレスフルでした。
「仕事内容」が辛かったわけではないと思います。ただちょっと、当時の私には『無理』でした。そしてその無理は完璧なタイミングと方法で私を動かすわけです。
今こうして当時よりも少し知恵をつけ、人生に起こる出来事の意味合いが自分なりに少しは理解できるようになってから振り返ると、当時の私はなんていうか、、、『軽装備でチョモランマ向かってる』みたいな危うさ。
生きづらいを通り越して、よもや苦行でしかない日々でした。
これは決して「仕事がきつい」ではないのです。その時の仕事は私に気づきをもたらすのに完璧な役割を果たしただけでした。ワイス博士の本に出会った時、私は25歳になっていました。障害者施設に就職してから3年目、腰にくっついている小さな骨に亀裂がみつかり、腰痛で立てなくなりました。結果、休業を強いられリハビリ入院することに。
でもこの亀裂、実は私がその昔「ジャイ子軍団」(詳しくはいじめの記事を)と闘っていた日々についたであろう、「成長期の過酷な運動による軟骨骨折」だそうで。その時は軟骨なので、痛みを感じないのだそう。人によっては、70歳になるまでまったく気づかず高齢者特有の腰痛や持病のオマケで撮ったレントゲンでたまたまその軟骨の亀裂を発覚することもあるほど、それが原因で歩けなくなることはないという程度のもの。でも私はそれをはるか後の25歳で発見することになり、さらに「スーパーで30分の買い物が出来ない」ほどの腰痛に出会うわけです。
身体的な原因は、不規則な勤務体制と生活により体に過度の負荷がかかったことですが、人生のタイミングでいうならば「スピリチュアルに突入せよ」という時期だったのでしょう。「悲しい」や「苦しい」だけでは到底その後をやり過ごせない時期に来ていたからです。
その施設に就職を決めたのは、当時19歳だった彼が突然死んでしまったからでした。
私が彼に出会ったのは私が21歳の冬の終わり、彼はまだ18歳でした。二輪と同時に受講していた四輪免許の教習で、私の教習所友達である子の付き添いとして遊びに来ていた彼に出会ったのが初めでした。それからずっと良き弟分のように仲良くしていたその彼と付き合い始めた1週間後、私の住んでいたアパートからの帰り道に、彼は帰らぬ人になりました。
衝撃。その一言。
最後に会っていた日の夜中じゅう、彼は人生の話をしてました。これからどこか遠くに行くのがわかっているような、手を伸ばしても掴めないような。隣で話を聞きながら、どうにも出来ない寂しさを覚えました。虫の知らせ、というか空気は全てを知っている、というか。私は何も言えない、言えないけど言いたい、止められないけどどうしても止めたい、でも出来ない、そんな感覚でした。
「次に会うのはクリスマスだね。」「俺めっちゃ楽しみやわ。」という約束をして、彼は帰っていきました。そしてその日はいつも来ていた二輪ではなく、車でした。車なのに、事故で死んでしまいました。
彼の事故や死を通して私はたくさんの「目には見えない何かの力」と、この件から始まるものすごい数の『奇跡』を見ることになります。
見るのだけども、当時の私はまだ、何がなんだかわからない。
わかるのは、「どうにもならない大きな力」があるということだけ。
(彼の名誉のために補足しますと、自殺ではありません。私はこの件で「最後に会っていた参考人」として高槻警察署に呼ばれ、事情聴取を受けました。とても穏やかでまっすぐな対応で接してくださったその道のベテラン刑事さんといろんな可能性を検証しましたが、自殺ではないと断定されました。刑事さんにも掴めない「そこにありそうで見えない何か」にお互い首を傾げながら、その件は「若く悲しい事故」ということで収められました。)
当時のすべての場面場面が、掛け違えることのできない精巧なパズルのように、すべての現象をつくっていました。何も言えない、手も出せない。私はただそこに関わり、登場して、一緒に時間を過ごしたけれども、その時確かにそこに居て存在していた彼は、霧のように消えてしまいました。
臨死体験(NDE-Near Deth Experience)などで言われるような「本人の体験」ではありませんが、私がその時体験したすべてがものすごい感覚でした。
その日から毎日、1年間は毎日泣きました。悲しみの中にあるのだけど、悲しみだけではないいろんなことがわかってきました。
その彼が生きている間に、私をバイト先まで迎えに来てくれたことがありました。その時のバイト先が、この障害者施設でした。彼は大阪に住んでおり、私は京都。施設は滋賀にあり、宿泊施設が完備されていたので、大量の荷物を持ち込んで寮生活をしていました。
その最終日、荷物を全て引き上げなければならないので誰か車を持っている人の助けを、、と考えた時に真っ先に思いついたのが、もう免許もあり実家に住んでいて車もある、その時には19歳になっていた弟分の彼でした。(当時の私は大学生で、周りの友達は誰も車なんて持ってなかったので大変助かったわけですね。)
その数ヶ月後、彼は亡くなります。亡くなってしまった後で、私はどうにか自分の記憶にある彼の断片を全て集めたくなるわけです。「失った」ということを理解するためなのか、したくないからなのか。私の記憶だけが頼りです。
『この脳に刻まれた彼の形跡の全てを、生きていた証を、全てかき集めなければ。そしてそれが消えてしまう前に、安全な場所に保管しなくては。』
そこから「彼の生きた思い出」の全てと、亡くなってからもなお感じられることの出来た「彼の愛」つまり私が見はじめる『奇跡の数々』を探すのが当たり前になる日々が始まっていくのです。
さて、25歳の腰痛の私に戻ります。
しばらく我慢していましたが、腰が痛くて痛くて、日常生活にいよいよ支障が出はじめました。そのため整形外科を受診。すると1件目の医者は恐ろしくふざけた医者で、2枚しか撮らないレントゲン写真を見て笑いながら一言「治らないね。かわいそうに、もう子供も産めないでしょうね」
マジか。 YOU、それマジか。
何がマジかって、診断ではなく、その態度がマジか。え、なになに?ちょっと茶髪で若い女が腰痛で受診したら、何を想像してるかわからんがニヤついたふざけた顔して己は婦人科の知識など到底ないであろうにもかかわらず「子供ができない」まで言及するんか? しかも言い切ったよね?今、言い切ったよね?
今でこそこの医者をうっかり小型ナイフで刺せそうですが、当時はもうショックでショックで。そこで、今度はちゃんとした病院を調べて、スポーツ選手などがこぞって受診しに来ているという京都の病院を訪ねることに。
すると本当のお医者さんがここで私を待っていてくれて、あっさりと「子供無理説」を根拠ある自信と説明で否定してくれます。
そして私は「リハビリ入院」をすることに。
その時に、当時まったく仲が良かったわけでもない同僚から、その人からは思いもよらない本『前世療法』をもらうことになるのです。「これもう読まないからあげるよー」みたいな軽いノリで。
まさかそんな形で回ってきた本で、自分の人生が開けていくとは。
でもそんなものです。いつも大切な誰かが、必ずしも大切なメッセージを運んでくるとは限らない。
人生の節目節目に、こういう「その時限定の名キャスト」みたいな出会いがあるものです。
そうして私は、検査と痛み止めを継続的にあびながら、筋肉痛と闘う「退屈だが体力的にきついリハビリ入院」のベッドの上でワイス博士の『前世療法』と『魂の伴侶』という本を読み始めるわけです。
追記:このワイス博士の本は、「懐疑的だが前世や輪廻転生のことがちょっと知りたい」「スピリチュアル風の強いフワフワしたものは苦手」な人にとてもオススメの本格派スピリチュアル入門書です。博士はご自身が精神科医というバリバリの科学畑で生きてきた方なので、初めて患者が過去生退行した時にはとても驚かれています。そんな博士の数々の実体験を、とても穏やかにそして冷静に書かれた本です。「ありえない」ことではなくて、「実際にフツーにあること」とわかる面白い本です。「苦し過ぎてどうしていいかわからない」「何でこんなに苦しいのかがわからない」「原因不明の痛みがある」「ダメだとわかっていながらもどうしても抵抗できない引力で惹かれてしまう人がいる」「自分の中にはっきりと今世とは別の記憶がある」などがある人にも、何か答えがみつかるかもしれないオススメの作品です。
続く⭐︎